み〜ちゃ no うたかた日記

再開とまではいきませんが、時々書き込みます。

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■イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』より引用:

 私たちがお互いに人間であることを承認するのは、あくまでも私たちが持つあれこれの差異、個人性、来歴・・・そういったものの中においてなのだ。

 私たちは人間一般の普遍性の中に、自らのアイデンティティを認めることはできない。要するに、人類愛などというものはないのだ。

 あるのはただ、他のどんな時でもなくこの時に、この特定の人格があの特定の人格に対してささげる愛情だけだ。

■この不調はもう数カ月続いている。
なかでも、人との距離がとれなくなりつつある。昨日は、仕事場で本当に息苦しさを覚えた。その上、母親の問題もあり、家族との関係にも煮詰まりを感じている。

私は、誰として、あの人たちと付き合えばよいのか?
あの人たちは誰なのか?肩書き?役職?家族役割?・・・・それとも、固有名詞のあなた?あなたは誰?
そんな気分を根本から見直したくて、『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』のページを久しぶりに繰ってみた。

■戦場においてさえも、直接顔を突きあわせた相手を、人は殺せなくなると言ったのは、レヴィナスだったか。

となると、殺伐としつつある今の世の中、人は互いにちゃんと顔を突き合わせて生活をしているのだろうか?少なくとも、生活の一部でいいから、そうした互いの個性を尊重する付き合いをしている部分があるのだろうか。
私は、最近、相手を固有名詞の人物として接しているだろうか、相手の顔をきちんと見ているだろうか・・・

なんだか、今やそんなことは一種の「贅沢」であり、「余裕」が極端に無くなり、人々はみな微妙な個性を削り取られ、効率的に指標化された何ものかに還元されつつあるように見える。
少なくとも、私の周囲は、私も含めて、そんな雰囲気が色濃い。
そして、この閉塞感も、そうした状況が生んでいるような気もする。

■私一人で、そんな雰囲気を変えることなどできはしない。
その背後には、大きく複雑な社会構造が横たわっているのだろう。

でも、たとえば、この「政権交代」という事件が、何かが変だという世間の共通の思いの爆発であることに間違いないならば、私も一歩、先に進んでいこう!
どんなに閉塞的な時代でも、「事件」は起きる。

そう、安全な籠の中に自分を隠してグズグズしているのではなく、未来の自分を解放してあげようではないか!
元気になれ!私!
少なくとも誰かが変われば(私が変われば)、少しは変わる!
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■「利潤」とは、価値体系と価値体系との間にある「差異」から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。

■資本主義、それは、資本の無限の増殖を目的とし、利潤の絶えざる獲得を追求していく経済機構である。

■しかし、利潤が差異から生まれるのならば、差異は利潤によって死んでいく。
資本主義とは、それゆえに、常に新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない。
いわば、永久運動的に運動をせざるを得ない、言葉の真の意味での「動態的」な経済機構である。

■もはや搾取すべき遠隔地も労働者階級も失いつつある資本主義にとって、残された道はただ一つ、内在的に差異を創造するしかない。

これが、革新イノベーション。革新に成功した企業はこのような他の企業に対する相対的な優位を搾取することによって利潤を獲得することになる。しかし、それは模倣される。ゆえにまた新たなイノベーション・・・。

■このイノベーションは、いわば「未来という遠隔地」であると言うこともできる。
この未来という遠隔地が、模倣によって常に距離を縮められながらも、同時に常に再生産が可能であり、実際革新によって不断に再生産され続けている。
・・・閉じられた空間から開かれた時間への転換、それは何か決定的なことであった。

岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』

************
利潤は差異から生まれる・・・・このテーゼは非常に明快である。
特に現代の市場のエネルギーのもとは「差異化」にあると言っても良いのではないだろうか。
徹底的に差異化し、そこから絞れるだけ利益を得る。そうした過剰な差異化は、同時に、私たちの生活をも差異化し、ゆえに私たちの生活は細切れで短期的で、まさにポストモダン的になっているが、そうした差異化とは、私たちの欲望の一つの側面なのかもしれない。

しかも、そうした差異化が、市場や経済ばかりでなく、管理社会化の現状などを考えると、我々の日常の隅々まで浸透しているようにも見える。
そもそも私たちは、こうした経済のあり方を何の疑問もなく受け入れ実行しているということは、私たちの行動様式そのものが、経済的であり、ゆえに社会の隅々に経済的な考え方が入り込んでいるということだ。
とするならば、資本主義の問題を、自分とは離れた市場の問題とみなすのではなく、まさに自分の問題として考え直すことが、必要なのだろうが、どうすればよいのだろうか・・・

市場の、イデオロギー・信念としてだけでなく、その実際の力を考えるだけで、暗澹たる思いになる・・・。

▼「貨幣の謎」

■貨幣とは、ほかの商品との等価関係のなかでしか貨幣であり得ないのならば、貨幣が貨幣であり続けるためには、それは流通して、他の商品との等価関係を絶えず更新していかなければならない。
そして、「蓄蔵された形態」から「流通する形態」へと脱皮した瞬間に、貨幣はさらなる変身を遂げる。

■貨幣は、本来的な価値を持たないモノとモノとの交換の単なる「媒介」であるにもかかわらず、いやまさにそれだからこそ、逆に特定のモノに縛り付けられない抽象的で一般的な交換価値の担い手としての役割を果たすことになる。
そして、このような一般的な交換価値の担い手としての貨幣は、世にあるどのようなモノでも手に入れられる可能性を与えてくれるものとして(それ自身はあたかも一つの商品であるかのように)人々に需要され、それによって人々の欲望を必ず限りある個々のモノに対する欲求から解き放つのである。
すなわち、それは、人々の無限なる欲望の対象となることによって、「百倍」にも「一千倍」にも、いや無限倍にも自己を増殖しようとする存在になるのである。
無限に自己増殖しようとする貨幣、すなわち貨幣は「資本」になろうとする。

岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』
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昨年の金融危機。本当に貨幣とは、人間にとって何なのだろうか。
「貨幣の謎」とは、岩井によるとマルクスの言葉だそうだが、貨幣とは、よく考えると不思議なものだ。
それは、実は実体のない形式だからこそ、その裏返しの万能性に、われわれ人間は無限増殖の欲望を見てしまったのか。
貨幣による経済、資本主義、苦手な分野だけど、考えなければならないことはたくさんある。

■空間は、社会的・政治的な活動のための空間以外の素材や資源を、(それが原料であろうと、完成品であろうと、企業の産物であろうと、「文化」の産物であろうと)排除しない。空間は、それらの素材や資源を一つに寄せ集め、それらを包み込むことによって、別々に切り離された個々の要因にとって代わる。その結果として広大な運動が生じてくる。・・・空間は「主体」と比較され「主体」と区別される客体でもなければ、自立した論理でもない。・・・空間は道具であるとと同時に目標であり、手段であると同時に目的である。したがって空間を「媒介」といった狭いカテゴリーに封じ込めることは極めて不適切である。 ルフェーブル『空間の生産』

****************
そもそも空間とは、たった一つの目的や関係のために存在するものではないだろう。(我々は、そうした考え方にかなり毒されてはいるが、それは、合目的な近代的な空間の在り方に慣らされているだけに違いない)
たしかに、ある目的に沿って計画され現実化された空間だったとしても、そこに思わぬ関係や行為が生まれ、そこから、また新たな空間が具体化することも少なくない。
まさ「空間は、それらの素材や資源を一つに寄せ集め、それらを包み込む・・・・その結果として広大な運動が生じてくる」のである。

どの空間にも、そうした潜在的な力があり、また、そうした潜在的な厚みを持つものこそが、空間なのではないだろうか。

そして、人と人との関係もまた、こうした空間の中で具体化していると同時に、具体的な空間に触発されて生成されていることに改めて気づくならば、そこからは、人間関係の本質的な豊かさ・深さが(もう一度)浮かび上がってくるだろう。
実際、最近では、「多目的空間」「共生空間」などの言葉や実践が注目されつつあるのも、そうした理由だと思われる。空間は、いくらある特定の意味や機能を押しつけられようとも、それ以外のものを生み出し自らも変わろうとするエネルギーを抑圧し続けることはできないのかもしれない。

空間の可能性とは、そのまま人の、人と人との関係の可能性である。
我々は、今こそ「空間の復権」を叫ぶべきではないだろうか。

■社会システム形成の端緒において、互いにとって相手はまさに別の自我であり、その選択は不確実であるがゆえに、関与者たちの諸活動は連関していく。
つまり、自我と他我にとって、互いの選択がそれぞれ不確実という二重の不確実性(ダブル・コンティンジェンシー)があるからこそ、社会システムが成立するのである。
パーソンズが考えたように、関与者たちの間に価値コンセンサスがなければ社会システムが成立し得ないのではない。「神が何も与えないとしてもシステムは成立」するのである。

■個々のコミュニケーションがコミュニケーション足りうるには、次に可能となるコミュニケーションに必ず接続されなければならない。
社会システムの過程とは、こうしたコミュニケーションの過程である。

■相手が別の自我であるからこそ、果たして理解されたかどうか、相手に到達したかどうか、相手が受容するかどうか、これはきわめて不確実であり、コミュニケーションはこうした不確実さの中で遂行され、そして連関していく。ここにこそ社会(システム)が生産されていくのである。

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以上はいずれも、ルーマンのシステム論の研究者・佐久間政弘氏の論文「社会システムのオートポイエシスとコミュニケーション」からの引用である。

不確実性の中にこそ、人の行為があり、社会があるということ。
これに対して、すべてが秩序としてマニュアル化し、人のコミュニケーションも、それへの反応という形でなされ、何の不確実性もないとするならば、そこには、それぞれの行為の意味を理解し確かめるためのコミュニケーションの連関も生まれず、ひいては社会という存在も必要なくなるだろう。あるのは、マニュアル=神のみだ。

しかしながら最近、この(人や社会にとって根源的とも言える)不確実性をリスクとみなし、それ自体を確率的に再構成しマニュアル化して、危険因子は排除していく方向性が強まっているような気がする。

つまり、近年の閉塞的で官僚主義的、異物排除的な社会状況とは、人の行動がいっそう精緻にマニュアル化・規則化していく動きであるとも考えられるわけだが、とするならば、今後はますます官僚主義的なセキュリティネットが成長して張り巡らされる一方で、個人間のコミュニケーションはないがしろにされ、社会という位相は消滅していく危険性が予想される。
そのとき個人もまた、セキュリティ・ネットにとっての因子へと分解されていくのではないだろうか。そのときの我々の生とは?

以上のルーマンの議論は、安全・危機管理の行き過ぎは、社会の消滅、個人の窒息につながっていくことを予期するものとしても考えられよう。

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