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写真家鳥井勇造は日本の福岡県人で、生まれは明治時代と云われているが確かな出生年月日は
不群である。
彼は東京美術学校を卒業した方で、結婚後二女一男の親となり、長女の名前は愛子・次女は良子・
長男は勇と言っていた。
彼は日本が台湾を統治していた大正時代に台湾の台中州梨山の警察駐在所の巡査として赴任した。
その後、昭和5年(1930年)に台中州能高郡霧社の警察駐在所に転勤となり、そこで昭和20年
(1945年)の終戦まで勤務していた。
この間、警察局の写真班員として公務の撮影をしていた。彼は在職中若し長官が巡視に来た場合、
この状況の撮影を担当した。
もとより彼は美術学校卒業生であるので撮影と美術方面は専門であり、この仕事に対しては情熱を
燃やし努力を惜しまなかった。
特に絵画部門では毛筆による人物肖像を嗜み、その制作に於いては迅速・且つ正確を究めたので、
この地方の人々の好評を受け、作品には多くの傑作を残した」。
一方面彼は単身赴任なので霧社で下山静子さんと許清子さんの二人を義女として迎え撮影の助手や
身の上の面倒を見てもらったので、自分の職務に対して専心努力する事が出来た。
しかし彼は故郷から遠く離れた霧社で住み、故里の子女を思う心は切なるものがあり、昭和16年
には仕事の合間に二女の写真を霧社の風景の中に、はめ込み合成した写真に二首の和歌を書き込ん
だ様は父としての情愛の涙ぐましさを真実に叙述していると言っても過言でもない。
その和歌は次の通り・・・・・。
思はじと思へど思ひ胸にみち
袖に涙のかわく間もなし
貧しくても親子揃ふてとる箸は
いかに楽しくおいしかるらん
また、昭和6年(1931年)には娘の写真4枚と自分の名刺を組み合わせて
次の句を書き入れた
写真の黒い所を消してみたら
さぞびっくりしたことでしょう
父サンは何をして居るかはこの名刺を
見たらわかるでしょう。
第二次世界大戦の終戦後(民国34年・1945年)彼は帰国せず台湾で一生を過ごすつもりで、
霧社から瑞岩(現在の発祥村)に移住した。
その時、義女の下山静子が面倒を見ていたが静子が悪性マラリアにかかって急逝したため、彼は
憂鬱症にかかり、ついに民国35年(1946年)8月に瑞岩で逝去し、一生の幕を閉じたのである。
先に昭和18年満州国映画会社と台湾総督府が共同で松竹映画会社により映画「サヨンの鐘」が
作られた。 この映画のストーリーは宜蘭県南澳郷の奥山で発生したものであるが、映画の
撮影地は当時台中霧社(現在南投県の仁愛郷)で行われた、この映画「サヨンの鐘」の主演は
名優の李 香蘭(日本人で本名は山口 淑子)であったので、当時霧社に於いては、日本時代
始めての映画撮影なので民衆の参観ブームは空前の凄いものであった。
「サヨンの鐘」の‘物語は次の如しである。
サヨンとは先住民タイヤル族の少女「サヨンヨハン」で宜蘭県の南澳郷の奥、標高1,200m 程の
山麓にあり、彼女は「リヨヘン蕃社」に住んでいた。
昭和13年(1938年)当時、この蕃社に駐在していた日本青年田北正紀警手は夜間に
男女青年団員に日本語を教えて慕われていた。
日華事変の拡大により田北警手が応召になり9月27日出発する事になった。
下山の日は前夜から台風で山は大荒れとなり田北警手は入営時間を気にして危険を考えて荷物を
持たずに出発しようとした。
その時蕃社の女子青年団の副団長であったサヨンが田北警手の荷物運びを申し出し、
7人の男女が選ばれて一足先に出発した。30kmの道を松明(たいまつ)の明かりのもと、
一晩かけて荷物を担いで後に従っていたサヨンは激流と化した南澳渓の丸太橋にさしかかった時、
バランスを失って激流に呑まれ命を散らしてしまった。
その後、蕃社の人々は「サヨンを想う」という歌を作って追憶した。
昭和16年2月になり台湾全島の高砂族青年団の慰問学芸会が台北で催された際に「リヨン社」の
代表が歌った「サヨンを想う」の歌が臨席していた長谷川清総督の耳に入り、総督は感動して、
後日サヨン等の篤行を褒め讃えて「愛国乙女サヨンの鐘」を刻んだ真鍮製のベル作らせ、サヨンの
兄を通じて贈った「リヨヘン社」では檜造りの鐘楼を小学校に建てて据えつけ、鐘の音がお祭りの
時に鳴り渡る様になった。
この美談が歌手渡辺はま子の耳に入り、彼女の発案で「コロンビアレコード会社」の
「サヨンの鐘」の歌が生まれた。以後、台湾の各地で歌われるようになった。
「サヨンの鐘」の流行に刺激されて今度は満映と総督府の共同により松竹映画「サヨンの鐘」が
作られ、昭和18年7月に封切られたのである。
この撮影の時、霧社の住民の心を魅了させた原因は李 香蘭の風采を一目でもよいから見たいと
いう民衆の強烈なる希いにあった。
この撮影中、鳥井先生は必ずカメラを背負い極めて多くの撮影現場の情景を写真に収めて貴重
なる記録として今に伝えられている。
(本稿は 林啓三エッセイ集『いちじく』より転載)
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