當麻物語(歴史)

當麻の里に伝わる物語を紹介します。そして歴史の数々を

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竹内街道資料

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竹内街道(初瀬街道)は飛鳥京と難波津を結ぶわが国最古の官道で、葛城市を東西に横断する重要幹線道路であった。本道は高田で下街道と分岐し、尺土・長尾・竹内等の集落を連ね、竹内峠から河内を経て難披津へ通じていた。『日本書紀』推古天皇二十一(六一一)年の条に
 「二十一年冬十一月、作掖上池・畝傍池・和珥池。又自難披至京置大道。」
と見え、天皇は大和国に池溝を作り農業をすすめ給うと同時に、難波から飛鳥京へ通ずる大道を作られた。大道とはすなわち竹内街道のことで、『日本書紀集解』には
 「自天王寺至橘京之道、今云横大道即是。」
とあり、竹内街道は天王寺より河内国を横断し、竹内峠を越えて飛鳥京に通ずる道路であったことがわかる。竹内街道の利用が最も華々しかったのは、推古天皇から元明天皇に至る約百年間(五九三〜七〇七)で、京が平城に移ってからは暗越奈良街道が竹内街道にかわった。飛鳥京時代には聖徳太子をはじめ何人かの宮廷人が竹内峠を越えられたと考えられ、さらに王仁(わに)・阿直岐(あちき)・阿知使主(あちのおみ)・司馬達・恵慈・曇徴(どんちょう)等の中国・朝鮮からの使者は大陸文化を携えて難波津に上陸し、竹内街道を通って飛鳥京に入ったことと思われる。『日本書紀』に
 「秋七月戊申朔庚戌、大礼小野臣妹子遣於大唐。」とあり、『隋書』倭国伝には「其国書曰、日出処天子、致書日没処天子、……云々。」
と記載され、国書を携えて中国に使した小野妹子や恵明・高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)等の留学生・留学僧は中国へ渡ったが、彼等もまた飛鳥京から竹内街道を難波へ行き、難波から船で大陸へ渡ったのである。竹内街道は中国・朝鮮の大陸文化輸入の大動脈で、竹内集落は難波津と飛鳥京の中間にあたる宿駅であった。京(みやこ)が平城に移ってからも竹内峠は「うぐいすの関」として、何人かの風流な宮廷人が往来したことであろう。街道側の三塚古墳群からは、金銅製金具つき革製のポシェット(画像)がみつかった。留学生が大陸から持って帰ってきたものかも知れず、こんなところにも当時の往来がしのばれる。
また都は変っても上流社会の人々の生活の場が変っただけで、大和・河内の両国の一般庶民の生活が変ったのではない。したがって、竹内街道は大和・河内両国を結ぶ産業道路として庶民生活に結合し、荷車や馬背に荷物を積んだ商人達が往来したのである。
 古代から近世にかけて山岳は軍事的にも重要性をもち、竹内峠はいくたびか軍事的に利用された。後述の『日本書紀』履中天皇の条にあるごとく、太子(履中帝)は少女の言を信じ竹内峠の伏兵をさけ、當麻路(岩屋峠)を越えることによって難をのがれられた。南北朝の動乱期には楠木一族が竹内峠を利用し、元和元年(一六一五年)の大阪の戦に大和から河内へ攻め入った徳川勢も竹内峠を利用している。明治維新の口火を切った天誅組義挙に際し、鷲家口の危地を脱した中山忠光等は文久三年(一八六三年)九月二十七日竹内峠を越したが、その様子は『大和日記』に
「上下七人志を励まし、公然と高田の町を打通り、往還を迅速に走る程に、五つ時頃河        内大和境山の峠に至る。幸なるかな四五日以前までは河内へも所々に敵の出勢ありといえども早や引きけると聞けば、今は心易しと峠の茶屋へ立ち寄り各飯を食ひ居る所へ、士一人通りかかるを呼び留め姓名を問へば、植村駿河守家来と答ふ。されば高取の人にてありけるか、此方どもは天誅組、只今京都へ引取るなり、敵味方の事なれども味方は七八人、其方は一人の儀につき立会は致さずと申し聞けければ、同人大いに恐れ私は軽き者にて何事も存じ申さずなど相答え、逃ぐるが如く行き過ぐるを打笑ひつつ速めに出走、河内を経て昼過ぐる頃大阪にぞ着きにける。」
と記され、天誅組残党の人々が竹内峠頂上の茶屋「峠新」で休息し、高取の武士をからかった記事がみられる。 近世に入るともの詣が盛んとなり、竹内街道は宗教街道としての役割を果し、和泉・河内から伊勢参詣や三上参りの街道として、また壺坂寺・長谷寺・當麻寺詣の参詣道として大いに利用された。
 宿場町「竹内」 竹内は竹内街道に沿う宿場町で、古代には天皇をはじめ聖徳太子や宮廷人等がお泊りになったと思われ、近世にいたっては松尾芭蕉や吉田松陰および伊勢参詣・山上参りの多くの民衆が宿泊した。現在も沿道の民家にはその当時の面影がわずかながら残存している。当時の旅籠については数名の古老から聞いた話を総合すると、西から柳屋・臼屋・餅嘉・花屋・えびす屋・米じま・伊勢屋・桝屋・菊屋・鎌田屋などの旅籠が十軒前後あり、通行人が非常に多かったのでワラジを売っていただけでも生活ができたらしい。柳屋は向いの山腹へ七〜八米の穴を掘り抜き冷蔵庫代りに使用していたが、竹内街道の拡張工事で現在はみられない。餅嘉は最近(明治四十年頃)まで営業していた旅館で、山上参りの客が多勢宿泊していたことを古老達は知っている。鎌田屋は関東までその名が知られ、主として巡礼宿として営業していた。米じま・花屋は旅籠を経営する一方人力車帳場でもあり、当時竹内には十数台の人力車があったらしい。吉田松陰は嘉永六年(一八五三年)三月十二日に竹内へ来て一泊し、翌日五條へ向かって出立している。その様子は松陰の『遊歴日録』に記載されている。
「(前略)……坂の嶺を河内、大和の界となす。坂を下れば竹内村あり、葛下郡に属す。ここに宿す。……(略)」
また、同年四月に竹内峠を通過している様子は、前記の『遊歴日録』に
 「四月四日朝、大坂を発し、高田に至りて宿す。将に八木に抵りて谷三山翁を訪はんとす。坂より八木に赴くには、道、田尻嶺を踰ゆるを便となす。余地理に詳しからず、竹内嶺を越え高田に至れば日已に暮る。……(略)」
とあり、吉田松陰は一度ならず二度竹内峠を通っていることがわかる。
 松尾芭蕉は貞享元年(一六八四年)九月に竹内をおとずれ、『野ざらし紀行』に
 「大和に行脚して葛下郡竹内に至る。ここは千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。藪より奥に家あり、
   わた弓や 琵琶に慰む 竹の奥」
と記され、元禄元年(一六八八年)四月に再度竹内を訪れ伊麻に会った様子は、上野の猿雖にあてた返書(元禄元年四月二十五日付)でわかる。
 「十二日、竹の内いまが茅舎に入る。うなぎ汲入れたる水瓶もいまだ残りて……(略)」
と記載されている。
 牛の鼻引き 竹内峠は竹内集落から急な登り坂となるために、大和から肩引きで来た荷車は竹内峠の急坂を登ることができず、竹内や周辺村落で牛を借り(人夫付)、荷車を牛に引かせて竹内峠を登った。牛の鼻引きは一日に竹内峠を一〜二回往復したもので、明治頃にも盛んにおこなわれ、竹内周辺に鼻引きをする牛が百頭前後もいたらしい。

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