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夏休み自由研究

小学校6年の孫の夏休みも今日まで、明日から新学期だ。。夏休みというと昔息子や娘の時代のことを思い出す。彼らは今孫が通っていると同じ小学校に通っていたのだが、いつも親として、この時期頭を悩ませていたことに、夏休みの宿題のことがありました。

いや算数、国語のドリルとか、読書感想文などはいいのだ。それは学校の先生が指定したこと、指示したことをやればいいのだから、どうということはない。問題はあの「自由研究」というものだ。、朝顔の成長観察記録を作成しなさい、こんな工作をやってみなさいというのならいいのだが、要するにテーマ、問題、その対象がまさに自由、その進め方、、やり方、全て自由というので困るのだ。

昔娘、息子が小学校4年生頃からだったと思うが、毎年夏休みそのことで頭を悩ませた時代がありました。それはどこの親も同じことだったでしょう。

三日前のことでしたが、夕刻丁度私が所要で出かけようと玄関で靴を履いていた時「キンコーン」とベルが鳴ったで出てみると、小学生らしい男女、三人の子ども玄関先にいました。「XXXちゃんいますか、クラスの同級生です」という。それで二階に住んでいる孫に降りてくるよう伝えたのでした。

孫が降りてきて、やあ、やあと話が始まったので、一体なんのことか、ちょっとそれを聞いていたのです。要するにお互い夏休みの宿題、自由研究ができたか、出来たのなら、どんなことをやったのかという情報交換だったようです。

「自分はまだ出来ていいないが、XXX(わが孫)ちゃんは一体どんなことをやったのか」が聞きたかったようです。そのグループの彼ら、自分は出来ていないが、出来た児は一体どんなことをやったのか、聞きたかったのでしょう。

孫は、それにどう答えたか。「まあまだ完成はしていないが、やることはやっている」というよう答えでした。私はそのやりとりを聞いていたが、しばらくして出かけてしまったのでその後のことは知りません。

ただ、うーん、そうか、やっぱり子どもたちにとってこの自由研究なるものが、一つ大きな負担になっていることを改めて認識したのでした。そして今から40年も前の自分の子どもたちの時代と同じだなあ、という感慨に浸ったのです。

その感慨、いろいろあります。一つには折角の楽しい夏休み、最後になってその嫌なことがやってくるのは可哀想かなと思うと共に、いや、それはそれでいい、しかたない、むしろ子どもの教育上必要なことには違いないと思ったということでしょう、

話は少し遡るが、夏休み三週間ほど前に家族で一緒に白馬に出かけたことがありました。息子家族と一緒でした。毎日のように顔を合わせる息子だが、会社に出かける時や帰宅時にちらっと顔を合わせる位、いろいろ話をする機会などめったにないわけです。ましてや子ども、孫の教育問題についての話などゆっくりすることもない。

ところが、その夜夕食後、雑談しているうちに珍しく息子の方から、子どもの夏休みの宿題、とりわけ自由研究のことを話題にした。彼は夏休み前に、学校の担任の先生と面談の機会があって、その時、その先生にずばり聞いたそうです。

これれから、夏休みに入るが、親として一番の悩みが「自由研究」をどうこなしたらいいかです。テーマの選び方をどうするか、そして親がどの程度それに関わったらいいのか、関わらないのがいいのか。親の中にには子どもに代わって殆ど親がやってしまうようなケースもあるようだが、そんなことでいいのかという趣旨のことを聞いたそうだ。

息子によれば、その先生の答えは意外で、「自由研究テーマの選定ということ、それについて親子が一緒に考えること自体極めて大切なことだ。そしてそれについて、進め方について親がどんどん関与することも、大いに結構なこと、関わってやって欲しい。もちろん話し合いで、自分自身でやると決めたことは、出来る限り子どもにやらせることは当然としても」親がいろいろ手伝ってやることは大いにあっていい、という返事だったそうだ。

私はそれを聞いて、それは意外でもなんでもなく、それが当然の帰結だろうというコメントをし、その時はそれで話が終わったのだった。

その結果だったかどうか、分からないが、我が孫に関しては夏休みも比較的早い段階で、それに取り組み始めたようであった。だから私もなんの心配もしていなかった。第一てもしかたがないところだ。

結果として何をどうやったも全然聞いていないし、どんなものが出来たのかも知らないが、それでいいという確信を持っているところだ。

我が家の場合、親子が共通の問題について、しかもそれが何であるかに話しあってやったことはまちがいない。そのプロセスをを経ることこそがまさに自由研究のねらいなのだろうと考えるからだ。

この夏休みの自由研究、子どもにはもちろん如何に親にとって悩みのタネか、関心のタネかということがある。それはちょっとネット検索で「自由研究」と入れてみれば分かる。参考資料にいくつか取り出してみたが、あるわあるわ、あらゆる業界、通信教育関係の企業、学術団体などがこのテーマでホームページを作り、情報を提供している。

それを見て親が簡単にヒントが得られるかというとそれがそうでもない。自由研究のテーマなどまさに無限にあって、要するになんでもいいのである。なんでもいいというか、およそ何を見ても、元々「問題意識」のない人には、なるほどそれが「問題」だ、おもそろそうだと感じることはないのである。

ところがその「問題意識」があれば、何を見ても、特に身近で起こること、現象、事件、などにどうしてそれが起こったか、なぜ起こったのかなど、関心が生じる。問題意識を明確に持つということなのだ。

なにか禅問答のようなことになったが、要するに自由研究の狙いは、その結果を得るということもさりながら、その問題意識をどう持つか、持たせるかが一番重要なことであって、そのために親子が同じテーマで考える、一緒にそれに取り組むということが非常に大切なのだ。そのプロセスなのだ。

私はたまたま孫の小学校でパソコンの課外授業を10年近くやってきているが、この問題意識、自身でテーマを見つけること、いつも自身で問題、目的をを設定してそれに取り組むことが出来る出来ない子どもの大きな違いを痛感している。

毎回の授業で、課題を設定し、はい、これとこれをやりなさいとなると、誰でもがそれをできる。少なくとも一致してそれに取り組める。それはそれでいい。

ところがその課題が終わり、さあこれからの時間なんでも好きなことをやれと言われた時に、その問題意識、目的意識の差が顕著に出てくるのだ。

出来る子どもは、その瞬間、あれこれ指示しなくても、習ったワープロや地図検索のソフトを使っていろいろなことを始める。中にはそれは困る、やめてくれということもやってしまうところがある。ところが指示待ちの子どもは違う。指示待ちの子どもは「先生なにをやったらいいのですか」となってしまうのだ。

ちょっと大げさになるが、この指示待ちマインドの是正、それこそがこれからの日本の初等中等教育の大きなポイントなのであろう。問題は与えられるものでなく自分で発見するものだということの大切さを教える必要があるのだ。

しかもそれは学校のみならず家庭教育においても大切なポイントなのだ。親が子どもにあれこれ指示することは当然必要だ。あっていい。どころがある段階からは自分自身の関心事は自分で持ち、自分で解決するマインド、動機を植え付けることが大切なのである。

夏休みの自由研究の必要性、有効性をそのように考えると納得が行く。それは実は子どもだけでなく、親にとって実は必要な教育なのである。

本件参考資料いろいろあげているが、本件について一番よくまとめているのは朝日新聞の記事であろう。是非全文をダウンローして一通り読んでみていただきたいものだ。

ちなみにこの朝日新聞のケチなこと。その記事まるまる無償でダウンロードするためには結構面倒な手続きが必要なのである。朝日、日経もそうだだが、現段階では新聞記事のすべてにアクセスできないのだ。私は朝日の読者だが、そんな記事など即探せだせない。もう過去の記事をネットで見るには別途カネを払えとやっているのだ。新聞が生き残るためにはそれが必要だという論理だろう。

私に言わせると話は逆だ。すべての記事をどうしてネットでオープンにしないのかである。少なくともそもそも新聞購読者にはである。折角いいことを書いても、それをオープンにしなければ読んでもらう機会を失うだけである。

そもそも問題意識のない人にっとってはどんな記事であれ、その記事の優劣、必要性など感じることはないのである。

新聞が生き残るためにには一人でも多くの問題意識、目的意識のある読者を育てることが先決であろう。それが分かっていないマスコミなどいずれは滅びるのではないか。

余談だが話はそこまで発展してしまった。

tad 

参考資料:
クックパッド自由研究:cookpad 
自由研究学研:gakken 
自由研究KIDNifty:nifty
ホンダの自由研究:honda 
夏休み自由研究、親のNGワードは? 識者に聞く:asahi.com
自由研究連続4年受賞のケース:asahi.com

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