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昨日の朝日新聞一面トップ、「ノーベル文学賞今年は見送り」を報じていた。その選考機関の内紛混乱、不祥事が生じたからだ。ただ今年は見送りで済む話ではない。ノーベル賞の権威、イメージそのものを大きく損ねた事件である。
もう一つノーベル文学賞と並んで、今その選考をめぐって世界的に大きな話題になっているのが、ノーベル平和賞である。こちらもその選考、選考過程が一体どう進むのか、どうなるのか、世界的な注目を引いているところだ。
平和賞については選考する側がどのように選考するのか、それについて一切報道があるわけでない。報道機関、マスコミの単なる噂だの、推測だのがいろいろあったりするだけで、そんなものにいちいち気にもかけなければいいのである。しかし、その大騒ぎを見ていると、まさかと思うが選考委員会、選考機関も案外そうした噂に沿った選考をする可能性もあるのかと大いに気になる。
二流三流のマスコミならともかく、一流を自負するマスコミなら、ノーベル平和賞については、ただただ興味本意の選考でなく、その本来の存在目的、意味に沿った選考について書くべきだ。もっとそのよって立つ基本理念、価値観はこうあるべしという見解を述べるところがあってもいいのではないかと考える。
そのアメリカの二流三流のマスコミの予想では、現段階では、今年のノーベル平和賞の第一候補は、あの韓国・北朝鮮の両首脳で、二番手が、トランプ大統領だそうだ。
あの南北首脳会談の結果、その両首脳、それに乗って早々と米朝会談を決めたトランプ大統領がその有力候補だと云うのだ。
そのトランプ氏、支持者との会合で、ノーベル平和賞を連呼され、まんざらでもない顔で、それに応じている光景があった。見ているだけで、しらけるのは私だけではあるまい。
それが与党共和党の一部から、トランプ氏を推薦しようという提案が出るところを見ると、案外ご本人も、周辺も本当にそう考えているらしいから恐れ入る。
もし一流を自負するマスコミなら、それが誰であるかどうかでなく、本来の平和賞の選考基準、よって立つ基本的理念、価値観はこうあるべきだということについてこの際、論評の一つや二つあってもおかしくない。あるべきなのだ。
ノーベル文学賞選考過程があんなことになったのも、それは選考機関の使命、第三者は一切口出すことでないという空気が出来上がっていたところがあったからだろう。ノーベル賞はある意味世界の権威、世界共通の理念価値が語られるべき時代である。
とにかくごく最近まで互いに罵り合い、戦争も辞さないとやりあっていた米朝のトップ二人が、今度は突然にこやかな表情で平和を語る。その行為がノーベル平和賞の対象だというのだ。しらけない方がおかしい。
南北、韓国と北朝鮮の対立、米朝の対立、そのことを深刻に、真面目に、まともに捉え、その解決策について考えてきた人間ならそうなるのは当然であろう。戦争だけは絶対に避けなければならない。これははっきりしている。ただその中でも絶対的価値観、理念、国家の政治体制の違いからくる断絶をどう解決するのか、調整するのか。その意味内容をもっと考える
べきだ。
とりわけ、なにかと蚊帳の外におかれたという感のある日本の立場は複雑だ。拉致問題を抱えた日本、日本人の立場からすると、未だ拉致という深刻な問題、対立の根本的解決のメドも議論もないのである。それが、いきなりノーベル平和賞などという話が出てくること自体に、どうしてもっと違和感を覚え、腹が立たないのか、立てないのか、私は不思議でならない。
金正恩委員長のあのにこやかな顔を見て、拉致家族の心情、想像を絶するものがある。
今スウエーデンでやっている世界卓球の事件には驚いた。なんと準々決勝まで、別の国として戦ってきた北朝鮮と韓国が、いきなり統一コリアという国になってしまった。しかも準決勝で、日本と戦うことになったのである。前代未聞のとんでもない措置だ。
それを決めた国際卓球連盟会長の言がすごい。「北朝鮮と韓国が平和を目指して統一チームになることの価値は、卓球連盟のルールなど超越したことである。」
これまさに北朝鮮をわざわざ訪問、金正恩に会ったIOC会長と同じ、スポーツの世界に政治を持ちこんだ行為である。スポーツの世界の最も大切なフェアさ、公明正大さを汚す超政治的な判断なのだ。
私は、これについて、こんなことをやってもいいのかと、どうしてもっと大きく世界的批判の声が上がらないのか不思議でしかたがない。
私は密かに、突然韓国でも北朝鮮でもない「コリア」なる団体と決勝をめざして戦うことになった日本女子チームには、なにがなんでも勝ってもらいたいと祈った。大苦戦のあげく、日本がコリアを下し決勝に進んだことを知って、私のこの騒ぎのもやもやが多少晴れたのだった。
どんな世界でも、真の平和は、ことの公明正大さを保証することなく達成できることは絶対にない。
さんざん世界中に不安と恐怖を作り出してきたやからである。それが今やノーベル平和賞候補だと云う。そのように動いているのを黙って見ている世界がある。
一つおもしろい日本の皮肉を思い出した。そうだ、これまさに「マッチポンプ」そのものではないか。ノーベル平和賞なんてとんでもない。欲しければ
一つあげてもいい。「マッチポンプ賞」がいいとこではないか。
ノーベル平和賞のこれから、それは文学賞と同じだ。その選考内容によっては、ノーベル賞自体の権威、イメージを失墜することになる可能性があることを警告しておきたい。
tad
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