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彰化の思い出

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 1枚目の絵は吉田さんの描かれた機関庫です。
 下は実際の機関車車庫です。

ここ彰化駅は山線と海線の合流地点なので機関車の車庫が
あるのです。形が扇を開いた形なので扇方車庫を呼ばれて
いるのです。

 3枚目は孔子祭りの様子の絵で、下の写真は実際の
孔子廟の写真です。

皆さんどうですか? 今の様子でさえ書けないのに
50年後に描けるなんて「脱帽」するのみです。

蝉取り

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旧水源地は蝉の宝庫であった。
夏休みに入ると僕等子どもたちにとって大切なのは教科書でもない。
算盤(ソロバン)でもない。夏の七つ道具の一つ、その一つの中に
蝉取り道具があった。捕虫網(当時こんなものはなかなか買って貰えなかった。)
父が八番線?十六番線?の太い針金をまげて、枠をつくり袋をぬって作ってくれた。
 そのほか竿の長いのと、鳥黐(とりもち)がある。彰化で鳥黐を売る店が
わからず台中市のカユウセンという店まで買いに行った。
(後日西門市場の附近で売っているところを見つけた。)

 旧水源地周囲は鬱蒼と緑に包まれた人家も殆どない静かな山里とも言える場所。
車の音一つしない。只聞こえるのは蝉の鳴き声のみ。
 奥に踏み込むと貯水池、ろ過池、その他水源地らしき施設が何か所。管理人の家が
一軒だけだった。
双子樹や栴檀の大木の下に足を運ぶと、いるわいるわ木の幹と言わず枝と言わずずらり
並んで無数の蝉がとまり、一斉に鳴いている。
 何十匹といわず百数えるのもわけはない。ワッシワッシと尻を上下にふるわして鳴く
もの、動かずにジーといって鳴くもの等様々である。
 一匹とってジーといってばたぐるう。続けざまに二三匹、すると今まで泊まっていた
他の蝉が一斉に飛び上がる。ブーンブーン中には小便?をひっかけて行く不届者もいる。
 真っ黒に日焼けして蝉取りに興じ、夜床についても蝉の声が耳から離れない。
 
あれから五十余年、蝉の声も遠い昔に去って行った。


(備考)本文記事と絵は『台湾風物情』P42,43から転用したもので、7月30日配信の
メルマガ「遥かなり台湾」にて紹介。

自然の珍山、粘土山

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彰化小在学中(昭和五年七月2年〜昭和八年十二月5年)よく粘土細工をして遊んだ。
その粘土はいくらでも手に入った。
当時、子々尾にあった第一公学校(後の楠公民学校)の校庭の一角に珍しい自然の
粘土山があった。
少し青味がかかった山肌といおうか、粘土の塊のようなその山は、背後の山肌とは
全く土質が異なり、草も生えておらず、大きな石碑のように校庭の一角に無言のまま
聳え立っていた。どうしてこんなところに、こんな粘土の山がっ………
それは、八卦山、大肚渓、彰化平野が生まれる遠い昔の歴史に遡って考えてみれば
想像もつかぬ。
それは一応おく。として、この粘土山の下のところに柔らかい粘土のとれるところが
あった。一度に沢山取ることは出来なかったが、結構使うほどはたやすく取れること
が出来たし、叱られた覚えもない。
その裏を登ってゆけば、水源池付近に登りつく。
現在、粘土山は、どうなっていることだろう?
少年の頃の思い出の一つ――これまで

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昭和五〜六年頃、彰化郡役所筋向いの印房(はんや)何という店だったか?
そこのショーウィンドーにある…表札が目に入った白地の大理石?黒文字で
彫り込んである表札、「下村虎六郎」もう一枚は「荒木 潔」であった。

多くの印鑑、スタンプ類を並べてある中に、この表札が一きわ光って目に
写ったのである。前者は、少年文学で有名な「次郎物語」の作者でもあり、
彰化小校歌「日月の、湖の面の―」の作詞者でもある「下村湖人」(本名
 虎六郎)先生のことである。

先生は佐賀県人、熊本五高より、東京帝大文学部へ、大正十四年台中一中の
校長として赴任。昭和四年台北高校校長に栄転。六年に退職して東京に帰る。
昭和三十年七〇才で死亡。

荒木 潔さんは彰化第一公学校はじめ台中州下の学校に勤務し郡視学、州視学
などを歴任。退職後兵庫県に帰られ一昨年死亡。

何の気なしに見て歩いた一商店のショーウインドウーの印象が、50余年たった
今日なお脳裏にやきついている。
この附近には金銀細工(工芸品)が何件か並んでいた。

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西門市場の門をはいると市場の堀に沿うてあらゆる品物を販売している台湾人の
小店があった。それ等の小店や露店の前を通り過ぎ、右側の突き当たりに母が
買いつけの店石川呉服店があった。
この店を拠点として反物の入った大風呂敷をかるうて、石川呉服店主はよく日本人
(内地人)の家をまわって来られた。
季節の物、流行の物、年配に合わせたものあらゆる品物をとり揃えて各家々において
店開きをしたものだ。
子供の頃石川君のお父さんが来ると「西郷隆盛が来た―」と言って遊び先からとんで
帰ることも多かった。
石川君のお父さんは西郷さんのように、がっしりした体格で、よく絽が麻のような
黒っぽい着物に角帯といういでたちに草履ばきで濃紺か、こげ茶色の大風呂敷を
かるい、徒歩で町内をまわっておられたのが印象として残っている。
実に逞しい方だったが反面人柄がよく笑顔の素敵な方だった。反物を注文し着物は
母が縫ったが、後に残った円筒形の心棒は我々子供たちの玩具に、時には兄弟喧嘩の
武器になったりした。
(実際はもっと狭くごみくした場所であったが画いているうちにこんな広場になって
しまった)

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