當麻物語(歴史)

當麻の里に伝わる物語を紹介します。そして歴史の数々を

當麻物語資料

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竹内街道資料

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竹内街道(初瀬街道)は飛鳥京と難波津を結ぶわが国最古の官道で、葛城市を東西に横断する重要幹線道路であった。本道は高田で下街道と分岐し、尺土・長尾・竹内等の集落を連ね、竹内峠から河内を経て難披津へ通じていた。『日本書紀』推古天皇二十一(六一一)年の条に
 「二十一年冬十一月、作掖上池・畝傍池・和珥池。又自難披至京置大道。」
と見え、天皇は大和国に池溝を作り農業をすすめ給うと同時に、難波から飛鳥京へ通ずる大道を作られた。大道とはすなわち竹内街道のことで、『日本書紀集解』には
 「自天王寺至橘京之道、今云横大道即是。」
とあり、竹内街道は天王寺より河内国を横断し、竹内峠を越えて飛鳥京に通ずる道路であったことがわかる。竹内街道の利用が最も華々しかったのは、推古天皇から元明天皇に至る約百年間(五九三〜七〇七)で、京が平城に移ってからは暗越奈良街道が竹内街道にかわった。飛鳥京時代には聖徳太子をはじめ何人かの宮廷人が竹内峠を越えられたと考えられ、さらに王仁(わに)・阿直岐(あちき)・阿知使主(あちのおみ)・司馬達・恵慈・曇徴(どんちょう)等の中国・朝鮮からの使者は大陸文化を携えて難波津に上陸し、竹内街道を通って飛鳥京に入ったことと思われる。『日本書紀』に
 「秋七月戊申朔庚戌、大礼小野臣妹子遣於大唐。」とあり、『隋書』倭国伝には「其国書曰、日出処天子、致書日没処天子、……云々。」
と記載され、国書を携えて中国に使した小野妹子や恵明・高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)等の留学生・留学僧は中国へ渡ったが、彼等もまた飛鳥京から竹内街道を難波へ行き、難波から船で大陸へ渡ったのである。竹内街道は中国・朝鮮の大陸文化輸入の大動脈で、竹内集落は難波津と飛鳥京の中間にあたる宿駅であった。京(みやこ)が平城に移ってからも竹内峠は「うぐいすの関」として、何人かの風流な宮廷人が往来したことであろう。街道側の三塚古墳群からは、金銅製金具つき革製のポシェット(画像)がみつかった。留学生が大陸から持って帰ってきたものかも知れず、こんなところにも当時の往来がしのばれる。
また都は変っても上流社会の人々の生活の場が変っただけで、大和・河内の両国の一般庶民の生活が変ったのではない。したがって、竹内街道は大和・河内両国を結ぶ産業道路として庶民生活に結合し、荷車や馬背に荷物を積んだ商人達が往来したのである。
 古代から近世にかけて山岳は軍事的にも重要性をもち、竹内峠はいくたびか軍事的に利用された。後述の『日本書紀』履中天皇の条にあるごとく、太子(履中帝)は少女の言を信じ竹内峠の伏兵をさけ、當麻路(岩屋峠)を越えることによって難をのがれられた。南北朝の動乱期には楠木一族が竹内峠を利用し、元和元年(一六一五年)の大阪の戦に大和から河内へ攻め入った徳川勢も竹内峠を利用している。明治維新の口火を切った天誅組義挙に際し、鷲家口の危地を脱した中山忠光等は文久三年(一八六三年)九月二十七日竹内峠を越したが、その様子は『大和日記』に
「上下七人志を励まし、公然と高田の町を打通り、往還を迅速に走る程に、五つ時頃河        内大和境山の峠に至る。幸なるかな四五日以前までは河内へも所々に敵の出勢ありといえども早や引きけると聞けば、今は心易しと峠の茶屋へ立ち寄り各飯を食ひ居る所へ、士一人通りかかるを呼び留め姓名を問へば、植村駿河守家来と答ふ。されば高取の人にてありけるか、此方どもは天誅組、只今京都へ引取るなり、敵味方の事なれども味方は七八人、其方は一人の儀につき立会は致さずと申し聞けければ、同人大いに恐れ私は軽き者にて何事も存じ申さずなど相答え、逃ぐるが如く行き過ぐるを打笑ひつつ速めに出走、河内を経て昼過ぐる頃大阪にぞ着きにける。」
と記され、天誅組残党の人々が竹内峠頂上の茶屋「峠新」で休息し、高取の武士をからかった記事がみられる。 近世に入るともの詣が盛んとなり、竹内街道は宗教街道としての役割を果し、和泉・河内から伊勢参詣や三上参りの街道として、また壺坂寺・長谷寺・當麻寺詣の参詣道として大いに利用された。
 宿場町「竹内」 竹内は竹内街道に沿う宿場町で、古代には天皇をはじめ聖徳太子や宮廷人等がお泊りになったと思われ、近世にいたっては松尾芭蕉や吉田松陰および伊勢参詣・山上参りの多くの民衆が宿泊した。現在も沿道の民家にはその当時の面影がわずかながら残存している。当時の旅籠については数名の古老から聞いた話を総合すると、西から柳屋・臼屋・餅嘉・花屋・えびす屋・米じま・伊勢屋・桝屋・菊屋・鎌田屋などの旅籠が十軒前後あり、通行人が非常に多かったのでワラジを売っていただけでも生活ができたらしい。柳屋は向いの山腹へ七〜八米の穴を掘り抜き冷蔵庫代りに使用していたが、竹内街道の拡張工事で現在はみられない。餅嘉は最近(明治四十年頃)まで営業していた旅館で、山上参りの客が多勢宿泊していたことを古老達は知っている。鎌田屋は関東までその名が知られ、主として巡礼宿として営業していた。米じま・花屋は旅籠を経営する一方人力車帳場でもあり、当時竹内には十数台の人力車があったらしい。吉田松陰は嘉永六年(一八五三年)三月十二日に竹内へ来て一泊し、翌日五條へ向かって出立している。その様子は松陰の『遊歴日録』に記載されている。
「(前略)……坂の嶺を河内、大和の界となす。坂を下れば竹内村あり、葛下郡に属す。ここに宿す。……(略)」
また、同年四月に竹内峠を通過している様子は、前記の『遊歴日録』に
 「四月四日朝、大坂を発し、高田に至りて宿す。将に八木に抵りて谷三山翁を訪はんとす。坂より八木に赴くには、道、田尻嶺を踰ゆるを便となす。余地理に詳しからず、竹内嶺を越え高田に至れば日已に暮る。……(略)」
とあり、吉田松陰は一度ならず二度竹内峠を通っていることがわかる。
 松尾芭蕉は貞享元年(一六八四年)九月に竹内をおとずれ、『野ざらし紀行』に
 「大和に行脚して葛下郡竹内に至る。ここは千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。藪より奥に家あり、
   わた弓や 琵琶に慰む 竹の奥」
と記され、元禄元年(一六八八年)四月に再度竹内を訪れ伊麻に会った様子は、上野の猿雖にあてた返書(元禄元年四月二十五日付)でわかる。
 「十二日、竹の内いまが茅舎に入る。うなぎ汲入れたる水瓶もいまだ残りて……(略)」
と記載されている。
 牛の鼻引き 竹内峠は竹内集落から急な登り坂となるために、大和から肩引きで来た荷車は竹内峠の急坂を登ることができず、竹内や周辺村落で牛を借り(人夫付)、荷車を牛に引かせて竹内峠を登った。牛の鼻引きは一日に竹内峠を一〜二回往復したもので、明治頃にも盛んにおこなわれ、竹内周辺に鼻引きをする牛が百頭前後もいたらしい。

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中将姫資料

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 中世における中将姫伝説は、他に現存本として『中しようひめ』と『中将姫本地』とがある。前者は広島大学国文研究室所蔵本、奈良絵本として上下二冊。近世中頃の奈良絵本で絵も字体も鮮明、丁寧である。類似本として他に岡山県立図書館にも「中将姫ものがたり」があるという。後者『中将姫本地』は刊記に「慶安四年八月吉日」とあり、これは東大寺図書館蔵本、ともに室町時代における中将姫説話であり、内容的には至極類似している。
『中将姫本地』を中心にその内容を検するに、横佩大臣豊成の女中将姫は母に死別、後妻は性悪で姫を憎む。姫十三才の時、帝はこれを入内せしめようとした時も奸計(かんけい)をもって妨害時に豊成に姫のことを讒言(ざんげん)する。怒った豊成は武士に命じ姫を雲雀山で斬らせようとしたが、武士はこれを助ける。年経て豊成狩に出て偶然姫に会い前非を悔い家に連れもどした。時の帝は姫を后にたてようとしたが、姫は家を逃れ、比丘を名のって當麻寺に入る。やがてその姫の信仰の篤さは弥陀に通じ、化尼となって現れ、姫に助力して蓮の糸で曼荼羅を織った。最後は廿五菩薩の来迎を得て往生の素懐を遂げた、というのである。
これはすでに述べて来たことからもわかるように、前半『ひばり山』後半『當麻曼荼羅』の筋をもつものである。伝説の人中将姫は豊成の子として述べられているが『尊卑分脈』によると豊成には四男一女があり、その一女をさすものかと考えられる。しかし、これも定かではない。およそ中将姫の名は『古今著聞集』やその他の縁起には見当らない。『當麻文書霊宝目録』や、謡曲「當麻」にその名があり、これは文明十五年(一四八三)の証があって、當麻寺文書などから勘案すれば享禄ごろ(一五二八〜三二)には世間に流布されていたものと思われる。
謡曲「雲雀山」では姫を庇護したのは乳母侍従とあるが、ここには武士とし『和漢三才図会』など刑部春時夫婦としている。後の稗史によるものと思われるが、その物語はいわゆる継母ものであり、その先蹤はすでに『今昔物語』などにもある。曼陀羅伝承についてはかなり古く、その絵巻は神奈川県鎌倉寺所蔵のものがあり『群書類従』(注1)にも収載されている。
要するにこの二者は別の物語、継母の子いじめ、と寺社縁起とを混じたものであり、いろいろな曲折のすえ、往生本懐をとげるというもので素材は古きに求めているがその構成は室町ものとしてその特徴を有している。(當麻町史引用)
 

孝女伊麻資料

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伊麻は俗にお今(以下伊麻と書く)という。今市の人、長右衛門の子にして、長兵衛という弟があった。
 父は農夫で、その祖は肥前(九州佐賀県)の国佐賀の藩士であったという。伊麻は寛永元年(一六二四)に生れた。幼き時、母を失い、大阪から迎えた父の後妻と、その子二人と、伊麻、弟長兵衛の六人暮しであった。伊麻と長兵衛は継母によく仕え、父に孝養をつくしたが、後母は継母のならいとて二人をにくむこと甚しかった。父は心配して伊麻を弁之庄村の農家へ下女に、長兵衛を大阪の商家へ丁椎(でっち)に遣った。時に寛永十三年(一六三六)伊麻は十三、長兵衛は九歳であった。伊麻も長兵衛も其の身の他人につかえることは苦しいとも思わなかったが、ただ朝晩父の顔を見ないのを悲しいと思って胸を痛めた。その後、継母は田舎に居ることがいやになり、父にすすめてもとの大阪の天満に移住した。そこで伊麻も父の顔を見たさに雇主に頼んで時々天満に行った。その後伊麻は弁之庄をやめて同郡の竹内村の農家粕屋(かすや、今の苗村民の祖)へ下女に入った。その頃、伊麻も相当の年令になったので家主は伊麻のために主家の隣に一軒の家をあたえて住まわせた。そこで糸をつむぎ布を織って生計を立て、その一部は父の許に送った。
弟の長兵衛も年が長じたので暇をもらい大阪から故郷の今市村に帰り、妻をもらい桶屋を家業として、もうけた金は父のもとへ送った。伊麻も長兵衛もたびたび大阪の父をたずねて喜ばしていた。ただ父と子が別々に住んで親孝行の出来ないのを嘆いていた。
 天満の父の家庭状況も貧困になり、継母は父を捨てて二人の生んだ子と共に家出をしてしまった。行方はわからなかった。
 伊麻と長兵衛の二人はこれを知って大いにびっくりし急いで天満にかけつけ、父をつれて今市に帰った。伊麻は仕事が終ると夜毎にかならず今市に帰って父につかえていた。この後、父の心にまかせ、伊麻の竹内の家に十日居れば、次ぎの十日は長兵衛の今市の家に暮らすことにした。その往還には長兵衛が父を背負いその後より伊麻がついて行くのであった。これを見る村人で二人の孝養に賞詞しないものはなかった。
 ある時のこと伊麻が父に言うに 「大阪へ行って継母とその二人の弟をたずねて、ともに一家集まって住みたい」と。しかし父は「あのような薄情な妻はない。もし彼女がここへたずねて来ることでもあれば、一生のうらみ者として許さない」と言ったので、伊麻はそれっきりにして止めた。
 長兵衛は、家を出るときには、妻に「父の言には善悪となく少しもそむいてはならぬぞ、もしそむくことがあれば、おれの妻ではないぞ」と言いさとし、外から帰った時には、餅、あめ、おこし、くだものを持って帰り父にすすめた。長兵衛は毎日桶の輪替えに出稼ぎをしていたが、朝は父を負って寺に参詣し、夕方は仕事を絶えて帰りすぐ父を寺まで迎えに行った。
 寛文十一年(一六七一)夏の頃、疫痢が流行した。各地でそのため多くの人が死んだ。父の長右衛門は竹内の伊麻の家に居たが、不幸にしてその病にかかり、食物が咽を通らないこと数日の重病になった。長兵衛も来て二人は昼となく夜となく介抱したが少しも快方に向わず、危篤の状態に陥った。この時医者が、うなぎを煮て食べると病が妙に治るという。二人は早速うなぎをさがしたが見当らず大いに力を落した。その日も空しく暮れた。その夜深更におよんで、水瓶の中に水のあふれるような音がした。二人があやしんで灯を点じてこれを見ると、大きなうなぎがおどっているのであった。二人の喜ぶこと限りなく「神仏のわれらを憐み援け下さったものだ」と掌を合せて拝んだ。すぐに調理して父にすすめ、父も喜んでこれを食べた。奇なるかな、さしも重かった病もたちまち全快した。
 これを聞いた村人たちも、其の残余のうなぎをもらって食べ全快したものが多かった。
 遠近の人びとこれを聞いて、孝子の誠心が天に通じたのであろうと感激しないものはなかった。これは同年の六月十二日のことで伊麻数えの四十八歳(一般書に四十六歳とある)であった。
 領主郡山侯(本多内記政勝)大いに感賞して銭穀を伊麻にあたえた。(大和人物志は松平信之とあるがこの人は八年後の延宝七年の入城である)
 その後二年を経て父長右衛門は病無くして没した。時に延宝元年(一六七三)十一月二十三日齢七十九であった。父臨終の時も弟はその日例の如く仕事をして後、高田へ行き、餅、炭などをもとめて帰り、餅を父にすすめ、火をもって父の体を温めたところ父は「冬の夜の寒さも知らず」と喜びつつ快よく眠った。伊麻も長兵衛も各自寝所に入ったが、にわかに胸うちさわぎて寝られず、あやしく思い起き出て、父の寝所をうかがうと、これそも如何に、父はすでに息絶えていた。二人の悲歎は言葉ではいえず、近隣も亦ふかく同情して、二人を慰め、泣く泣く野辺の送りをして心のかぎりの追善を営んだ。
 貞享五年(一六八八、九月元禄と改元)四月十二日、竹内の伊麻の家へ俳人芭蕉が訪問している。千里の妻の案内で芭蕉と附添の万菊丸の三人である。伊麻の家の軒下に清き小川があり二室しかない茅舎に表の間に伊麻が機織をしていた。芭蕉は千里の紹介で孝女伊麻のうなぎの話を聞いて、伊麻と面談しおおいに感激した、時に伊麻は六十五、芭蕉は四十五歳であった。
 芭蕉は大和を去って京都にゆき伊麻の事歴を其の友人雲竹に語った。雲竹も大いに歎賞し、画工友竹をつれて竹内に来て伊麻の肖像を画かしめ、雲竹は孝女の事歴をその上に記している。
伊麻は天性和順で心正直にして、寡言、慎しみ深く、弟の妻子を愛すること、まるで自分の子の如くしたので、彼等も母の様に敬い親しんだという。長兵衛は常に妻に誡めた。我が姉は、早くから孝行心深く、外に嫁すればその家の親しみを密にし、実母には疎くなるとて遂に嫁入しなかった。故に子はないから心細いと思う。汝等は実の母の如く接することだと。伊麻は年老いてもすこぶる身体壮健であった。他人に求める心いささかもなく、独り暮しで世を過した。その中で四十余年の久しい間一日の如く孝養をつくした。後の半生四十年は父の供養のため尼となり宝永元年(一七〇四)二月二十七日享年八十一で没した。弟の長兵衛も同二年六月二十日享年七十八で没した。
 その後、郡山藩の柳沢里恭は河内の国高貴寺へ参詣の節、常に竹内村を通行せられ、孝女の事蹟を聞き、感歎のあまり自ら筆を揮って「孝女於伊麻旧跡」の七字を書し、里人にあたえた。たまたま浪華の随柳という人が孝女の跡を弔らはんと来り、この事を聞いて資を出して石に彫らしめ、孝女が朝夕水を汲んだ小川の辺に建てしめた。この碑は、今も尚存している。
 孝女伊麻は遂に本朝二十四孝の一に数えられるに至った。
 天保十一年(一八四〇)同邑の仲島孝寛、上田観扈等がその事蹟を調査し、安田定国をして、これを記さしめ、一碑を南今市の旧宅の跡に立てた。題して孝子の碑という。(當麻町史より)
 うなぎの出現について諸説がある。
 『孝道』 (沢柳博士著)には「其の日の暮方に伊麻出でて水を汲みて帰りしに桶の中に怪しき物の騒ぐ音しければ火を点して能々見しに是は二人が切に求めつつありし鰻なり
き」とあり、『孝子今市物語』には「家のはとりに細きながれあり常にその水をくみて井にかへけり此時もくみもてきてひとつのかめにおきけるか小夜ふくるほとにかのかめなる水にはかにあふる音しけりあやしと思ひて行て見れば魚の大きやうなるがかめのうちにうごめきゐたり」とある。
 『百輯女鑑』(畠楠氏著)には「或る医師にはかりしに鰻を食はしめなば治すこともやあらんと言ひければ(中略)其日夕暮に伊麻は井にて水を汲みける折に不思議や釣瓶の中に物あり蛇にもやあらんと驚きて火に照して之を視れは鰻なりし」とある。これは引用書として、「孝道故事要略」、「年山打聞」、「叢語」、「今市物語」を示しているから前述の書から話が変化していることが判る。
 岸田吉興著の『孝女於伊麻之伝』には「其夜深更に及び水瓶の中に水の溢るる如き音しければ、二人怪み火を点して之れを見れば大なる鰻の躍るにてぞありける」とある。
 『大和孝子伝』(山田安氏編)には「其夜深更に及び軒下を流るゝ谷川に洗ひ清むべく浸しありし水瓶の中に水の溢るる如き音しければ、二人怪み火を点してこれを見れば大なる鰻の躍るにてぞありける」とある。
 『大和の伝説』(増補版)には「その夜、水かめの中から音がするので、ふたりがあやしみ、火をともして見ると、大きなうなぎが泳いていた。」(池田未則)とあり、仲川明著の『子供のための大和の伝説』には「その夜、水かめ(水を入れるつぼ)のなかで音がしますので、」と書き「ふたりの孝行に感じて誰かが知らぬ間に、うなぎをここへ入れておいてくれたのかもしれません」と書き添えている。
 この鰻の出現に関する記録の中で、最も古いと思われる、貞享五年(一六八八)七月の雲竹の文に「及ニ深更-干レ時瓶水有レ声不レ堪レ聴駭起視之鰻魚躍レ干レ瓶探摯調味膳レ焉」とあるので家の中のようである。現存する瓶(上田氏蔵)は余り大きくなく色々にも考えられる。この話も奇跡としてそのまま伝え深く掘りさげて想像をたくましくする必要はない。芭蕉が京都へ入ったのは四月二十三日であるから雲竹を訪うたのが四月二十六日である。そして芭蕉の猿雖への書簡には「十二日竹の内いまか茅舎に入、うなぎ汲入たる水瓶もいまだ残りて、わらのむしろの上にて茶酒もてなし、かの布子うりたしと云けん万菊のきる物のあたひは彼におくりて通る。おもしろきおかしきもかりのたはふれにこそあれ、実のかくれぬものを見ては身の罪かそへられて、万菊も暫落涙おさへかねられ候。」とある。
大正十三年五月四日、綿弓塚再興記念俳句会の席上で、俳人野田別天棲は「芭蕉翁と竹内」と題する講演の中で「芭蕉の書単に『うなぎ汲み入たる水瓶もいまだ残りて』とあるのは伊麻の父大患の折に鰻が躍っていたと云ふ水瓶である。土地の人の一説には鰻は前の小川の淵に居たのを捕った、そして水瓶に入れたのだと云ふ。芭蕉の文『うなぎ汲み入りたる水瓶』とあるから前の小川で捕ったのが即捕りて水瓶に入れたのが事実に近かろう。この由緒深き水瓶は今も保存されている。『わらの席の上にて茶酒もてなし』とあるは芭蕉が用意の茶酒を伊麻に与へた事の様でもあり、又伊麻が茶酒を具って遠来の芭蕉をねぎらった様にも聞える。恐らくは後者であろう。『かの布子うりたしと云けん万菊のきる物のあたひは彼れに送りて通り』とある。万菊はこの旅行に芭蕉の御供をした杜国のことで、彼は芭蕉の従僕となり万菊丸と云ふ童子めきた名をつけて芭蕉の心を慰めたのであろう」と述べている。
 孝女旧蹟保存については、天保年中(一八三〇〜四四)に至り有志の徒が孝女の事跡の堧滅せんことを恐れ、孝女が旧宅の地に一碑を建て其の事跡を刻んでいる。その後明治四十一年、碑を保護するため周囲に石柵を設け、爾来有志の醵金によって年々忌日に法要を営むことを計画した。明治四十一年三月玉垣築造の発起人は岸田吉興、西川林一郎、竹村徳三郎、木原吉太郎、中島仲蔵、松村権次郎の六氏で更に基本金募集を発起、大正九年五月十日「財団法人孝女伊麻旧蹟保存会設立」を申請し、十月二十日民法第三十四条に依り文部大臣中橋徳五郎から許可された。会員七一名であった。毎年二月二十七日法要し近畿より数百名の参詣者があった。保存会は鰻の入ったという壷、今市物語(写本)、郡山侯より拝領の夜具、肥前佐賀藩家老武富氏書状、友竹の描いた伊麻糸紡ぎの像、等の調査と保管にあたった。

大津皇子資料

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 二上山雄岳(おだけ)の絶嶺に大津皇子の墓がある。大津皇子は天皇の御子であり、皇位継承をめぐる政争の悲劇の主人公でもある。処刑され、やがて二上山に葬られた大津皇子を偲んで皇子の姉大伯皇女は『万葉集』に
大津皇子の屍(しかばね)を葛城の二上山に移し葬る時大伯皇女(おおくのおうじょ)の哀傷して作らす歌
うつそみの人なる私は明日からは二上山を弟(いろせ)とあがみむ(巻二、一六五)
とその悲しみを詠んだ。この世の人である私は明日からは二上山を弟と思って眺めよう、というのである。最切の二句はやや理路にわたるうらみはあるが、四五句の非論理的な情感に投影せられ、深い哀惜の情をかなでている。それまでは大津皇子はどこに葬られたのであろうか。謀反人に殯宮(ひんきゅう)を設け誄(しのひごと)を奉ることはよもやあるまい。埋め捨てられたに違いない。その感傷も暗示され「二上山を弟とみる」一見感じる連想の飛躍もよむ人を引きつける。大和国原を圧して西方に屹立(きつりつ)する二上山はいつどこにおいても仰ぎみることのできるだけに、皇女にとってまさに二上の山は弟そのものであった。
それにしても、皇女のかかる哀傷をもたらした歴史的背景は何であったろうか。
大津皇子は風貌大きく達しく威儀高かった。上代の漢詩集『懐風藻』も「状貌魁梧・器字峻遠」と評し、『書紀』では「音辞俊朗、及長弁有才学」としてその学才をほめ詩賦の興りはこの皇子によって始められたともいう。天智天皇の皇女太田を母として、とりわけ天智の寵をあつめ、その皇女山辺を妻にしている。
この大津皇子には母を異にする多くの兄弟があったが、わけても持統天皇を母とする皇太子草壁皇子、草壁の死後皇太子となった高市皇子(母は身分卑しい)等の皇兄があって、皇位継承をめぐる暗い渦が巻いていたのである。やがて父天武天皇の死は、その渦に決定的な断が下された。「皇子大津、謀反(かたむ)けむとして発覚れ」(『書紀』)たのである。憎行心などと与(くみ)しての挙だという。翌日「訳語(おさ)田の舎(いへ)に賜死しむ」時に弱冠二十四才。
しかし、この謀反を大津皇子を除くために持統天皇が仕組んだものとする説が強い。朱鳥元年(六八六)九月九日、天武天皇が死ぬや、一月を出ずして十月二日謀反の罪に問われ、処刑が翌三日。なぜ持統天皇をしてかかる迅速な処断をなさしめたのか。何らかの背景があったろうと思われる。またこの謀反には三十余人が連座したが、一二を除いてあとは大津にあざむかれたものとして許されているのも腑におちない。偉丈夫大津皇子からわが子草壁の皇位継承を守らんがための持統天皇の母心が裏に流れていはしなかったろうか。
草壁皇子にもまたそのような対立的感情がなかったとはいい切れない。その一端は石川郎女との恋愛関係にもみられる。
日並(草壁)皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首女郎字を大名子といふ
大名子を彼方野辺に刈る苧の束の間も忘れめや(巻二、一一〇)
あなたをむこうの野原で刈る草の束のように少しの間も私は忘れはしないよ、というのである。「束」は「たば」と「瞬間」との「ツカ」の同音の序。このような草壁皇子の石川郎女に対する愛情表現とともに、大津皇子もまた石川郎女と恋の贈答をしている。石川郎女に贈る御歌一首(一〇七)、石川郎女の和して奉る歌一首(一〇八)である。ただ、草壁皇子のは一方的で奉和の歌がないのも何か暗示的である。このような関係がどのような結末をもったかは詳かではないが、大津・郎女の関係は長く保たれたようである。それだけに大津皇子に対する草壁皇子の心情も推測し得よう。
なお、これと関連して、単に大津皇子の謀反として処理しえない証しを更に万葉歌に求めると。
大津皇子竊(ひそ)かに石川女郎に婚ふ時、津守連通その事を占へ露はすに皇子の作らす歌一首
大舟の津守が占に告らむとはまさしに知りて我が二人寝し(巻二、一〇九)
同じく石川郎女との関係を詠んだものであるが、さきのように単なる相聞歌でないことは題詞の示すとおりである。津守連通は占術師であり、大津皇子が石川郎女と密通したのを露わしたのである。それにしても、かかる私事に対し誰がどんな目的をもってト定を試みたのであろうか。疑うべき徴証があれば、占術に頼る場合はあろう。允恭天皇の夏、羹(あつもの)が凍るという変事があった。天皇は怪しみ、それを占術にかけられたところ、内乱(近親相姦)の事実、すなわち軽太子兄妹姦通が明らかにされたということがある。しかし今の場合そのような「吸物が凍る」といったような変事はないのである。結論を急ぐならば、この大津に対するト定は、絶えず大津の行動が問われ探られて、いわば持統天皇による秘密組織のような綱の中にあって、その機関のなせるわざではなかろうか。そしてそのような事情はすでに大津皇子に察知されていたのであろう。「ひそかに」「まさしに知りて」は充分その事情を語っている。持統天皇の大津抹殺策が次第に急を告げてきた時、身のおきどころをなくして「まさしに知りてあが二人寝し」とむしろ自棄的に詠んだ大津皇子の心情はまことにあわれであった。
このような状勢の急迫はますます皇子を窮地に追いやり悶々の日をすごすようになる。
大津皇子、密(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来る時に大伯皇女の作らす歌二首
わが背子を大和へやるとさ夜ふけてあか時露にわが立ちぬれし(巻二、一〇五)
二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(一〇六)
伊勢の地にひそかに下って斎宮(いつきのみや)(注5)に姉大伯皇女を訪れたのもこの時分であろう。この伊勢下向の理由はやはり自らの窮状を訴えたのであろう。あるいは身の不遇を予測して、訣別のなごりの一時を得たのかもしれない。皇子の後姿を見送りつつ詠まれたこの二首には、離別して再びあえぬかも知れぬ皇弟の安息をひたすら祈る肉親への愛情が横溢している。
やがて逮捕、処断。
大津皇子、死を賜りし時に磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨をけふのみ見てや雲がくりなむ(巻三、四一六)
死を賜った大津皇子が、磐余(いはれ)の池で鳴いている鴨を今日限りに見て、私はこの世を去って行くのであろうか、というのである。磐余は現在の桜井市池之内あたりにあった地名『履中紀』には、二年「十一月、作磐余池」とあるが、今日その遺跡は残存していない。池に潜く鴨をみて死出の旅路を思いやる作者の心中は察するに余りあるが、また、従容として死につく態度は皇子の人柄をよく表わしているといえよう。「けふのみみてや雲隠りなむ」の「や」〜「なむ」は疑問であるがむしろ詠嘆の響きをもって迫ってくる。「雲隠りなむ」は「死ぬ」を直接避けたいわゆる敬避表現であるが、むしろ第三者的な冷静さを思わせる。
なお、皇子は『懐風藻』に五言臨終一絶を伝えている。「金烏西舎を臨(てら)し、鼓声短命を催す、泉路賓主なく、此の夕家を離れて向かう」日はもはや西に傾いて命を刻むような鼓の音が聞こえてくる。迎える人の無い黄泉はいずこであろう。というのである。国学者契沖はその著『万葉集代匠記』で「歌といい、詩といい、声を呑て涙を掩(おお)ふに遑(いとま)なし」とのべている。さて、皇子の処刑は妃山辺皇女をして悲嘆の淵に陥入(おとしい)れた。「妃皇女山辺、髪を被(くだしみだ)して徒跣(そあし)にして奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ」(『書紀』)見る人皆悲しんだというのもまたむべなるものがあろう。
大伯皇女はその訃報に接して慟哭した。しかし、斎宮の身、自由に行動できるものでない。やっと解かれて帰京したのが、十一月
大津皇子薨ぜし後大伯皇女伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首
神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに(巻二、一六三)
見まくほりあがする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに。(一六四)
前者は伊勢の国にいればよいものを、そうしていないでどうして帰ってきたのであろうか、いとしい大津もいないのにの意であり、後者は、私が会いたいと思う君もいないのにどうして帰って来たのだろうか。馬が疲れるばかりであるのにというのである。
このように帰京してどれほどたったか詳かではないが、やがて大津皇子の墓が移葬されたのである。冒頭の大伯の歌はまた新たに人々の悲しみをさそうこととなった。
それからすでに現在まで千三百年、悲劇の皇女と皇子との悲しみを今も二上の茜色の夕映えにかいまみて、われわれは再び古代の情調の中に身を置くのである。(當麻町史より)
一説によると、葛城市新在家にある鳥谷口古墳が本当の大津皇子の墓だという説もある。
最後の画像は飛鳥からみた二上山である、神々しい二上山に西方極楽浄土をみた古代人の気持ちがうかがえる美しい姿です。

當麻蹶速資料

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日本書紀に當麻の蹶速(けはや)のことが記載されています。
内容は、昔、當麻に大へんカのすぐれた人があった。名を當麻の蹶速といった。角をさき、カギを真すぐにのばしたりすることは、いと易く、その上、足で人をけり倒すことも上手であった。「広い世の中に我とカくらべをして勝つものはない」と心に思い人にも語っていた。時の天皇が「彼と力合せをする者は誰かないか」とお問いになると、「出雲の国に野見宿祢(のみのすくね)という者がいます。彼こそ力はすぐれています」と申し上げた者があった。「さらば彼を召せ」との仰せがあった。その日に倭直の祖である長尾市という者を勅使として野見の宿祢を召された。七月七日を期して蹶速と、すくねの二人に角力を取らせられた。たがいにけり合って遂に、蹶速は脇骨をけり折られて生命を失った。その時、賞として野見宿祢は蹶速所有の地を賜わったという。

大字當麻には當麻蹶速の墓と伝承する五輪塔があり、角力(すもう)関係者の信仰の対象となっている。一に當麻国見の墓ともいわれるが、五輪塔は鎌倉期の作である。

【参考:日本書紀】
―垂仁紀七年七月乙亥条―
七年の秋七月の己巳の朔にして乙亥に、左右奏して言さく、「当麻邑に勇悍の士有り。当麻蹴速と曰ふ。其の為人、力強くして能く角をかき鉤を申ぶ。恒に衆中に語りて曰く、「四方に求むに、やまかんむり豈我が力に比ぶ者有らむや。何とかも強力者に遇ひて、死生を期はず、頓に争力すること得てむ」といふ」とまをす。天皇聞しめして、群卿に詔して曰はく、「朕聞かく、当麻蹴速は天下の力士なりと。若し此に比ぶ人有らむや」とのたまふ。一臣進みて言さく、「臣、聞るに、出雲国に勇士有り。野見宿禰と曰ふ。試に是の人を召して蹴速に当せむと欲ふ」とまをす。即日に、倭直が祖長尾市を遣し、野見宿禰を喚す。是に野見宿禰、出雲より至りしかば、当麻蹴速と野見宿禰とに捔力せしむ。二人相対ひ立ち、各足を挙げ相蹴う。則ち当麻蹴速が脇骨を蹴ゑ折り、亦其の腰を踏み折りて殺す。故、当麻蹴速が地を奪りて悉に野見宿禰に賜ふ。是を以ちて、其の邑に腰折田有る縁なり。野見宿禰は及ち留り仕へまつる。

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