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父の病気は、知らないうちの始まっていました。父は、とても寂しそうでした。。 ちょうど、母も子育てをおわり、ようやく自分のしたい・・また、自分の力が十分にだせる 保険の外交官として、朝から夜まで、飛び回っていました。 私も、趣味で始めたピアノ教室が、あっというまに膨らみ、家のことと両方で、まったく父のことを わすれていました。 悪くなるまえ、よく父は、竹の子を山で掘っては、湯がいてもってきてくれたりしていました。また、白菜の漬物も、いわしの糠炊き・・アジの南蛮づけなどを、私が実家にいかなくても、自分でつくってはもってきてくれていました。 私は、魔女の宅急便にでてくる娘さんのように、感謝の気持ちはなくなっていました・・。また、持ってきてる・・って。 少しづつ、おかしいなって思って、みんなで気をつけるようになっていきました。それでも、 父は、料理をしようとしていました。でも、もう、餃子の材料の用意ができても、味をつけるつけ方が、わからなくなっていました。 ボランティアを、ことわられても、それまでボランティアしていたのお家自分で行っては、 自分の車で、病院の送り迎えをしていたようでした。 そして・・自分の車を失くしても、母の車にのってその方の家に行きたがっていました。 それで、母は、父を連れてその方のお家にいって、ことわりの挨拶をしてきたようでした。 父は、自分の記憶もなくなっているのに、なおも人の世話をしたがっていました。 父は、強制的に病院いれられても、車イスの人を見ると押したりして世話をしたいようでした。 父の心の中は、わかりませんけれど、きっと孫の病気がずっと頭にあったんだと思います。 うちの子は、おかげさまでいまだに車イスにも乗らなくても、生活できています。 父の献身的な行動に頭が下がりました・・。かなり病状が、すすんでまったく言葉をなくしても、 童謡を、’からすなぜなくの・・♪からすは、山に・・♪ かわいい、七つの子があるからよ・・・♪’とか。。うたうことができました。 また、私や母より、息子や、うちの主人をみると、ニコニコしていました。 すこし意地のわるいそうな看護師・・(すいません)を、みると怒った顔をしていました。 私が、作ってもっていった、ケーキやプリンが大好きでした。 でも、父の病気のアルツハイマーは、60代で発症したせいで、すごく早くに、悪くなっていきました。。 病院に入ったときは、すごく若く見えた父も、あっというまに痩せてほそり、 ほんとにおじぃさんみたいになってしまいました。 父は、病院の食事を、とても美味しそうに食べていました。おやつも、ひとの分までいただくほど、 食欲もあり、穏やかに過ごしていました。 看護師さんにも、大人しいのですごく優しくされていました。 でも、アルツハイマーは、始めはうつ病から入ったようだったため、 母は、自分のせいだと、よく泣いていました。確かに病名が、わかるまでは 激しいことばで、父を責めた母でしたけれど・・。 また、私たちも同様でした。父の手をとって、ごめんね。。おかげさまで、病気が進んでも、父はどこも痛くなかったようでした。亡くなる、二日前までプリンを、美味しそうに食べていました。 みんなが、集まって、息子も大学から帰ってきて、また弟も間に合いました。 みんなで、でも、私は最後は、逃げてしまいました・・。でも、ずっと、私がその前までは、いることが できました。だから、もうお別れは、言うことができていました。 おとうさん、ほんとうにありがとうございました。 おとうさん、ごめんなさいね。いっぱい心配をかけました。 おとうさん、これからも私たちを見守ってください。 ありがとう・・おとうさん。。 父は、とても静かに亡くなったそうです。荷物を取りに・・わざと、取り帰った間に ほかのみんなに看取られていました。 わたしは、泣きまくりました。。。 亡くなる前から、親戚もたくさん集まりました。そして、泣くのもすごかったんですけれど、 とくに家が隣で一緒に兄弟にようにして育った従兄弟たちは、おお泣きでした。 でも、泣くと同時に笑い声が、すごかったです・・♪なぜか、写真を見ても 父の遺体のよこでみんなが、笑い転げているのです・・。 とても、笑って泣いて 大騒ぎでした・・。理解できますかね・・?。 父のことを、喋っては、泣き、、こんなことも あったね・・って、がははっ・・って笑い・・とくに、従兄弟たちを、 父がよく世話していました。彼女たちは、ひとまわり年が 離れているので、父の手作りジュースや体操をしっかりさせられていたようでした。 父の愛の深さと、おかしさで笑い転げていました・・。 そう、お通やでは、私たちは、最後は疲れてねていましたけれど、 大学生になっていた息子が、一睡もせずに父の傍にいたようでした。 わたしが、もう父をいらないと思ったから、父は居なくなった気がしていました。 でも、それは違うのです・・父は、きっとうれしかったのです。 もう父は、安心して逝ったのです。そう思いたいです。 おとうさん!! ほんとに、たくさんの愛を、ありがとうございました。 |
私の小さいころと家族
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退院してからも、前にもまして父の息子への 愛情は、とても深いものでした・・ 幼稚園のころには、かなりひどい足の痛みで息子が 歩けなくなったことが、ありました。 いろいろ調べていがいに、脊髄の影響ではなく 成長するときになる足の甲のところの病気だとわかり 1年ほどして、普通に歩けるようになりました。 ただつねに足が弱く、こけることも多かったようです。 こけ方も半端じゃないので、外科にはしょっちゅう通っていました。 小学校の運動会では、やはり普通の子と走ると。明らかにみんなに 遅れて、まるで歩いているようしか走ることはできませんでした。 でも、意外なほど、運動が好きでできないながら、一度も体育を休むことも なく、また明るい性格から他の子に、いじめられることもなかったようでした・・。 父が、息子から離れ始めたのは、息子の手を引くぬいたことが あったり・・また、一度は、息子の足を、ドアで挟んで、親指の爪をはがし しまったことがあってからだと思います。。 確かに、父はとてもぶきチョであわてものな性格だったので、思ってもみないことを してしまうことがありました。 そして、父自身がそれを悔いて、もう息子の世話は、しないほうがいいと思ったようです。 そうです。そのころの私は、そのドア事件のときは、激しく父を責めたようでした。 息子も、友達とかの遊びや勉強に忙しくなる中学のころには、すっかり 父との距離は広がっていました。 そして父は、障害者のボランティアに力をいれるようになっていました。 まるで、孫である息子のことのように障害者の世話をほとんど、熱心に毎日していたようです。。 数年のち父が、障害者ようの車をどこかに置き忘れて、障害者センターを首になるまでつづいて いました。 車を、放置して無責任だと、センターの方が言われたのを、半年間きがつきませんでした。 父は、無責任ではなく、病気だったのです・・ いつのまにか、父はアルツハイマーになっていました。もともと 言葉を多くない、返事だけをする人だったので、だれも気にとめないうちに 言葉を失い、記憶を失い、ただニコニコするだけの人になっていました。 もちろん、完全に記憶が無くなるには、時間がありました。 でも、その間は、まさか、父の若さでアルツハイマーなるとは、誰も思いもしませんでした。 そのために、気がつかずに、母は父の、無視したような、また 説明してまったく、聞いてないような態度にいつも、怒っていました。 用事をたのんでも、してくれない、返事は、うん・・といっても、わかっていない・・ 母の一番つらいときだったと思います。
いつも、いらいらと父に怒りをぶつけていました。母は、ちょうどそのころ保険の外交員とかで、すごく 忙しく働いていて、家のことは父にたのんでいたりしていましたので。 頼んでいたことをなにも、していないことに、わざと意地悪と母にしてると思っていたようでした。 そのうち父は、わざとじゃなくて ホントに、わかっていないのだ!!と、家族がきがついたのは、 囲碁の盤に、黒白の碁石をただ同じいろを、かためて並べているのを見たときだったかと 思います。 服の着方も、わからなくなり、やたらとカレンダーと、時計をみていることも多かったですね。 最後は、自分の車をどこにとめたかわからなくなり、ようやく家に電話をしてきました。でも、 かわいそうに、言葉が、なかなかでずに自分のいる場所さえも、いうのに時間がかかりました。 ほんとに、事故もおこさずに、また行方不明にもならずにつれて帰れたのはラッキーでした。 それからは、病院に連れて行こうと何度も、しました。 家から出ると、どこに行くかわからないので、だれかが、付いてまわりました。 食事も喉につめるようになり始め、またトイレもあぶなくなりました。いよいよ お家では、みていられなくなりました。。けれど、強情に病院にいくのを、とてもいやがり、 最後は、病院から何人かの男の人が来て、むりやり入院させました。 まだ、父は見かけは若く、年もまだ、65才くらいでしたね。。 つづく http://www.geocities.jp/yyy6029/HUAXIANJ93.gif |
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そう、うちだけではありません・・今でも、病院の中では たくさんの子供たちが、病と闘っています。 その時も、お一人だけ病院で付き添いをされている方がいました。 そのお子さんは、どんな病気だったけ覚えていませんけれど、 もうかなり悪くなって、確か目が見えなくなって、体も動かせなくなっていました。 お母さんは、交代の方もなく病院も、協力的でない中ずっと、お世話されていました。 その方の母の無償の愛、病院の愛の無いお世話・・ほんとに、何も知らない私には、 すべてが大変な経験でした。 手術は、もちろん前回ほどは、かかりませんでした。 そうです。もうずっと傍にいましたので、あとの経過は、どうにかよかったようでした。 入院は、はじめの予定は長くて一ヶ月でしたけれど、結局まる2ヶ月以上かかり ようやく退院できました。でも、傷は3度の手術のためにひどいケロイドになり そののち、いつまでも、お風呂にいれるのも怖かったです。 結局、少しづつ進みつつある病気を、止めることも できずに、あとは観察するというなんとも、ひどい目にあった割には、 厳しい結果でした。 でも、祈りは必ず伝わっていたと、思いました。 いつ感染してもおかしくない状況を、くぐりぬけ、無事に帰ることができたのです。 父や私たちの祈りは、届けられていたのです。 私のフ無謀な、信号無視で、自分が死ぬどころか、他の方を一歩まちがえたら まきぞえにしてしまったかもしれないのです。 私は、ほんとに文句ばかりいっていつも、暗い顔をしていました。 でも、父はそんな私の傍にいてくれました。 父は、そののちもお酒を、飲むことは絶ちつづけました。 ますます息子の傍によりそい、歌をうたったり ブロック遊びをしたり、出かけるときはいつも一緒でした。 ひとつよかったのは、2ヶ月の入院で、息子は食がすごく進むようになって 帰ってきたことでした。(・・でも、のち彼の人生にこれも、苦労のたねになりました・・ね) つづく |
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ごめなんさいね・・重苦しい話で・・でも、もう少し我慢してくださいね・・ 息子の手術のあとの怪我はひどかったようで・・一週間たっても よくなりませんでした・・。 毎日7時の面会時間の終了のたびに、息子は私にすがりつきました。 それを、振りほどいて、帰るときのつらさは、たとえようもありませんでした。 私も、父と同じように朝は、お寺におまいりしてから、病院にいっていました。 ほんとに、祈ってもらい祈祷してもらい・・お百度も踏みました。 息子は、まだ2才半で、自分では、食事も、満足に食べてきれてないようで、 いつもお腹をすかしてもいました。でも、こどもながら、病院の規則で何も、病院ででるもの 以外は口にしては、いけないとわかっていたようでした。 一度は、一緒に行った母が涙したのは、持っていったカステラを ベットの影に隠れてあわててむさぼり食べたときでした。 入院するまで、カステラとかには目もくれなかった子でした。 それが、看護婦がいないか周りをきょろきょろして、慌ててたべたのです・・。 そして、隣のベットの赤ちゃんを、あやしてやったりもしていました。 まだ自分のことも、よくできないのに、この子は、こんなにも頑張っている・・ 恥ずかしいけれど、見た目ほど私は、心の底では、父ほどの息子を思う気持ちは初めのころは、 なかったと思います。 それが、だんだんほんとに、息子の回復を願う心の叫びとなりだしたのは、 はっきりしませんけれど、彼の手を振りほどいて・・病院をでて、とぼとぼと帰りの駐車場に向かって 足をすすめていたときでした。 病院の上の窓から、息子の声がしたのです・・ 「おかあさま、おかあさま。。またきてください・・ありがとうございました。」 はっと、して振り向くと、5階くらいの窓辺に息子の姿・・というか影が・・ でも、次の瞬間、看護婦の手によって窓は閉じられ、カーテンをされました。。 これは、わたしの記憶です。 ほんとに、2さい半の息子が、窓から叫んでも聞こえるような 距離では、なかったと思います・・でも、看護婦が、カーテンを閉めたのは 確かでした。。 そして、たぶんその日の帰りでした。 運転していて、涙が、止まらずに、大通りを赤信号を気づかずに ブレーキも踏まずに突っ走って、わたりきる時・・ふっと、我に返れました。 私は、今死んでいたかもしれない・・と、おもいました。 この子は、どんな体になっても、失いたくない・・という思いが、心のどこからか めばえてきました。 そして、それから数日して、先生から、家族をあつめるようにいわれました。 再手術・・・傷がつかずに脊髄液が漏れているとのこと。 感染のおそれもあるとのこと。。 わなわな・・と、震えの止まらない・・私でした。 でも、父や、もちろん主人たちも、耐えて聞いていました。。 でも、私は、耐えられませんでした。 そう、毎日どんなにつらくっても、頑張っている息子の姿を毎日見て、また、わたし 自身が、疲れていました。 知らないうちに、先生に、唸るようにつめよっていました。みんなが、抑えようとしましたけれど、 私は、自分を抑えられませんでした。息子は、どうなるの・・!! 病院の責任は!どうなるの。。先生の責任は!!! 手術をしてくれた先生は、九州でも脳外科の名医師といわれたS先生でした。 ただ手術だけで、あとは若い先生が、担当されていて、その方がとても 無責任にみえていました。 S先生は、私たちに深く頭をさげました。私たちに、こちらの責任です・・と、 あやまってくださいました。そして、もう一度全身麻酔の手術をさせてください、と いいました。 私たちは、お願いするしかありませんでした。ただ、私は、今回は手術のあと付き添いを させてくださいとお願いしました。もう二度と、息子を一人にさせたくなかったのです。 この子は、私の子です!!!。この子を、私から、とらないでください!!! どんな障害をもとうと、わたしはこの子と、生きて生きたい!!! 今考えると、父の愛が、少し私の中に入ってきたように・・思いました。 何もいらない・・息子だけと、心から、祈りをささげました。 |
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手術が、終わってから、しばらくして 家族を集めて、先生から手術の経過説明がありました。脊髄の骨をいくつか はずして、中に入りこんでいる脂肪の圧を減らして、神経の圧迫を減らしたとも ことでした。あと少し変形している腰の脂肪も吸引したとのこと。 結果としては、将来の麻痺の来ない保障はないとのこと。ただ、これ以上神経を 刺激するのは、無理なので、もし麻痺がきても、もう治療法はないとのことでした。 とにかく、あとは傷の回復を待っていくだけだと、その時は一応、安心しました。 ただ完全看護だと、いわれ・・全然動けない息子を、その手術のあとでさえ置いていかなければ いけませんでした。 次の日は、もちろん面会時間のくるのを待って、病室に飛び込みました。 息子は、以外にも、もう少し起き上がってしっかり、遊んでいました。 やはりまだ、子供なので大人が、思うほどつらくないのかと、少し安心しました。 そう・・その事故が、あったのは、その次か、そのまた次の日でしたか・ ・よく覚えていませんけれど ・・その日も、いつものように面会時間ににあわてていくと、 息子は元気なくベットに横になっていました・・ どうしたのかと・・みると、腰の手術のあとの包帯のところから 真っ赤の出血が、あっていました・・ あ!!どうしたの・・?と聞くと どこかの、角にぶつかったというのです・・ 自分の血が、さぁ〜と引いていくのがわかりました・・でも、 その時は、一人だったので、 あわてて、看護婦さんに言いに聞くと・・ 看護婦さんは、すぐに先生を呼びにいきました・・ でも、いったいいつから。。血を、流していたのか・・!!! 息子は、看護婦さんたちを、見ると・・もう何かされるとわかって泣き出しました。 看護婦さんは、泣き叫ぶ息子を連れて、先生のいる処置室につれていきました・・ しばらくすると、切り裂くような息子の泣き声が!! そう!!なんと、先生は、泣き叫ぶ息子を皆で押さえつけて 手術のところの傷口を、麻酔もしないで、縫い直したのです!!! 息子の叫ぶ声が、病棟に響き渡りました・。泣き声の途中には・ ’痛いよ・!!!やめてください!!!お願いします!!おかあさま!!’ 息子は、泣きながら、敬語で、私に助けを求めていたのです・・ 私は、耳をふさぎました!!今思い出しても、震えがきます・・ そう、どのくらい経ったでしょう・・・・・・・声も、枯れはてた・・ 息子は、部屋にもどされてきました・・ 先生は、とても怪我で、脊髄に直接開いているので、一応縫ったのけれど 菌が入ったら命にも危険があると 話されました・・。そんな・・・ことを、平気で・・ どこが、完全看護なんでしょうか! どうゆうことなんでしょうか・・でも、息子の命を、先生たちに握られていました・・ 恐怖と、悲しみでいっぱいでしたけれど、息子が、少しすると 笑ってくれました。なんということでしょう・・ もし大人がこんな目にあったら、素直に笑えるでしょうか・・? こんなに、この子は、頑張っている! わたしは、彼に反対に勇気づけられました。 でも、まだまだ私が、ほんとうの親になるには、 もう一度彼を、痛めつけなければいけなかったのです。。 (そう、今回これは父の愛の話にしたいので、私の気持ちはさけていましたけれど・・わたしは、 まだこのときでも、今思ってもひどい親でした・・。そのために、息子は何度もひどい目にあったとおもいます・・ほんとに・・ごめんね・・) |





