當麻物語(歴史)

當麻の里に伝わる物語を紹介します。そして歴史の数々を

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

葛城市太田小字七夕の中央北寄りの1371番地に、糸の神様として古くから一部の近在の人に細々と崇拝されてきた「タナバタサン」と呼ばれる古い祠が鎮座している。
このタナバタサンの鎮座地は、西に葛城山地、東方眼下には奈良盆地が広がり、北は谷川を隔てて墓地、南には葛城山地支脈が眺めを遮る、葛城山地東麓に位置している。まわりは棚田状の水田が開けているが、傾斜は緩くはない。タナバタサンの境内はかなり広く(673平方メートル)、その中央部には二本の杉の大木と灌木の繁る森があり、その東には横穴式石室をもつ古墳(円墳)とみられる高まりがある。
森の中に小さな石の祠と二基の石灯籠が置かれているが、以前は足を踏み入れるのも躊躇されるほど境内の荒廃はすすみ、鳥居もないので注意しなければ見過ごしてしまいそうであった。
近年の区画整理事業でも、このタナバタサンだけは旧来のまま残されていた。

さて、七夕祭りの由来であるが
日本に七夕の儀式が伝わったのは、五世紀代(古墳時代 )のことである。七夕の儀式は古代中国の乞巧奠(きっこうてん) と呼ばれる宮中儀礼のひとつで、機織(はたお)り技術の向上を願う儀式であった。その儀式は単独ではなく、当時の最新の機織り技術や織機(しょっき)と共に大陸及び朝鮮半島から日本に伝来したと思われ、その裏付けが「七夕」という言葉の音にあると考えられる。
 本来、中国における「七夕」は「タナバタ」とは称さず、「シチセキ」もしくはそれに類似した音で称されていた。当然、我が国に七夕(しちせき)の儀式が伝来した当時は、日本でもそのままの音で称されていただろうことは想像に難くない。
そこで、七夕(しちせき)から七夕(たなばた)へと音が変化した経緯について調べてみると、「七夕(しちせき)の儀礼」と共に、その儀礼と関わりのある「タナバタ」の音を持つ何かが我が国にもたらされ、その影響を受けて音が変化したことがわかる。
 実は「タナバタ」とは「棚機」という織機の形状を指している。五世紀代の倭(わ)の五王(ごおう) の時代、我が国は大陸や朝鮮半島の先進技術や鉄資源を獲得するため、朝鮮半島(百済 ・新羅 )・中国南朝 (宋 )と積極的な外交交渉を行い、その結果、大陸の進んだ鉄器生産・陶器・機織・金属工芸・土木などの諸技術が渡来系工人によりもたらされた。「棚機」もこの時期に伝来した当時としては最新の織機であった。
 「棚機」は機台(棚)の付いた織機のことで、従来のものとは異なる。弥生時代 にはまだ機台付の機は存在せず、布巻具(ちまき)を腰にあてて固定し、坐ったままで織りながら布を少しずつ巻き取る原始機しかなかった。一方、「棚機」には機台から本体をはずせる地機(じばた)、機台・部品が一体となった高機(たかばた)があり、錦・綾など高級絹織物の技術と共に、渡来系技術者(織女・縫女)によって伝えられたとみられている。
 「棚機」を用いる新しい機織りは、特別に高度な技術が必要なため、きわめて限られた専門技術者に担われていた。それは、「複雑な組織の布を織ったり、さまざまな色に染めたり、そして規格化された布を裁断して縫い合せるなど、現在の機織り・染色・裁縫に近い技術であった」という。
七夕(しちせき)が七夕(たなばた)へと音の変化を遂げたのも、「七夕(シチセキ)儀礼・棚機(タナバタ)・最新技術」が三者一体となって我が国に伝来したことを意味するにとどまらず、「棚機」とそれを操る渡来系工人の高度な技術が、それを受容した人々に強烈な印象と新鮮な驚きを持って迎え入れられたことが想像できる。
2)倭文(しどり)氏と七夕儀礼
この時代に「七夕儀礼・棚機・最新技術」この三者をいち早く受容したのが、葛城山麓の北端に位置する奈良県葛城市周辺で染色技術を生業とする置始(おきそめ)氏・機織り技術に富んだ倭文(しどり)氏などの伴造(とものみやつこ) である。大和政権の東にあたるこのあたりは、葛城氏 を中心とする有力豪族が存在し、置始氏や倭文氏もその一部だった。
 近年、葛城地方では五世紀中頃以降の渡来系機織り集団の工房や住居跡が数多く分布していることが明らかになっている。彼ら渡来人が奉斎していたのはシタテルヒメという女神で、葛城氏の本拠地である御所市名柄(ごせしながら)にある名柄遺跡からは機織りの器具が出土し、長柄(ながら)神社はシタテルヒメを祭神としていた時期があるという。また、葛城地方には他にもシタテルヒメを奉斎した神社があり、中世に葛木倭文神社を遷した葛城市博西神社でもシタテルヒメが祭られていた。このようなことから、渡来系機織り集団によって、機織りの技術提供と共にその信仰も、倭文氏などの葛城地方在来の機織り集団に受容されていったことがわかる。
「棚機」を使った機織りが、当時、限られた専門技術者だけに伝えられた最高の技術であったことは前項で述べたが、倭文氏がこの器具と技術とをいち早く受容できたのは、倭文氏が倭文部(しどりべ) という大和政権に職能奉仕をする技術者集団の長(伴造)であったからで、倭文氏の本拠地である葛城市太田に残る小字名「七夕」や「タナバタサン」「棚機の森」などの呼称からも、「七夕(シチセキ)儀礼・棚機(タナバタ)・最新の織物技術」の三者一体の伝来が倭文氏に与えた影響と意味の大きさが伺えるのである。
したがって、倭文氏が機織り技術の向上を願い、彼らの祖神である天羽槌雄神やシタテルヒメを祭神とした葛木倭文神社(現在の棚機神社)で、渡来系工人から棚機と同時期に受容した七夕の儀式を行ったということは十分に想像できるのである。
以上のことから、五世紀中頃の葛城市上太田の棚機神社で、大和政権下の伴造であった倭文氏が、渡来系工人が伝えた古代中国の七夕(シチセキ)の儀礼(乞巧奠)に倣(なら)って機織り技術の向上を祈願する儀式を行い、その儀式は同時に受容した「棚機」という最新の織機の音で訓(よ)まれるようになったと考えられる。そして、倭文氏が大和政権直属の伴造であったこと、「七夕儀礼・棚機・最新技術」の三者は渡来系工人によって、限られた専門技術者だけに伝えられたことを考えると、おそらく倭文氏が日本で最も早くそれらを受容したと思われる。したがって、七夕の儀式を日本で最初に行ったのは倭文氏であり、倭文氏が奉斎した葛木倭文神社(現在の葛城市上太田棚機神社)でその儀式が行われたと考えられるのである。

棚機神社の由来
當麻町太田の棚機の森にたたずむ棚機神社は、次の三点のことから葛城の機織り集団倭文氏(しどりし) が奉斎する古代の葛木(かつらぎ)倭文(しどり)神社(じんじゃ) の鎮座地であったと考えられている。
1)この神社の鎮座地付近には、七夕および七夕蔭という小字名が分布していること。
2)神社の境内に近在の人に糸の神様として古くから「タナバタサン」と呼ばれ崇敬されてきた古い祠(ほこら)が鎮座していること
3)葛木倭文神社の本来の鎮座地がこの棚機の森であるという伝承が残されていること。
3)の伝承とは、磐城村太田の棚機の森にあった葛木倭文神社を、葛城市寺口の博西(はかにし)神社に遷座したという次の口伝である。

〜棚機(たなばた)の森(上太田)〜
字志登梨(しどり)という所に棚機の森というのがある。昔、葛木倭文坐天羽雷命(かつらぎのしどりにいますあめのはつちのみこと)神社があったという。同社を今の葛城市寺口の博西(はかにし)神社へ遷座したとき、途中、同村の大屋にて日が没したので、同地に日暮神社を祀った。加守にある倭文神社は後にこれを遷したともいわれる。上太田の棚機の森には今、数株の古松があってささやかな石祠がある。
『當麻町(現葛城市)史』

また、朝日本『三代実録』貞観元年正月七日条頭注にも次のような記述があり、太田村志登梨(しどり)に葛木倭文神社が鎮座していたとする一説が記されている。

式葛下郡葛木倭文坐天羽雷命神社(大月次新嘗)、北葛城郡當麻町加守、一に太田村志登梨(しどり)。

このように、かつては織り物の神天羽雷命(あめのはつちのみこと)を祭神として太田棚機の森に鎮座していた葛木倭文神社は、中世には葛城市の博西神社に遷され、さらに明治以降は現在の鎮座地である葛城市加守神社に遷されたのである。
しかし、棚機の森に明治十五年に建立された石灯籠には、「七夕□木両神社」と刻まれており、葛木倭文神社が他所へ遷座してからも、七夕神社として明治十五年ごろまで祭祀の続いていたことがわかる。
以上のことからも、棚機の森こそ、口伝のとおり葛木倭文神社の本来の鎮座地であり、この地で七夕祭が行われていたと思われる。そもそも七夕祭の趣旨は、織物技術の向上にあり、古代に織物が盛んに行われていた當麻周辺で、技術の向上を願って倭文氏が何らかの形で祭事を行っていたと考えるのは自然なことであろう。
資料
織姫と夢を駆り立てる古墳の発見が葛城市大田であった
 経緯 太田遺跡第3・4次調査で、古墳時代中期後半から後期の11基(推定分を含む)の古墳が新たにみつかった。いずれも田畑の下に埋もれていたものである。
----中略---- 
 副葬品 奥棺では原位置を動いた状態であったが、濃紺色のガラス臼玉69点、コハク製棗玉1点、黄色の粟玉1点が出土した。副葬当時のままの東側の棺側部分では、鉄鏃が南北に方向を違えて約150本、ならべられていた。周囲には金銅装の帯金具もあり胡録(ころく)をともなっていた可能性が高い。
 袖部分には須恵器がまとまって置かれていた。正位置で立つ器台、その上の壷、器台脚部にもたれかかるように高杯はんぞう、周辺に脚付はんぞう、逆位置の杯蓋、高杯、長脚高杯、鉄鏃の出土があった。隙間に詰めたような状態や、器台脚部に赤色顔料の付着が認められる点からみて初葬の副葬品を、追葬時に「片付け」たものであろう。6世紀後葉の年代観をもつTK43型式に帰属する。
 前棺は、未盗掘であったから有機質以外の副葬品は完全に残っていた。身幅が広く、棺身の高い南側に銀製耳環が2点、ここを頭位置と仮定すると胸辺に黄色、緑色のガラス小玉が約500点、足辺に濃紺色のガラス丸玉が51点、そして有段紡錘形の銀製空玉(うつろだま)が20点、ねじれや曲がりなどカが加わり変形した微細な金片が約50点、棺内各所にちらばっていた。また小さな銀製空丸玉が上半に16点、足辺には18cmの金を貼った木装の鉄刀子が副葬されていた。
 装飾性の豊かな内容をもつが、ガラス玉については被葬者の部位により形状、色調にちがいがある。使い分けられたのだろう。一方、空玉と金片がちらばる状況は特異である。有段紡錘形空玉そのものが斑鳩・藤ノ木古墳・香川県王墓山古墳ほか数例しかないものである。もちろん金片の出土も類例のないものである。
 今回の調査では、横穴式石室に未盗掘の家形石棺が確認され金・銀、玉類で装飾された副葬状況を知ることができた。これから解明しなければならない点が多いが、出土状況が同じである空玉と金片は組み合うものと思われる。次の2つの可能性をあげておきたい。1―被葬者を覆う掛け布の装飾としてちりばめられた。2一全体にちりばめて置くことになん
らかの意味を込めた。いずれの場合も、伝統的な葬送とは違う金、銀の色彩を放つ葬送が藤ノ木古墳被葬者の同世代人といえる小山2号墳前棺被葬者の納棺時に執り行なわれたのである。

以上は報告書の抜粋です、私はまさに、この神社のすぐ近くから発見されたこと、「被葬者を覆う掛け布の装飾としてちりばめられた」から七夕祭りを行っていた織姫の墓だと思いたい。

この七夕史については、平林章仁氏の力添えがなければ出来なかったと思います、この画面をお借りしてお礼申し上げます。

平成15年7月にこの神社で七夕の祭りが行われて以来、実施されていないが、なぜ行われないのでしょうか、これほどの史実があるのに、また地元には保存会もあるのに不思議

閉じる コメント(1)

顔アイコン

埼玉県行田市池守遺跡から6〜7世紀の地機の部品「中軸受け」が出土とのニュースを見て、当時の織機を調べているうちに、ここに立ち寄りました。大変参考かつ興味を持って拝見させていただきました。

2008/6/9(月) 午前 7:08 [ 大森英崇 ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事