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			<title>當麻物語（歴史）</title>
			<description>奈良の當麻に伝わる色々な物語を紹介します。ご感想があればどしどしお寄せ下さい。また地域のいろんなお話があれば教えて下さい。「河内のカエル」のような話がたくさんあると思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>當麻物語（歴史）</title>
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			<description>奈良の當麻に伝わる色々な物語を紹介します。ご感想があればどしどしお寄せ下さい。また地域のいろんなお話があれば教えて下さい。「河内のカエル」のような話がたくさんあると思います。</description>
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			<title>葛城の郷風土記が作成されました。</title>
			<description>葛城市内に伝わる民話や伝統行事・昔の暮しぶりを掘り起こして次世代に伝え、郷土愛を育むことを目的として作成されました。&lt;br /&gt;
風土記の内容は、市民よりお話や行事などを聞取りし、行事集、民話集、紙芝居を制作しています。&lt;br /&gt;
葛城市内の図書館にありますので是非ご覧下さい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/49524629.html</link>
			<pubDate>Mon, 16 Feb 2009 10:12:39 +0900</pubDate>
			<category>奈良県</category>
		</item>
		<item>
			<title>現在の来迎会</title>
			<description>四月二十九日　ネリゾメ　十四日に行われる来迎会のために菩薩に扮する菩薩講の人々が山内護念院であらかじめ打ちあわせ及び行道の稽古を行う日である。この日に菩薩講各組から１名ずつ順次菩薩役等（ただし観音・勢至をつとめる人は特定されている。）が決められる、ただし観音・勢至をつとめる人は特定されている。&lt;br /&gt;
　五月十四日　来迎会　午後十二時頃より菩薩・天童に扮する菩薩講の人々が護念院に集まり、菩薩の面や装束をつける。菩薩に扮する人はまず最初に下着をつけ、「襪」（しとうず）（注１）をはく。「下衣」（したごろも）をつけその上に「腰飾」（こしかぎり）をまわす。　次に「上衣」（うわころも）を著し、「袈裟」（けさ）の右を輪にして腰にまくようにつける。装束の最後に「天衣」（てんね）をかける。頭に「汗とり」を巻き、「面」「輪光」（注２）をつけ、最後に「手袋」をつけ、それぞれ菩薩に決められた「持物」をもつ。&lt;br /&gt;
この日は護念院の本堂のすぐそばの北側の屏から隣の曼荼羅堂に臨時に橋がかけられる。菩薩並びに僧侶などはこの橋をわたり、曼荼羅堂へいく。普段は曼荼羅堂とよばれているが、この日だけ極楽堂とよばれ、極楽堂から娑婆堂（常設）へ臨時の橋がかけられる。これを来迎橋（長さ一二〇メートル、高さ一メートル、幅一・五メートル）とよび、その上を菩薩に扮した人々が練りあるくのである。&lt;br /&gt;
　午後四時、一番太鼓と鐘がなるのを合図に来迎橋を宝冠阿弥陀坐像を像内に納入した法女尼像（中将姫）が輿にのせられ、寺僧に導かれ、講中をともにして娑婆堂にうつされる。&lt;br /&gt;
　次に極楽堂に山内の浄土宗・真言宗の僧侶が入堂し、それぞれ読経法要が営まれる。浄土宗の法要式次第は四奉請（しほしょ）－開経偈（かいきょうげ）－身心観文（しんしんかんもん）（観経）（かんぎょう）―念仏一会（ねんぶついちえ）であり、真言宗の法要式次第は阿弥陀大咒（阿弥陀如来陀羅尼）を唱える。その法要がおわると、浄土宗僧侶は娑婆堂へいき、娑婆で念仏一会－開経偈―来迎和讃―念仏一会の法要を行う。そのころに菩薩・天童役の人々が極楽堂に入堂し、勢揃いののち、観音・勢至・普賢の三菩薩をのぞく菩薩に扮した人々は介添に手をひかれながら娑婆堂に進む。その間真言僧は極楽堂の正面右側に特別に設けられた場所（火&amp;#28976;場という）で三礼－洒水（しゃすい）－伽陀（かだ）の法要を営んでいる。主役をのぞいた菩薩がまず、娑婆堂に到着したころ、観音・勢至・普賢の三菩薩の登場となる。これがこの行事のクライマックスである。菩薩に扮した古老の話によれば、昔は橋の下から「南無阿弥陀仏」と唱える声がしきりに聞こえていたという。観音菩薩は（れんだい）（注３）をもち、勢至菩薩は合掌し、普賢菩薩は天蓋をもって、体をねりうごかしながら娑婆堂へと進んでいく。娑婆堂につくと、勢至菩薩は堂の中央におかれていた法女尼像の像内から宝冠阿弥陀坐像をとりだし、観音菩薩の捧げる蓮台の上にのせる。さらに勢至菩薩はその像をなでる所作をした上、観音・勢至が揃って「奉奏舞」を舞う。そして帰りは観音・勢至・普賢が先頭になり、諸菩薩・僧侶・輿とつづいて極楽堂へ帰っていくのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注１　（「したぐつ」の変化）沓の下に用いる布帛製のはきもの。礼服（らいふく）には錦、朝服には平絹で作る。くつした。&lt;br /&gt;
注２　仏像などの背後にある光明を表すもの。&lt;br /&gt;
注３　蓮華の台座。蓮の花の形につくった仏像の座。転じて、弥陀の浄土に往生する者&lt;br /&gt;
　の身を託すもの。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/23784980.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2007 09:40:59 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>来迎会を支える人々</title>
			<description>来迎会の日に行通する人々は「菩薩講」から選ばれることになっている。この講は當麻寺のある當麻町を中心にしてかなり広い地域に広がっている。當麻寺護念院を中心に當麻町のほか二市一町に渡り、講員役百八十名で組織され、二十五組に編成されている。&lt;br /&gt;
　この講中から菩薩・天童役の人はくじびきで選ばれる。但しこの来迎会の重要な役である観音・勢至・普賢の三菩薩に扮するのは地元當麻組の人に決まっている。この講の成立時期を明らかにする文献はないが、来迎会に使用する面・装束を講員がうけとる時にひきかえる「札」に元禄六年とあるのが三枚あるところからみると、元禄六年（一六九三）にはすでにこの講は存在していたことがわかる。&lt;br /&gt;
　また輪光（注１）には宝暦十二年（一七六二）の刻銘があり、寄進名と組の名が記されている。そこには染野・狐井・勝根・竹之内・今在家・忍海・西辻と現在も継続している組がみられるから、これらの組はこのころからつづいていた古い組名であることがわかる。また以前講に入っていた村として、長尾・太田・今倉（以上、當麻町）、北角・瓦口・別所（以上、香芝町）、野口・礒野（以上大和高田市）の名も輪光の刻銘にみることができる。&lt;br /&gt;
　この講を形成している講員は世襲制である。この講に入っているからといって、當麻寺の壇家であるとは限らず、別の宗旨に属する家もある。講は原則として六人を一組とする。もし講員の一人が死亡して、後継者がない場合、他の家から希望により講員になることもできる。その場合同じ組の講員の承諾を必要とする。講員は毎年交代で菩薩または天童役に扮することになっている。この菩薩の役になり、面をかぶった人は達者になり長生きするといわれており、昔し當麻町では講員であることが結婚の条件として有利とされていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注１　仏像などの背後にある光明を表すもの。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/23784933.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2007 09:39:59 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>中将姫信仰と来迎会</title>
			<description>来迎会をはじめたのは『古事談』第三によると「迎講者恵心僧都始給事也」（А砲箸△襦この記録を信ずれば、来迎会をはじめたのは源信（注１）ということになる。源信が當麻に生まれたということには確かな文献がのこされているわけでなく、現在では歴史家の間でも信憑性（しんぴょうせい）が薄いといわれている。『本朝高僧伝』によれば、當麻は源信の生地とされているが（─妨斗茵源信一浄土教－當麻寺は一つの線に結ばれていろいろな説話が語りつがれてきた。&lt;br /&gt;
　天平宝字七年（七六三）六月十五日當麻寺に入った横佩大納言の娘中将姫の祈請により、一化女が出現して、彼女の集めた蓮の糸でこれを一夜で織ったと伝えられる阿弥陀浄土図、つまり當麻曼荼羅の話（）は有名である。&lt;br /&gt;
　この曼荼羅にまつわる中将姫の説話が一般に流布し、當麻寺が念仏信仰の中心地になったのは鎌倉時代に入り、浄土宗西山派の祖証空が『當麻曼荼羅疏』を著わし、その供式が定められ、それが小型に縮写され世の中に流布された後のことである。特に中将姫説話を中心に唱導説教を通して當麻曼荼羅への結縁と念仏・勧進が行われるようになったのは聖聰の『當麻曼荼羅疏』のあらわされた永享八年（一四三六）以後のことであろうと宮崎円遵氏は　『中将姫説話の成立』の中でいわれている。（）&lt;br /&gt;
　このような中将姫説話は室町時代になると、謡曲「雲雀山」「當麻」にもとりいれられ、江戸時代になると歌舞伎の中にもみられるようになってくるのである。&lt;br /&gt;
　なお、この地方では来迎会のことを「れんぞ」とよんでいるが、この「れんぞ」という言葉は當麻寺来迎会のみでなく、法隆寺の聖霊会は法隆寺れんぞ（三月二十二・二十三日）、矢田寺の来迎会は矢田れんぞ（四月二十三・二十四日）、久米寺の来迎会は久米れんぞ（五月三日）などもすべて大和地方では「れんぞ」という名を冠してよんでいる。「れんぞ」はすなわち「連道」からきたものではないかといわれ、来迎会のように多くの会式に参加する人々が練行していく法会のことをさしたものと考えられるが、同じように、「れんぞ」とよばれる法会がすべて三月から五月にかけての季節に催されるのには民俗学的意味があるのではないかという説もある。つまり、この三月から五月にかけての一日は農家にとって「春ごと」といわれる春の一斉休日にあたる時であり、そうした農耕習慣が仏教の信仰にむすびつき、これらの法会を農民と密接にむすびつけられて、今日まで伝えられてきたのではないかとおもわれるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注　惺饂紡膩蓮抛鷭輯&lt;br /&gt;
二巻&lt;br /&gt;
十一巻&lt;br /&gt;
じ偽住教民俗資料研究所編『當麻寺来迎会民俗資料緊急調査報告書』（昭和四十九年）&lt;br /&gt;
ソ銃鶸&lt;br /&gt;
Α愼椰涓饒棺検抂豐&lt;br /&gt;
А惺饂紡膩蓮拿夙巻&lt;br /&gt;
─愨臚槓教全書』巻第十&lt;br /&gt;
『當麻曼荼羅疏』巻三十二（『浄土宗全書』第十三）&lt;br /&gt;
『木村武夫先生還暦記念日本史の研究』所収&lt;br /&gt;
なお、當麻寺来迎会に関しては昭和四十九年に元興寺仏教民俗資料研究所において調査が行われ、『當麻寺来迎会民俗資料緊急調査報告書』として刊行されている。詳しくは同書を参照されたい。面・装束の資料に関しては同報告書の調査結果をそのまま転載した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注１　平安中期の天台宗の僧。卜部（うらべ）氏。大和の人。比叡山の良源に師事。横川の恵心院に住み、恵心僧都、横川僧都と呼ばれる。「往生要集」を著わして、のちの浄土教成立の基盤を築く。ほかに「一乗要訣」「観心略要集」「台宗二十七疑」など。（九四二～一〇一七）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/23784904.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2007 09:39:16 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>名称</title>
			<description>當麻寺では毎年五月十四日に「二十五菩薩来迎会」が行われる。當麻寺近辺の人々は當麻寺で行われる「二十五菩薩来迎会」を「練供養」、「れんぞ」または「れんど」、「面かつぎ」と呼んでいる。「れんぞ」または「れんど」は連道からきた言葉であろうし、「面かつぎ」はこの行事が面をかぶって行われる所から呼ばれたと考えられる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/23784837.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2007 09:38:07 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>起源</title>
			<description>来迎会の記録によればすでに『栄花物語』第十五うたがいの巻に「六波羅蜜寺・雲林院の菩提講などの折節の迎講などにもおぼし急がせ給ふ」（　砲箸△蝓∧唇損綯罅λ砲けて盛んであった迎講（むかえこう）（迎接講）（注１）が現在行われている来迎会の起源と考えられている。&lt;br /&gt;
　當麻寺で行われた来迎会の文献としては『大乗院寺社雑事記』（注２）長禄三年（一四五九）に「今日當麻寺迎講云々、毎年不退法会云々」（◆砲箸△襪里初見とおもわれる。毎年不退法会と記されていることから、當麻寺の来迎会は長禄三年（一四五九）以前から数年前にさかのぼることができるといえよう。また同じ『雑事記』の明応九年四月十四日の条に「當麻寺迎講也　為結縁藤千代昨日下向了」（）とある。明応九年（一五〇〇）というと文亀本曼荼羅とよばれている現在本堂内に掲げられている図本が完成する一年前のことであり、柴田實氏はその年の迎講は特にそのための勧進を意図したものであったかもしれないといわれている。（ぁ砲海竜録と同じ『雑事記』の七年後の永正四年（一五〇七）五月二十三日には「當麻万タラ於東北院供養云々　新万タラ蜜供養ハ以前在之　是ハ顕供養也」（ァ砲箸△襦これは文亀本曼荼羅のことを指すものであり、当時は顕密一様の供養がされていたことがわかる。それは現在、當麻寺の来迎会は真言僧と浄土憎とで行われていることにもつながりがあるようにおもわれる。&lt;br /&gt;
　時代は下って天保の頃（一八三〇～四四）になると、當麻寺の来迎会は『東都歳事記』の中に「浅草新鳥越念仏院法会ハ今絶たり。中将姫法如尼の忌によりて行うところなり。和州當麻禅林寺の例にならいて、来迎会を行いける」（Α砲箸△襦これによって當麻寺の来迎会がもとになって他寺院にも影響を与えていることがわかる。&lt;br /&gt;
　このように當麻寺の来迎会は近世の名所案内記、歳時記には必ず記されるようになり、當麻寺来迎会の名は遠くにまで及んでいたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注１　阿弥陀如来が念仏行者の臨終に諸菩薩とともに迎えに来るという、そのさまを催し行う法会。&lt;br /&gt;
注２　室町時代の日記。一九〇巻。興福寺大乗院の尋尊・政覚・経尋の三代の門跡が記したもの。宝徳二年から大永七年に至る間の、興福寺・春日神社関係の諸事実を記録する。応仁・文明の大乱、下剋上の世相などを克明に描き、史料価値は大きい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/23784762.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2007 09:36:38 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>菩薩講</title>
			<description>　當麻寺の練供養の時に二十五菩薩に扮するのを役とする講で、當麻はもとより広く、旧二上、高田、瀬南、陵西、磐城、天満、大阪方面（昭和51年現在）に講員が分布している。當麻はとくに、観音、勢至、普賢の三体に扮する権利を保有している。三人、五人あるいは七人の講員が一組を作り、この一組が一体の仏に扮する権利を持っており、籖引（くじびき）でその年の出場者を決める。この講は二十五菩薩の面を宝蔵している當麻寺護念院を中心にして組まれており、毎年五月八日に講中が米一升麦一升を持ち寄り護念院で食事をともにする習わしがあった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/23784621.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Oct 2007 09:34:06 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>當麻町となってからの姿</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-8c/taimamonogatari/folder/1651720/24/22617524/img_0?1191551555&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-8c/taimamonogatari/folder/1651720/24/22617524/img_3?1191551555&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-8c/taimamonogatari/folder/1651720/24/22617524/img_4?1191551555&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
町制施行から平成１６年までの當麻町です、今は葛城市となっています。&lt;br /&gt;
當麻村磐城村合併１０周年と町制施行記念事業時は、まだ庁舎はなく写真は現在の當麻図書館だと思われます、１０周年は現在の葛城市立磐城小学校の体育館で開催されました、２０周年は現在の當麻スポーツセンター総合体育館で開催されました、３０周年は現在の葛城市當麻文化会館大ホールで開催されました、最後の現在の葛城市當麻庁舎は平成１６年３月頃撮影したものです、懐かしい限りですね。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/22617524.html</link>
			<pubDate>Fri, 05 Oct 2007 11:32:35 +0900</pubDate>
			<category>奈良県</category>
		</item>
		<item>
			<title>岐阜一宮の七夕祭、伝説、説話</title>
			<description>【岐阜一宮の七夕祭、伝説、説話】&lt;br /&gt;
＾豕楴畦爾泙弔蠅陵獲 &lt;br /&gt;
　一宮市民の守り神として崇敬される真清田（ますみだ）神社の祭神天火明命（あめのほあかりのみこと）の母神、萬幡豊秋津師比売命（よろずはたとよあきつしひめのみこと）は、太古から織物神として知られ、そのご加護によって当地方の織物業が発達したといわれることから、毎年７月の第４日曜日を中心に５日間、織物と因縁の深牽牛、織女に因み全市を挙げて「おりもの感謝祭一宮七夕まつり」が繰りひろげられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一宮七夕の歴史&lt;br /&gt;
　一宮市の守り神として崇敬される真清田神社（ますみだじんじゃ）の祭神天火明命（あめのほあかりのみこと）の母神・萬幡豊秋津師比売命（よろずはたとよあきつしひめのみこと）は太古より、織物の神として知られています。一宮の織物業はそのご加護によって発達したといわれていることから、毎年７月の第４日曜日を中心に５日間、全市をあげて織物に縁の深い牽牛と織女の伝説にちなんだ大イベント「おりもの感謝祭一宮七夕まつり」を開催。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　昭和３１年にスタートしたこのまつり、今では一宮市民だけではなく全国から観光客も参加し、開催期間中には約１６０ 万人をこえる人出がある。飾りつけの絢爛豪華さから仙台、平塚の七夕まつりと並んで「日本三大七夕まつり」と市外の観光客から称賛されている。また平成８年５月１４日には、名鉄新一宮駅構内に「一宮七夕郵便局」がオープン。局名に「七夕」がつくのは全国でも初めてで、星空模様の天井や天の川をイメージさせる床、一宮七夕まつりのイラスト入り窓ガラスなど演出に凝ったおしゃれな郵便局である。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/22429984.html</link>
			<pubDate>Wed, 03 Oct 2007 10:37:52 +0900</pubDate>
			<category>奈良県</category>
		</item>
		<item>
			<title>小郡市の棚機神社</title>
			<description>小郡市の棚機神社&lt;br /&gt;
　そもそも「七夕」と書いて、なぜこれを「たなばた」と読むのだろう。五色の短冊に、歌や願いを書いて、笹に結び「習字が上手くなりますように」だとか「勉強ができるようになりますように」といった、学業や習い事の上達を祈願する現在の七夕行事のスタイルは、中国から伝わった機織りなど女性の技芸の上達を願う「乞巧奠（きっこうてん）」という行事が原形である。しかし実はそれよりも以前から、7月7日に行なわれる行事として日本古来から伝わる七夕の風習が各地には残っている。&lt;br /&gt;
　九州の民俗を研究している熊本市在住の江口司さんの話によると、熊本県芦北（あしきた）町の白木地区の七夕は、お盆行事の始まりとしての意味をもっているという。旧暦の7月7日はお盆の1週間前にあたり、この日は、墓所から集落を結ぶ道の雑草を刈り、道を修理する。また集落の入口にあたる橋の所には「七夕綱」と呼ばれる綱を張り、これに大きなわらじやぞうり、人形、藁（わら）で作ったタコ坊主のようなものを下げる。これらは、お盆に帰ってくる先祖の霊と一緒に付いてくる悪霊（これが疫病など災いをもたらすと考えられていた）などを追い払う意味を持っているという。また、宮崎県の日之影（ひのかげ）町では、青竹を切り、仏壇の前に天井から吊るし、これに新しい浴衣と帯を掛けておく。精霊に袖を通してもらい、それを着ることによって無病息災を祈るという意味をもっているらしい。&lt;br /&gt;
　そもそも七夕とは盆行事の中の一つとして、祖先の霊を祀る前の祓（はら）えの行事であったとされている。その行事は、水辺に棚を作り、乙女が機を織りながら神を迎え祀るというもので、この機を織る乙女を「棚機女（たなばたつめ）」または「乙棚機（おとたなばた）」と呼び、その行事は7日の夕べに行なわれた。&lt;br /&gt;
　つまり「七夕」の語源はここにある。そして、この機織をキーワードに、日本の七夕は、その後伝わってきた中国の「乞巧奠」と牽牛と織女の伝説に結びついたと考えられる。昨今では、この七夕も「ラブスターズデー」などと称され、手習いごとの技芸上達よりも、恋愛成就の行事として定着しそうな勢いだが、まずは自分の技芸に磨きがかかれば、自ずと恋愛も成就するというもの。&lt;br /&gt;
　さて、恋愛成就を願うも、技芸上達を願うも、この夏ちょっとあやかりたい縁起のいい神社が、福岡県小郡市大崎地区にある。その名もズバリ「七夕神社」と呼ばれるお宮である。&lt;br /&gt;
　小郡市の「七夕神社」は全国でも珍しい七夕を祀る神社として最近注目を集めている。地元の人たちはこのお宮を「たなばたさん」と呼んでいるが、正式には「媛社（ひめこそ）神社」といい、歴史は古く、8世紀頃書かれた『肥前国風土記』にその記述が見られる。それによると、このあたりに山途（やまと）川というのがあり、そこは荒ぶる神が住みついて人々を苦しめていたそうだ。そこで、宗像に住む珂是胡（かぜこ）という祈祷師に頼んで祈祷してもらうと、夢に機織りに使う道具が出てきたので、人々を苦しめた荒ぶる神は女神だということがわかったのである。そこでその女神を鎮める神社を建てるとよいということになった。これが今の鳥栖市の姫方（ひめかた）にある「姫古曾（ひめこそ）神社」だが、実はその時に立てた幡（はた）が風で飛んで行き、落ちた場所とされるのがこの「媛社神社」つまり「七夕神社」だというのだ。ここに祀られているのは「媛社神（ひめこそのかみ）」と「織女神（おりひめのかみ）」で、媛社神は「饒速日尊（にぎはやひのみこと）」で、後の豪族・物部氏の祖先。一方、織女神は饒速日尊の母神で「万幡秋津師比売命（よろづはたあきつしひめのみこと）」。  風土記が記述するとおり女神である。名前の中で「万幡」とは多くの機で織った織物、「秋津」というのはトンボの羽根のことで、この名前が示すのは「トンボの羽根のように透き通った織物を織る人」という意味。古代では神を迎えたり祭りをする際に、織物が重要な役割を果たしたことから、機織は女性にとって最も重要な仕事であったらしい。そのため、この神社は昔から機織や裁縫など、女性の技芸上達を願う神様として信仰されるようになったというのだ。それは、今から千年以上前に作られた『延喜式（えんぎしき）』の中にある記録からも知ることができる。それによると、全国から朝廷に差し出された献上品の一覧表に、「筑後」の献上品は、米、そして織物とあった。この地方の主要産業は、米作と機織であり、こうした地方にあって機織の神様を祀ったこの神社の存在は重要だったに違いない。境内の2番目の鳥居に掛けられた額には、はっきりと「棚機神社」という文字が掲げられている。これが「七夕神社」と呼ばれる由縁なのである。そしてさらに興味深いのは、神社の近くに流れる宝満（ほうまん）川の対岸に、牽牛を祀った「老松（おいまつ）神社」もあるというのだ。天の川に見立てた宝満川をはさんで建つ織女と牽牛を祀る神社。ここを舞台に、毎年8月の6、7日に「市民まつり・たなばたさん」が行なわれるそうだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/taimamonogatari/22429838.html</link>
			<pubDate>Wed, 03 Oct 2007 10:35:06 +0900</pubDate>
			<category>奈良県</category>
		</item>
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