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お田植祭は大字長尾の長尾神社では三月四日、大字加守の倭文神社では境内の桜花見頃の四月十五日を選び、大字當麻の山口神社では岳登りの当日(四月二三日)とし、疋田の調田坐一事尼古(つくだにますひとことねこ)神社 おんだ祭りは三月六日午後三時、笛吹神社(葛木坐火雷神社 (かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ))では二月十一日(午後2時)いずれも五穀豊穰祈願(ごこくほうじょうきがん)のため、古式に則りお田植神事を執行している。
たとえば、倭文神社では午後二時、威儀を正した郷中の氏子総代、少年(四人)、町長らが神職の先導で社務所から社殿に参進、拝殿に着坐、海山野幸を献じ、神職の祝詞(のりと)参上、玉串奉奠があり、終ってお田植神事にうつる。拝殿前斎庭には神田に擬えた神事の場を設定、四方隅に忌竹を立て幣を垂した注連縄をめぐらす。まず、神職が「只今からお田植行事を行ないます」と木鍬をふりあげる。
少年たちが牛面を被り、黒胴布で身体を包み、牛に扮した牛頭(社僕)が鼻引網をもって登場、神職が牛を使いつつ、続く社僕が田鋤、馬鍬かきの動作をなし、神田の巽の隅からはじめ右へ三周して終る。そして苗松を地上に挿入して田植の真似をする。あるいは付近に撒(ま)く。当日は、村人たちも大勢参集し、散々暴れる牛をみて応酬、楽しいひとときをすごす。牛が暴れ動作がはげしい年は豊作だという。これが済むと、牛が懐妊したような仕草をする。すると神官が牛の腹をおもむろに撫ぜるのである。しばらくすると、牛の胴布がややふくらみ、子牛を生む。(もう二人の少年が胴布を包んで現われる)。生れた子牛もただちに暴れまわる。かくして芽出たく神事は終り、御供餅まきが行なわれるのである。式後、社務所で直会を催している。こうして子牛の生れる所作事をするのは大和でも当社だけだといわれる。
長尾、山口神社のお田植神事は、大和一円のそれと同じく荘厳に執行しているが、特に子牛の生れる所作事を行なうのは、相殿の掃守神社(現加守神社)は産婆の祖(天忍人命)であるからである。
長尾神社のお田植は当日の午後に行なわれている。
その次第は倭文神社とほぼ同じであるが、牛による耕作の予祝が終った後、牛の懐妊の所作はないが、神職により松葉、杉葉を束ねたものを稲の早苗に見立てて、田植の所作事を行ない、これが済んでから、秋の収獲に見たてた御供餅撒が行なわれるのである。
因(ちな)みに、牛頭及び耕用具には、作製年代が記入してある。年頭には
「明治十二年乙卯二月 日
願主 長尾 吉川清治
中川久造」
とあり、少くとも明治十二年(一八七九)から今日まで百年間持ち続けられたことが分る。
耕作用具の馬鍬にも大正五年(一九一六)の年号が入っている。
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