み〜ちゃ no うたかた日記

再開とまではいきませんが、時々書き込みます。

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レビューは、原則「ネタばれ」しています!
しかも、かなり主観にそってレビューをしたり、俳優について語ったりしていますので、取り扱いには注意?!
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今年の春、体調崩してブログを中断。そのあと、母の死もあって、映画やDVDを見ることが極端に減ってしまったが、それでも何本かは鑑賞していた。
たとえば、≪第9地区≫や≪永遠の子供たち≫とか。
でも、レビューを書かずにそのままにしていたのは、今から思うとちょっと残念。

と言うわけで、久しぶりに先日みた映画のレビューを、久しぶりに少しだけ書いてみることにした。
さて見た映画は、

≪インセプション≫
D:クリストファー・ノーラン
A:ディカプリオ、渡辺謙、トム・ハーディ、マリオン・コティヤール、キリアン・マーフィ、エレン・ペイジ等々

あらすじ:他人の夢の中に侵入し、アイデアを抜きとる商売をしているコブ(ディカプリオ)。ある日、サイト―(渡辺謙)の夢に侵入し失敗するが、逆に彼から依頼を受ける。その依頼とは、ライバルの大企業の会長の息子の夢に侵入し、彼の父から引き継ぐ会社を分割するというアイデアを植えつける(インセプト)すること。
アイデアを盗むのではなく、インセプトするのは不可能ともいわれていたが、コブは、引き離された子供たちに会いたいがために、その依頼を引き受け、早速チームを作り、3層の夢の世界を作り上げる計画を練り上げ、いよいよ実行に取り掛かる。しかし、コブには自らの夢に妻の幻影が付きまとうという問題を抱えていた。さて、その問題を抱えながらも、夢に深く潜り、インセプトに成功することができるか?!

■たしか2時間半近くの大作だったけど、あっという間に感じたほど、集中して見てしまった。
途中、アクションシーン等、若干だれることはあったにしろ(ノーラン監督は、アクションの撮り方がうまくないと思う)、話運びが絶妙で、次の展開がどうなるのか、ついつい見入ってしまった。

とはいえ、このことは、「話運び」のうまさであって、「話」それ自体のうまさに直結はしないようにも思う。
実は、映画を見ながら、ひっかかるところは少なからずあった。でも、話運びが巧みなので、それらは一応置いておきながら最後までみてしまったのだが、見終わってみると、その引っかかりを思い出してしまい、釈然としない部分も少なくない映画なのだ。

■しかし、この映画が一見の価値のあるものであることは、間違いない。

まずは、階層的な構造を持つ夢というアイデアだ。
その階層性、そして夢の共有という仕掛けをフルに使った「話運び」のうまさは、この映画の肝になっていると言ってもいいだろう。

夢の映像化も、また素晴らしい。
もちろん、夢って、こんなにクリアではないという見方もあるかもしれないが、この映画での夢とは、単なる夢ではなく、実は現実以上に豊富な情報量をもつ夢の可能性に注目し、その可能性を極限に追求して構築した「夢の世界」であるとみなしたほうがよいだろう。
つまり、この映画は、そうした夢の力を現実での生活以上に重視している世界での出来ごとなのだ(会長の息子が、夢への侵入からプロテクトする訓練を受けているような世界なのだ)。

■というわけでこの映画も、夢と現実のどちらがリアルなのか、現実に生きることと夢に生きることとの、どこに違いがあるのか、そもそも生きるとは何か、現実でも夢でもリアルに感じたほうが生きるべき場なのではないか等々、ノーランらしいテーマがぷんぷんする映画であり、その点は面白かったのだが、どうも、そうしたテーマそのものが十分に追求されていたというよりは、むしろ、夢の構造の面白さや映像化の妙などに、力点が置かれてしまったような気がする。
簡単にいってしまえば、エンターテイメント性に引きずられてしまったというか・・・。

そしてこのことが、先にも述べたように、ストーリーの詰めやキャラ設定等に引っかかりを感じてしまうことにつながっているように思われるのだ。

■たとえば、渡辺謙の役サイト―。
彼の実態は、実は不明なのだが、かなりの大物ということになっている。しかし、そんな大物が、コブの仕事の現場に同行するだろうか?
そして、そもそも渡辺謙のたたずまいや演技(肩幅狭くて貧相・・・)には、あまり大物感が感じられず説得力に欠けるので、私は彼が出てくると、ちょっと集中力がそがれてしまった。

また、そもそもインセプションなどという不可能に近い任務の依頼目的が、企業の解体なんて・・・。
いや、企業の解体それ自体が問題なのではなく、もしそうであれば、他の方法をとったほうが、より確実で、しかも安上がりだったのでは?とも思った
それに、インセプトするアイデアのもとになるのが、父・息子の確執だなんて・・・・。それならば、もっと確実に、息子をたらしこむ技はいくらでもあるだろう。

つまり、夢へのインセプションという「大技」の枠となる物語が、あまりにもチャチで、ときどきふと我に返ると、あれ?という疑問が出てくるのを抑えきれず、集中力がときたま阻害されてしまうのだ。

こんな問題、誰もが指摘できそうな点なのだから、なぜノーランは放置したんだろう?
映画は、枠がしっかりしてこそ、見ごたえがあるというのに・・・。

(まあ、映画ラストの解釈と関連して、「すべてがまだ夢の中」「結局は子供を取り戻したいが故のコブの夢の構築」という見方をすれば、こうした疑問も吹っ飛ぶかもしれないが、それはどうかな〜)

■とはいえ、夢の階層化や、2層目の夢の中での浮遊シーンなど(3層目の雪山シーンはあまり面白くなかったなぁ)、今でも時折ふと思い出してしまうシーンもあり、特に大画面で見ると、後を引くかもしれない。
その意味では、みて損はない映画と思う。
ディカプリオや渡辺謙の演技はちょっと首をひねる部分はあったが、他の役者はいい。特にトム・ハーディと、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットの二人はいい。
(私の好きなキリアン・マーフィは、相当演技を抑えていたような・・・)

話運びも、意外とシンプルで丁寧だったので、映画好きな方は、一度ご覧になってください。
あと、ハンス・ジマーの音楽が、ムードを高めてくれます!

【映画】天国と地獄

さて、1日に2本連続で見たDVDの2本目は・・・・
イメージ 1≪天国と地獄≫
D:黒澤明
A:三船敏郎、仲代達也、三橋達也、山崎努
あらすじ:ナショナルシューズの重役・権藤は、他の重役たちと権力闘争の瀬戸際にあった。その時、彼の息子とを誘拐したという電話が入る。すぐにその誘拐は、息子ではなく、息子と遊んでいた運転手の息子が間違われたことが発覚するが、犯人はそれでも同様の金を要求した。権藤は、自分の窮地との板挟みになるが、金を払うことを決意する。そして特急第二こだまで、その受けわたしが行われることになるが、犯人側は、まんまと警察の裏をかいて成功した。子供は無事に戻ったものの、権藤は重役の地位を追われ、犯人は捕まらない。さて警察は犯人を追いつめることができるのか。
1963年作品。この映画が封切らてすぐに「吉展ちゃん誘拐事件」も発生しており、当時の世相もビビッドに反映されている。

■や〜、すごいな。
脚本も映像も、計算尽くされているというか・・・・たとえば、冒頭から身代金受けわたしのこだまのシーンまで、ほぼ3分の1以上だろうか、ずっと権藤家のリビングが舞台で、カメラはほとんど外に出ないなんて!

その限定された空間で、権藤の置かれている立場、仕事および家族関係、誘拐事件発生、その間違いの発覚、警察の動き、警察官たちの権藤家への印象やその変化まで、手に取るように浮かび上がるし、その緊張感のすごさ!
見ているほうも、役者の表情どれ一つとして見過ごせないほど、画面にくぎ付けになってしまった。

そうした緊張感は、かの有名な特急列車での受け渡しシーン(これは本番1回限りの撮影だったという)などにも表れているし、また、リビングから列車の場面への転換や、犯人の暗い狭い部屋の窓から権藤家を見上げる図などの、場面展開や構図の巧妙さにも衝撃を受けた。

■本当にこの映画には、見どころが多い。

警察の捜査会議の場面なども、たんなる警察の捜査手法というだけでなく、この場面で、観客に犯人に結びつく手がかりが開陳されることによって、その後観客自身も推理に参加できるという、ミステリーのだいご味を一気に味わうことができる仕掛けになっているのだ。

こうした場面の積み重ねがあるからこそ、ラスト近くの警察の追跡シーンがいやがおうにも盛り上がっていく。
その過程で、犯人が偶然権藤を見かけ、たばこの火を借りるシーンがあるが、これも心憎い。
そして、犯人の逮捕の場面では、花が咲いて、善悪、陰陽を際立たせるという、黒澤お得意の対照法だ。

また、ラスト場面も、印象深い。
実は、それまで犯人(山崎努)は何度も姿を出し、そのいら立ちなども表現しているのだが、声に関しては、誘拐の電話以外には、直接発していないのだ。
ところが、死刑判決を受けて権藤に面会する最後の最後に、はじめてその体から声を発するため、その説得力は重い。

そこで犯人は、強がって自己正当化しようとする言葉しか発しない。
しかし、体はそれを裏切って震え始める・・・その様子をじっと見る権藤。
これだけで一つの人間ドラマになるようなシーンだ。そして、権藤の目の前で、面会終了を意味するシャッターが降りて、この映画も終わるのだ・・・。

■他にも、ひとつひとつのシーンを再現したくなるほど、濃密で完成されたシーンの連続だったと思う。

役者もよかった。運転手の青木役が、ちょっと大根だったけど(まあ、それゆえ、この青木に感情移入できなかったのが、逆にドラマの焦点を明確にしたので、けがの光明かな・・・。
有能かつ情熱も併せ持つ刑事の仲代達也も、その相棒でちょっと柄は悪いが有能なはげでメタボな刑事役の人も、権力に弱く自分のことしか考えない部下の三橋達也も、自らの境遇に理不尽ないらだちを感じて八つ当たり的な思いを育ててるインターン&犯人の山崎努も、みな、よかった。
一人ひとりが生き生きしていたなぁ〜。

ただし、主役・三船敏郎について一言。
もちろん、彼の演技は、この映画でも、その豪快さと人間味が絶妙であり、画面にいるだけですごい存在感をかもしだしてた。そしてその存在こそ、この役にはぴったりだと思った。

しかしそれって、逆に、三船には主役以外にはできないのではないか、という気もしてきた。
本当に、三船敏郎って、不世出の役者だったんだと思うし、黒澤映画も彼なしには大成しなかったのかもしれない。でも、だからこそ、黒澤と袂を分かったんだろうとも思う。
その意味では、この映画は、三船敏郎の存在感とそれゆえの業にも、つい思いを巡らせてしまうほど、彼の魅力も全開になっている作品であった。

■確かにこの映画は、思弁的・思索的な作品ではなく、むしろ、娯楽大作だ。

しかし、人間の行動がしっかり描かれているから、自分もその場面に実際に置かれているような感じになってしまうほどの説得力にあふれている。
そのうえ、推理の道筋もしっかり&緊張感あふれる話運びで、どうあの犯人にたどり着き、どのように逮捕するのか、という意味でのミステリー的な要素もきちんと森子と揉まれているのだ。

娯楽映画って、こういうものをいうんじゃないだろうか。
娯楽作品だからこそ、手を抜かないでほしいのに・・・。見終わって、昨今の映画のふがいなさが逆に際立ってしまったようで、この映画の感想とは別の次元で、がっかり、という思いも生まれてしまった。
邦画が最近ひどいという話はよく聞くけど、洋画でも、これほど作りこんだ作品って、そうお目にかかれないよなぁ。

■というわけで、きっとこの映画を語ろうと思ったら、それこそ何日もかかってしまうほど、見ごたえのある映画だし、とにかく面白い!

きっとこういう映画を見ると、映画を見る目だけでなく、人生の「天国と地獄」とは何か等々、基本的な何かも学べる気がするんだが・・・とにかく一人でも多くの人に見てもらいたい映画である。
143分、ちょっと長いかもしれないが、じっくり見てはいかが?
(私も、もう一度見てみることにしよう!)

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昨晩、DVDを立て続けに2本見てしまった。何を考えているのやら。
おかげで変な夢は見るし、今日は1日だるいし(でも年度始めなので職場は穏やか〜)・・・。でも、午後からようやく晴れたので、復活!
というわけで、とにかくレヴューをしておこう。まず1本目。
イメージ 1≪レディ・イン・ザ・ウォーター≫
D:シャマラン
A:ジアマッティ、プライス・ダラス・ハワード
あらすじ:クリーヴランド(ジアマッティ)は、若干どもりのある中年男で、とあるアパートの管理人として、住人たちの雑用に明け暮れていた。そんなある日、アパートのプールで夜中に泳いでいる少女を発見する。彼女はストーリーという名で、「海の精」ナーフとして「器」を探しに来たのだ。初めは戸惑っていたクリーブランドも、住人たちの助けを借りながら、彼女の「器」を見つけ出すことができた。ところが、彼女を狙う獣が、彼女の帰還を阻止し殺そうとする。はたしてクリーブランドは、ストーリーを無事ナーフの世界に戻すことができるのか。

■まず、この映画、ゴールデン・ラズベリー賞の作品賞を受賞しているんだよねぇ。
それほど、評判が悪いというか、「悪評」の高さで有名な作品だ。

そもそも、シャマラン監督作品は、最初の≪シックス・センス≫は大当たりだったのに、その後は、どんどん評判が下がっていることでも、よく知られているだろう。
監督がシャマランというだけで、「もういいよ」と言う人は少なくない。

でも、その一方で、いくら評判が悪くても、何度もがっかりさせられても、彼の映画を見捨てず、どこか彼の作品の雰囲気が好きというか、憎めないという人も多く、実は、私もそのひとり。
というわけで、今回も見てしまった・・・。

■で、その結果だが、やはり一つの完成した映画作品としては、首をかしげざるをえないところは多いものの、やはり、なんか憎めない作品だった。
なんといえばいいのかな、肌にしっくりくるような感じなのだ。

その雰囲気は、とても言葉にしづらいのだけど、ひとつは、シャマラン映画でおなじみの閉鎖空間にあると思う。
彼の映画の舞台は、いつも狭く、少数の登場人物だけで充足しているような世界だ。それは、外の世界から隔絶されているというよりも、外の世界を想像させないと言ったほうがよいだろう。

それって、まさに虚構であり、嘘ではある。
でも、そもそも映画作品自体が虚構であるなら、その虚構性をむしろ徹底的に利用していくことによってリアルに到達するということもあり得るのではないか・・・そして、彼の閉鎖空間へのこだわりとは、そうした虚構性を意識的に反映したものであり、その意味で、彼は、スクリーンという虚構の映画空間を用いて、いかに豊饒な物語を作り出していくかという情熱に取りつかれているようにも思うのだ。

実際、そうした舞台設定が功を奏したのは、≪ヴィレッジ≫や≪サイン≫であるだろうし、逆に、そうした設定しかできないのに(?)、外の世界の広がりを設定に入れてしまった≪ハプニング≫は失敗してしまったんだろうと思う。
一方、≪シックス・センス≫も、実は舞台設定は小さかったが、話の設定自体が、その小ささを感じさせない作りだったので、大衆受けもしたのだと思う。
(そもそも、シャマランの真骨頂って、ラストのあっと驚くようなどんでん返しにあるのではなく、こうした狭くて小さな物語がもつ豊饒さにこそあるんだと思うんだけど・・・)

■前置きが長くなってしまったけど、この作品も、アパートという世界に限定された物語であり、そこの住人たちだけで話が作られており、まさにシャマラン節全開という作品だった。

しかも、なぜ住民がナーフに疑問を持たないのか、ストーリーの裸にクリーブランドは平静でいられるなんて等々、通常の映画では、おいおいと突っ込みを入れてしまいたくなるような設定ばかりで、まさにこの世界を一歩離れたら成立しないというお話だ。

それゆえに、そうした設定が好きな私が、この映画を憎めるはずがないのである。

■そしてもうひとつ、この映画では、ナーフの少女の名前が、ストーリー、つまり「物語」であるということは、意味深である。

そのうえ、(彼女が無事に役割を務めて帰還するという)この映画の骨子は、ご丁寧にも映画の中で中国系アメリカ人母子によって昔話という形で語られるし、その昔話に沿って、ストーリーを手助けするキャラ達が配置され行動し、そうしたキャラ達の行動によってストーリーが帰還を果たす(=ストーリーがが完成する)という念の入り用。
「ストーリー」が、何層にも繰り返されているのだ。

つまり、この映画は、ストーリーというものに対する監督の考え方をあらわしたものであり、それは、いわば自己分析・自己批評、ある種のマニフェストであるという見方もできるだろう。
実際、この映画では、住人の一人として、映画批評家まで登場させて、昔話のストーリー化(=脚本化)をさせているが、結局はそれが見事に失敗して、獣に食われてしまうというオチになっている。
これは、シャマラン監督の、批評家への皮肉とも見える。

というわけで、この映画は、確かに「海の精が、危険を顧みず、馬鹿なことばかりをしている人間を諭しにくるという、大人向けのファンタジー」という枠を使いながらも、監督自身が自分のストーリー作り(のやり方・考え方)をそのままダブらせ、パロった映画なのだ。

■その意味では、シャマラン好きには、ちょっとたまらない映画かもしれないが、と同時に、ちょっとやりすぎかな、という気もした。
いや、もう少し脚本が練られて、この二つの筋がもっと有機的につながっていたら傑作になったかもしれないが、中途半端だったために、後者の意図が鼻についてしまったと言ったほうがよいだろう。

それに、映像やその編集も、金や時間がなかったのか、素人目にも、中途半端な構図やつながりの悪さなどが気になって(なぜ後姿が中途半端に画面にあるのか、とか)、集中力がそがれてしまうこともしばしば。
もう少し脚本を練り上げて、丁寧に映画を撮ってほしい!

■実は、役者は皆、なかなかいい雰囲気を出しているんだよね〜。
(その意味でも、ちょっと残念)

特に、ストーリー役のプライスは、正直美人かと言えばよくわからないのだが、その白さや皮膚の薄さも含めて、人の美を超えた存在感を醸し出していたし、ジアマッティも腹の出た自信喪失の中年男を好演。
他にも、蝶々おばさんやら、中国系の女子大生など、いい味出していたな。

また、自作に出たがりのシャマラン監督自身が、いつも以上に重要な役で出ていて、意外とハンサムで演技ができることも発見!
とはいえ、この役(ストーリーの「器」として選ばれ、社会に警告を与える本を書く人物!)、監督本人がやってしまうと、あまりにも臭いというか、自己言及・自己正当化が過ぎるというか、(シャマラン好きの私でさえ)やりすぎなんじゃないの?と思った。
実際、彼はこれでゴールデン・ラズベリー賞の助演男優賞も受賞しているんだよね。

■本当に長々しくなってしまったが、この映画、シャマラン好きでなくとも、広〜い心と軽〜い気持ちで見ると、意外と見られるんじゃないのかな、と思ったが・・・。
いやいや、でも、あの化け物のシーンで、たいていの人が、あちゃ〜と思ってしまうかもしれない。

どうしてシャマランは、ほかの映画でも、あんな化け物を多用するんだろう?意図があるのかな?でも、どんな意図があるにせよ、あまり伝わっていないように思えるし、もう化け物に頼るのはやめたほうが良いんじゃないだろうか・・・。

というわけで、数少ないファンをこれ以上少なくさせないためにも、もう少し、じっくり映画を撮ってくれ〜、シャマラン監督!
今日は、よい天気になるはずではなかったのか?

今日の仕事は外回りで、京都の仕事。しかも、午後から夕方にかけてなので、午後3時までは自由の身!
というわけで、かねてより懸案の映画を見ることにした。
で、今は、その映画も終わり、仕事まで昼食を兼ねて休憩している最中だが、外を見ると、また雨だ。
それでも時々陽が差し込み、よくなっているんだろうとは思うけど・・・。
とにかく空気が冷たく、せっかくの京都も、そぞろ歩きっていうわけにはいかない。

で、先ほど見た映画のレヴューをしておくことにした。さて見た映画は・・・
イメージ 1≪カラヴァッジョ:天才画家の光と影≫
D:アンジェロ・ロンゴーニ
A:アレッシオ・ボーニ
あらすじ:16世紀、ルネッサンスもすぎ、ローマはスペイン派とフランス派が争い、貧困や暴力がはびこり、政情不安定な世界になっていた。そこに、北部出身の画家カラヴァッジョが、画家としての夢を求めてやってくる。死にとりつかれ、激情的な彼は、多くのいさかいを起こし、女性たちを愛しながら、これまでとは違ってモデルを使ったリアルな絵を描き、デル・モンテ枢機卿の庇護を受けながら評判を高めていく。しかし、聖人は聖人らしく描けという教会の圧力に常に悩まされながら、ついに暴力事件を起こした彼は、ローマを離れ、ナポリ、マルタ、シチリアへと流れていく。その時々の場所で、彼は絵に対する情熱を捨てずに描き続けるが・・・。

■さて、この映画は、今年カラヴァッジョの没後400年記念の作品である。
今年、イタリア(ローマ)では、大規模なカラヴァッジョ点が開催されているし、日本にも、今、ボルゲーゼ美術館展の中で、彼の作品が来ているはずだ。
ネット上でも、いくつか彼の全作品が見られるバーチャル・ミュージアムが立ちあげられていると聞いている。

さて、今や、ことほどさように、イタリアでも人気のカラヴァッジョだが、その人気はせいぜい20世紀後半になったからだという。
彼の作品は、まさに光と影の絶妙さが魅力的で、バロックのさきがけではあるのだが、多くのバロック作品のように神秘性や幻惑性を感ずるというよりも、より現実的で地に足のついた印象があり、そのあたりが、思弁的・理念的な観察眼からは、俗っぽく見られたのかもしれない。

とはいえ、今や彼への評価は、彼自身の作品についてはもちろんのこと、その後の多くの画家への影響力や、静物画などにみられる非常にリアルな視線など、さまざまな側面から考察されており、何よりもローマっ子をはじめとしてイタリア人にとても愛されている画家だ。

私も、ローマに滞在していた時、彼の絵がある教会に何度も出かけて行っては、うっとりと眺めていたものだ。
このブログでも、カラヴァッジョについて、一度記事を書いたことがある。

■さて、そういうわけで、この映画上映されているという話を聞いてからは、見てみたいとずっと思っていた。
で、今日、ようやく鑑賞できたわけだが、その結果は、なんだかなぁ〜。
正直言って、ちょっとがっかり。

冒頭の船のシーンからして、しまったぁ〜!と思った。 
何しろ、チープなのだ。それに、このシーン、カラヴァッジョがマラリアで死にかかっているところなのだから、もう少し衰弱していろよ、と突っ込みを入れたくなるほど、役作りも中途半端。
それに何といっても、あの黒い馬に乗っている死神・・・あまりにチープな発想と絵作りで、ちょっと苦笑いしたくなったほど。
これって、映画というよりも、テレビドラマだろう。(実際、テレビ局の制作だが)

全体を見終わっても、お金がなかったのかな、とも思ったし、でもカラヴァッジョの没後400年だから伝記ドラマでも作ろうか、ってな具合に、やっつけ仕事で制作した感じがありあり。
まあ、自宅でソファにでも座ってテレビを見ているなら、よくできた作品と言えるだろうが、これって、映画作品としてみると、残念ながら、なんだかな〜的な作品になってしまった。

■何しろ、この映画でもっともよかったのは、彼の絵の部分。
しかも、彼が描いている場面や、絵が飾られているという場面ではなく、彼の完成作品だけが映し出されているところ。
つまり、動画としての映画は完全に、彼の絵に負けてしまっているのだ。
まあ、それほど彼の作品がすごいということにもなるのかもしれない。

とはいえ、実は、彼の作品をそれほど魅力的に映し出してもいなかったことも付け加えておこう。
ちょっと面白かったのは、冒頭のシーンで、彼の作品が次から次へと、回転しながら紹介されるシーンだけ。この回転の仕方は、カラヴァッジョの絵の特徴をよくとらえていたと思う。
あとは、絵は、せいぜい絵の背景やこぼれ話(モデルは誰か?など)のネタくらいの扱いしかされていない。

■そもそも、いわば静止画の絵と、動画の映画では、メディアの在り方が違うと思う。
それゆえ、絵(あるいは画家)を、映画化するということは、実は思っている以上に難しいのかもしれない。

その点では、ゴヤの映画≪宮廷画家ゴヤは見た≫は、絵の何を(どの点に焦点を当てて)映画化するのか、非常に明確な考え方があったためか、好感のもてる作品になっていたと思う。

でも、今回のこの映画は、とにかく没後400年というイベントのためだけに制作され、カラバッジョや彼の絵をどう考えるかについては、それほど深めずに映画化してしまったのだろう。
それゆえ、ただ、カラバッジョの人生をただ追うだけになって、彼の光へのこだわり、死への妄執、市井の人間性への共感などが、どれも中途半端になってしまった。彼の絵が、美しく映像化されなかったのも、そのためかもしれない。

まあ、マリオとの関係など、面白いところもあり、振り返ってみると、カラバッジョの周囲の人々も興味深く描かれている。
もっとキャラを優先させて映画をつくれば、そのあたりが生きてきたとは思うけど、やはりこの作品は、一監督の個人的な映画作品ではなく、あくまでも「記念作品」ということで、当り障らなくしかできなかったのかな。

■とはいえ、この映画で、カラバッジョのことを知る人が出てくるのは、ファンとしてもうれしい限り。
この映画を見て、興味を持ち、もし機会と余裕があるなら、ぜひローマで彼の作品を見てほしい!
(ローマ以外にもあるけど、ローマに一番集中している)
ミケランジェロやダ・ヴィンチなどとはまた違った感動を得るはずだ(と、思う)。

まあ、私としては、ちょっとイタリア気分が味わえた半日だったかな。

【映画】ゼイリブ

今日は絶不調だったので、陽のあるうちからDVDを見た。かなり昔だが、一度見たことのある映画だったので、軽〜い気分で鑑賞。
さて、その映画とは・・・・
イメージ 1≪ゼイリブ≫1988年
D:カーペンター
A:ロディ・パイパー
あらすじ:省力してもいいが、一応・・・。
ネイダは、いつか陽の目を見ようとは思っているが、今は肉体労働の毎日。職をなくして西海岸へとやってきた。そこで職と宿にありついたが、近くの教会でおかしな光景を目撃する。その翌日、警察隊がやってきて、教会とネイダがいたテント村を蹴散らした。不信を感じたネイダは、教会に戻ってそこでサングラスを見つけた。そしてそのサングラスをかけると、そこには人間の格好をした「彼ら」の姿が見えるではないか!「彼ら」は、電波や広告を使って人間を洗脳しようとしていたのであり、教会にいた者たちは抵抗組織だったのだ。ネイダは、「彼ら」と戦う決心をするが、はたしてその勝算は?味方はいるのか?

■今回、久しぶりに見返すにあたって、この映画、1988年という、意外にも最近の映画であったことに驚いた。少なくとも1970年代の作品だと思っていたのに・・・・
いや、実際に見ても、とても20年前の作品とは思えないほどチープな感じで、たぶんそのせいで70年代映画だと思ったのだろう。

でも、そのチープさって、まさにカーペンター印と言ってもよいものかもしれない。
サングラスをかけるとエイリアンが見えるという抜群(?)のアイデアと、その裏腹に突っ込みどころの多さ!
そもそも、エイリアンにあれだけの技術があるなら、洗脳のやり方も、もっと効率的にできるんじゃないかとも思ったし。

とはいえ、その突っ込みどころも、その裏に、現代社会批判があるから、ご愛嬌になっている。
つまり、カーペンターっていう監督は、いわばヤンキーで、ワン・アイデアの出たとこ勝負で、お馬鹿なことも好きだけど、自分なりのポリシーや批判眼はちゃんと持っており、それをストレートにシリアスに提示するというよりも、エンターテイメント性を決して忘れないという、まさにB級監督の鏡のような人なのだ(と思うのだ!)。

その意味では、主人公の俳優が、元プロレスラーだと配役も、カーペンターらしい。
しかも、その主人公がダチと殴り合うシーンの長いこと!
これって、サングラスをかけるかかけないかの殴り合いだったのだが、男(男の子)って、こんな詰まんないことでも意地を張って、じゃれあうんだろうな〜。
それに、孤立無援の主人公が味方を得るためには、そうそう簡単ではなく、まさに全身をかけてぶつからなければならん、という、カーペンター師匠からのメッセージと見たが・・・(冗談)

とにかく、他にも、エイリアンの瞬間移動技術のいい加減さ、サングラスやコンタクトをどこで作っているのか、ネイダの安易な逃亡劇など、突っ込みどころは満載だし、主役が元プロレスラーということもあってか、演技もぎこちなく、全体的にチープな雰囲気が漂っているし、総合的に見れば、あちこちぎくしゃくしているのだが、とっても魅力的な映画であることは間違いない!

■それに、今回久しぶりに見て改めて感じたのは、この映画で描かれていた社会状況が、現在ではますます現実化しているのではないかという点だ。

映画は、ネイダがサングラスで見ると、広告等の文字には、実は、「従え」「権威に逆らうな」「テレビを見ろ」「消費しろ」「結婚し子供を作れ」「考えるな」「自立するな」「眠っていろ」という言葉がサブリミナル的に(?)書き込まれていたという設定をとっている。
でも、それって、広告そのものの本質を突いていないだろか?

この仕掛けは、映画が出た当初、いわゆるサブリミナルとして話題になった。
ただしより本質的な問題は、そのサブリミナル効果という仕掛けそのものだけでなく、その内容であり、広告そのものがサブリミナルのマンマであるという点だ。
実際、上のような洗脳の文言って、今の私たちの社会では、すでに浸透してしまっているものではないだろうか。
テレビやネットに支配され、消費、消費という慾に煽られ、唯々諾々と従い、しかも、そういう自分たちにもはや疑問を持つことはない・・・・

この映画が、メディア支配や拝金主義(映画では、お札には「これは神である」と書かれていることになっている!)、消費社会を告発したものであることは、よく知られているが、その映画から20年後の現在、その状況はすでに当たり前のこととして浸透し、今やこんな映画すら制作されなくなっているのかも・・・とするならば、恐ろしい。
我々は、みなエイリアンとなったのか?

■いや、みながエイリアンになれないことも、この映画はきちんと言っている。
いわば「名誉」エイリアンになれるのは、エリートだけなのだ。

だから、この映画の冒頭は、不況で失業が深刻になった状況から始まっている。
エリートたちのいる高層ビルの周りに広がるスラム街、そして、そのビルを建てているのはスラム街に貧困層という映像だ。この最初のシーンをみて、私はまさに現在の社会状況ではないかと思った。
つまり、この大衆商業主義社会は、人々の欲望を満たそうとしているふりをしながら、満たされるのはごく一部で、結局、格差しか生まないのだ。

これって、今あちこちで指摘されている格差問題や、グローバル化問題そのままだ。カーペンターは、20年前にすでに、明確な形で映像化していたなんて・・・
その意味でも、この映画は、今こそ再見されるべき映画ではないだろうか。
B級エンターテイメントなのに(失礼!)、いろいろなことを考えさせられた。

■まあ、そんな面倒なことを考えなくとも、サブリミナル効果で話題になった作品だし、エイリアンの地球侵略というプロットの作品の一つしても、一度は見てみて損はないはず。
とはいえ、チープな作品はちょっと嫌い、という方は避けてください!

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