當麻物語(歴史)

當麻の里に伝わる物語を紹介します。そして歴史の数々を

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孝女伊麻資料

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伊麻は俗にお今(以下伊麻と書く)という。今市の人、長右衛門の子にして、長兵衛という弟があった。
 父は農夫で、その祖は肥前(九州佐賀県)の国佐賀の藩士であったという。伊麻は寛永元年(一六二四)に生れた。幼き時、母を失い、大阪から迎えた父の後妻と、その子二人と、伊麻、弟長兵衛の六人暮しであった。伊麻と長兵衛は継母によく仕え、父に孝養をつくしたが、後母は継母のならいとて二人をにくむこと甚しかった。父は心配して伊麻を弁之庄村の農家へ下女に、長兵衛を大阪の商家へ丁椎(でっち)に遣った。時に寛永十三年(一六三六)伊麻は十三、長兵衛は九歳であった。伊麻も長兵衛も其の身の他人につかえることは苦しいとも思わなかったが、ただ朝晩父の顔を見ないのを悲しいと思って胸を痛めた。その後、継母は田舎に居ることがいやになり、父にすすめてもとの大阪の天満に移住した。そこで伊麻も父の顔を見たさに雇主に頼んで時々天満に行った。その後伊麻は弁之庄をやめて同郡の竹内村の農家粕屋(かすや、今の苗村民の祖)へ下女に入った。その頃、伊麻も相当の年令になったので家主は伊麻のために主家の隣に一軒の家をあたえて住まわせた。そこで糸をつむぎ布を織って生計を立て、その一部は父の許に送った。
弟の長兵衛も年が長じたので暇をもらい大阪から故郷の今市村に帰り、妻をもらい桶屋を家業として、もうけた金は父のもとへ送った。伊麻も長兵衛もたびたび大阪の父をたずねて喜ばしていた。ただ父と子が別々に住んで親孝行の出来ないのを嘆いていた。
 天満の父の家庭状況も貧困になり、継母は父を捨てて二人の生んだ子と共に家出をしてしまった。行方はわからなかった。
 伊麻と長兵衛の二人はこれを知って大いにびっくりし急いで天満にかけつけ、父をつれて今市に帰った。伊麻は仕事が終ると夜毎にかならず今市に帰って父につかえていた。この後、父の心にまかせ、伊麻の竹内の家に十日居れば、次ぎの十日は長兵衛の今市の家に暮らすことにした。その往還には長兵衛が父を背負いその後より伊麻がついて行くのであった。これを見る村人で二人の孝養に賞詞しないものはなかった。
 ある時のこと伊麻が父に言うに 「大阪へ行って継母とその二人の弟をたずねて、ともに一家集まって住みたい」と。しかし父は「あのような薄情な妻はない。もし彼女がここへたずねて来ることでもあれば、一生のうらみ者として許さない」と言ったので、伊麻はそれっきりにして止めた。
 長兵衛は、家を出るときには、妻に「父の言には善悪となく少しもそむいてはならぬぞ、もしそむくことがあれば、おれの妻ではないぞ」と言いさとし、外から帰った時には、餅、あめ、おこし、くだものを持って帰り父にすすめた。長兵衛は毎日桶の輪替えに出稼ぎをしていたが、朝は父を負って寺に参詣し、夕方は仕事を絶えて帰りすぐ父を寺まで迎えに行った。
 寛文十一年(一六七一)夏の頃、疫痢が流行した。各地でそのため多くの人が死んだ。父の長右衛門は竹内の伊麻の家に居たが、不幸にしてその病にかかり、食物が咽を通らないこと数日の重病になった。長兵衛も来て二人は昼となく夜となく介抱したが少しも快方に向わず、危篤の状態に陥った。この時医者が、うなぎを煮て食べると病が妙に治るという。二人は早速うなぎをさがしたが見当らず大いに力を落した。その日も空しく暮れた。その夜深更におよんで、水瓶の中に水のあふれるような音がした。二人があやしんで灯を点じてこれを見ると、大きなうなぎがおどっているのであった。二人の喜ぶこと限りなく「神仏のわれらを憐み援け下さったものだ」と掌を合せて拝んだ。すぐに調理して父にすすめ、父も喜んでこれを食べた。奇なるかな、さしも重かった病もたちまち全快した。
 これを聞いた村人たちも、其の残余のうなぎをもらって食べ全快したものが多かった。
 遠近の人びとこれを聞いて、孝子の誠心が天に通じたのであろうと感激しないものはなかった。これは同年の六月十二日のことで伊麻数えの四十八歳(一般書に四十六歳とある)であった。
 領主郡山侯(本多内記政勝)大いに感賞して銭穀を伊麻にあたえた。(大和人物志は松平信之とあるがこの人は八年後の延宝七年の入城である)
 その後二年を経て父長右衛門は病無くして没した。時に延宝元年(一六七三)十一月二十三日齢七十九であった。父臨終の時も弟はその日例の如く仕事をして後、高田へ行き、餅、炭などをもとめて帰り、餅を父にすすめ、火をもって父の体を温めたところ父は「冬の夜の寒さも知らず」と喜びつつ快よく眠った。伊麻も長兵衛も各自寝所に入ったが、にわかに胸うちさわぎて寝られず、あやしく思い起き出て、父の寝所をうかがうと、これそも如何に、父はすでに息絶えていた。二人の悲歎は言葉ではいえず、近隣も亦ふかく同情して、二人を慰め、泣く泣く野辺の送りをして心のかぎりの追善を営んだ。
 貞享五年(一六八八、九月元禄と改元)四月十二日、竹内の伊麻の家へ俳人芭蕉が訪問している。千里の妻の案内で芭蕉と附添の万菊丸の三人である。伊麻の家の軒下に清き小川があり二室しかない茅舎に表の間に伊麻が機織をしていた。芭蕉は千里の紹介で孝女伊麻のうなぎの話を聞いて、伊麻と面談しおおいに感激した、時に伊麻は六十五、芭蕉は四十五歳であった。
 芭蕉は大和を去って京都にゆき伊麻の事歴を其の友人雲竹に語った。雲竹も大いに歎賞し、画工友竹をつれて竹内に来て伊麻の肖像を画かしめ、雲竹は孝女の事歴をその上に記している。
伊麻は天性和順で心正直にして、寡言、慎しみ深く、弟の妻子を愛すること、まるで自分の子の如くしたので、彼等も母の様に敬い親しんだという。長兵衛は常に妻に誡めた。我が姉は、早くから孝行心深く、外に嫁すればその家の親しみを密にし、実母には疎くなるとて遂に嫁入しなかった。故に子はないから心細いと思う。汝等は実の母の如く接することだと。伊麻は年老いてもすこぶる身体壮健であった。他人に求める心いささかもなく、独り暮しで世を過した。その中で四十余年の久しい間一日の如く孝養をつくした。後の半生四十年は父の供養のため尼となり宝永元年(一七〇四)二月二十七日享年八十一で没した。弟の長兵衛も同二年六月二十日享年七十八で没した。
 その後、郡山藩の柳沢里恭は河内の国高貴寺へ参詣の節、常に竹内村を通行せられ、孝女の事蹟を聞き、感歎のあまり自ら筆を揮って「孝女於伊麻旧跡」の七字を書し、里人にあたえた。たまたま浪華の随柳という人が孝女の跡を弔らはんと来り、この事を聞いて資を出して石に彫らしめ、孝女が朝夕水を汲んだ小川の辺に建てしめた。この碑は、今も尚存している。
 孝女伊麻は遂に本朝二十四孝の一に数えられるに至った。
 天保十一年(一八四〇)同邑の仲島孝寛、上田観扈等がその事蹟を調査し、安田定国をして、これを記さしめ、一碑を南今市の旧宅の跡に立てた。題して孝子の碑という。(當麻町史より)
 うなぎの出現について諸説がある。
 『孝道』 (沢柳博士著)には「其の日の暮方に伊麻出でて水を汲みて帰りしに桶の中に怪しき物の騒ぐ音しければ火を点して能々見しに是は二人が切に求めつつありし鰻なり
き」とあり、『孝子今市物語』には「家のはとりに細きながれあり常にその水をくみて井にかへけり此時もくみもてきてひとつのかめにおきけるか小夜ふくるほとにかのかめなる水にはかにあふる音しけりあやしと思ひて行て見れば魚の大きやうなるがかめのうちにうごめきゐたり」とある。
 『百輯女鑑』(畠楠氏著)には「或る医師にはかりしに鰻を食はしめなば治すこともやあらんと言ひければ(中略)其日夕暮に伊麻は井にて水を汲みける折に不思議や釣瓶の中に物あり蛇にもやあらんと驚きて火に照して之を視れは鰻なりし」とある。これは引用書として、「孝道故事要略」、「年山打聞」、「叢語」、「今市物語」を示しているから前述の書から話が変化していることが判る。
 岸田吉興著の『孝女於伊麻之伝』には「其夜深更に及び水瓶の中に水の溢るる如き音しければ、二人怪み火を点して之れを見れば大なる鰻の躍るにてぞありける」とある。
 『大和孝子伝』(山田安氏編)には「其夜深更に及び軒下を流るゝ谷川に洗ひ清むべく浸しありし水瓶の中に水の溢るる如き音しければ、二人怪み火を点してこれを見れば大なる鰻の躍るにてぞありける」とある。
 『大和の伝説』(増補版)には「その夜、水かめの中から音がするので、ふたりがあやしみ、火をともして見ると、大きなうなぎが泳いていた。」(池田未則)とあり、仲川明著の『子供のための大和の伝説』には「その夜、水かめ(水を入れるつぼ)のなかで音がしますので、」と書き「ふたりの孝行に感じて誰かが知らぬ間に、うなぎをここへ入れておいてくれたのかもしれません」と書き添えている。
 この鰻の出現に関する記録の中で、最も古いと思われる、貞享五年(一六八八)七月の雲竹の文に「及ニ深更-干レ時瓶水有レ声不レ堪レ聴駭起視之鰻魚躍レ干レ瓶探摯調味膳レ焉」とあるので家の中のようである。現存する瓶(上田氏蔵)は余り大きくなく色々にも考えられる。この話も奇跡としてそのまま伝え深く掘りさげて想像をたくましくする必要はない。芭蕉が京都へ入ったのは四月二十三日であるから雲竹を訪うたのが四月二十六日である。そして芭蕉の猿雖への書簡には「十二日竹の内いまか茅舎に入、うなぎ汲入たる水瓶もいまだ残りて、わらのむしろの上にて茶酒もてなし、かの布子うりたしと云けん万菊のきる物のあたひは彼におくりて通る。おもしろきおかしきもかりのたはふれにこそあれ、実のかくれぬものを見ては身の罪かそへられて、万菊も暫落涙おさへかねられ候。」とある。
大正十三年五月四日、綿弓塚再興記念俳句会の席上で、俳人野田別天棲は「芭蕉翁と竹内」と題する講演の中で「芭蕉の書単に『うなぎ汲み入たる水瓶もいまだ残りて』とあるのは伊麻の父大患の折に鰻が躍っていたと云ふ水瓶である。土地の人の一説には鰻は前の小川の淵に居たのを捕った、そして水瓶に入れたのだと云ふ。芭蕉の文『うなぎ汲み入りたる水瓶』とあるから前の小川で捕ったのが即捕りて水瓶に入れたのが事実に近かろう。この由緒深き水瓶は今も保存されている。『わらの席の上にて茶酒もてなし』とあるは芭蕉が用意の茶酒を伊麻に与へた事の様でもあり、又伊麻が茶酒を具って遠来の芭蕉をねぎらった様にも聞える。恐らくは後者であろう。『かの布子うりたしと云けん万菊のきる物のあたひは彼れに送りて通り』とある。万菊はこの旅行に芭蕉の御供をした杜国のことで、彼は芭蕉の従僕となり万菊丸と云ふ童子めきた名をつけて芭蕉の心を慰めたのであろう」と述べている。
 孝女旧蹟保存については、天保年中(一八三〇〜四四)に至り有志の徒が孝女の事跡の堧滅せんことを恐れ、孝女が旧宅の地に一碑を建て其の事跡を刻んでいる。その後明治四十一年、碑を保護するため周囲に石柵を設け、爾来有志の醵金によって年々忌日に法要を営むことを計画した。明治四十一年三月玉垣築造の発起人は岸田吉興、西川林一郎、竹村徳三郎、木原吉太郎、中島仲蔵、松村権次郎の六氏で更に基本金募集を発起、大正九年五月十日「財団法人孝女伊麻旧蹟保存会設立」を申請し、十月二十日民法第三十四条に依り文部大臣中橋徳五郎から許可された。会員七一名であった。毎年二月二十七日法要し近畿より数百名の参詣者があった。保存会は鰻の入ったという壷、今市物語(写本)、郡山侯より拝領の夜具、肥前佐賀藩家老武富氏書状、友竹の描いた伊麻糸紡ぎの像、等の調査と保管にあたった。

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はじめまして!
今日、自転車でこの碑をはじめて観にいきました。
その場では、どのような由緒があるのかよくわからなかったので、
ようやく素晴らしいブログに出会え、理解することができました。
ありがとうございました。

2010/9/20(月) 午後 10:00 メタボチョコ

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いえいえよくみつけれましたね、他にもいろいろありますよ

2010/11/18(木) 午前 7:03 當麻物語


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