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思うことがある。
福祉の専門職として、児童、障がい、高齢者・・・で働いてきて、研鑽と経験を積み重ねてきた。
まだまだ未熟で、対象者に迷惑をかけたり、自分の判断に不安を感じたり・・・。そんなことはまだまだある。
でも、覚悟を決めて実行しなくてはならないこの分野で、時にはセンパイや上司に相談して、友人や仲間達と日々語り合って、勇気をもって実行してきた。
人間だから誤りはある。そういう言い訳は好きではない。自分に厳しくする分、ゆれる気持ちが出てくることも多く、時には惰性に流れて、もうなんとでもなれ、と思ってしまう時もある。
人間の防衛機制だろうか。そんな自分に嫌気が刺す時もあれば、救われる時もある。
これだけ経験を積んできても、まだまだカンペキな支援は見えてこない。
人を支援するというのはそういうことだと思う。
自分の感覚を鋭敏に張り巡らせて、一つの面接から様々な情報、印象を身体の中に入れていく。そうやって自分の感覚をさらに成長させていき、「自然体でありながらも、身体全体で観察する」ことができるようになってくる。
言語化できるようになればもっといいのだろうが、まだまだ「感覚」での語りしかできない自分はまだまだ成長の余地があるのだろう。
・・・と、こんな風に支援とは何ぞやと比較的できるようになってきた自分でも、当然のように誤った判断がある。
正直言うと、人の生命に関わるような判断ミスをすることもあった。
周りの人は「一生懸命していたし、判断ミスではない」と支えてくれたり、励ましてくれたりもした。
確かに外形的には判断ミスではないし、組織的にも間違った動きではなかった。むしろ熱心に関わっていたと思う。
それでも「あの時こうしておけば」「あの時このようにできなかった自分の心の動きは何故起こったのか」等、必要以上に振り返ってしまう。気にしぃなんでしょうね。
周りの人はそういう考え方はしんどいという。無理してはいけない、とかバーンアウトするよ、とか。
でも、責任もって仕事して、自分で選んだ仕事だから、自分の力をつけるために振り返ることは大切である。
それだけ思っても事故や事件は起こる。それが当然と思ってはいけないけど、どうしても防げなかったこともある。それでいいとは思わないし、仕方ないと片付ける問題でもないけれども。
・・・
それでも思う。事件が起こると報道は偏りすぎであると。またその偏った情報で、正しい判断やコメントができない「有識者」と言われる方々や上級庁。
事件の本質を考えずに、抜本的な構造改革が必要なことを、ただ単なる増員だけで解決すると考えている浅はかな対策。
これまでのタイヤキの記事を見れば、これが何のことを指すのかはご理解いただけると思う。
最近の福祉系のトピックとでも言うべきことである。
かの問題は、確かに人員不足の問題は大きい。いや、自分がその現場に居た時は、ありえないくらい多忙であり、国が定めている配置基準が欧米と比べてあまりにも違い過ぎることに強い憤りを毎日のように感じていた。
1人あたり300件を超えるケース数。これがリアルな実態である。そういう意味では人員の増加は必ず必要である。
しかし、人員を足しても、大変申し訳ないが、役に立たない人が増えると現場がより混乱するだけである。
人が増えたら・・・え、それ、誰が教えるの?となる。この多忙な中で誰が?
自治体によれば徒弟制度をしっかりできていて、教えるだけの力量を持つ経験豊富な職員が多いところもある。
一方自治体によれば、3〜5年の人事異動でただただ行政的な対応しか学んでこなかった人しかいないところもある。
上記のように、福祉専門職(に限らず対人援助職)は成長に時間がかかる。
経験年数が10年を超えてきた自分でもまだまだ半人前と思う。
体制が整っていないので、熱意を持って入ってきた人が、それこそバーンアウトでつぶれる。うつ病等になったりして休職し、退職する。
そういう人をたくさん見てきたし、前の同僚からは、そういう人が変わらず増えている状況も聞く。
それでも事件が起きたら何の検証も無しに、また頑張っているにも関わらず、とばっちりがあったりもする。
もちろん今回の件は行政の責任が重いように感じる。あくまで今の情報だけで、だが。
でも今も現場で頑張っている仲間たちのことを思うと、どうしても今の論調が、すごく悲しくなってくる。
行政だから叩きまくっていいのか?行政だからもっと〇〇すべき、というのは正しいのか?
あくまで法律のある話なのに。
ほめたたえよ、とか批判するなとかではない。そういう目ももちろん必要だろう。
でも、やっぱり、頑張る仲間のことを考えると、いやいや、もっと本質を見てよ、と思う。
たくさんの人は、自分の力以上に頑張っていて、それこそ精神をすり減らしている。
それなのに「あれしろ、これしろ」と何も考えずに言うのは、何の解決にもならない。
そもそも全てが後手後手になっているのに、そのツケを現場に回すのはどうなのか。
現場も反省し、自戒すべきだが、他はどうなのか。現場ではないから関係ないのか。
資格をつくるとか、理解に苦しむことをするのなら、もっとすべきことはないのか。
資格つくってどうするのか。資格がないとどうなるのか。資格があったら何が変わるのか。
まさか資格が無いから専門的な支援ができないと言うわけではないですよね?とか。
あまりにも現場の人を思うと悲しく、むなしくなったので書いちゃいました。
この記事が、少しでも現場の人間の勇気になればとただただ願うばかりです。
耐えて、前を向いていこう。
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時間感覚は昨年比5倍くらいの早さである。
1日が瞬く間に過ぎてく。 自分が成長したのも実感するが、でも、なんかモヤッてる気もする。 考えすぎかなぁ?って思ったりもするが、なんとなくおもんない人間に、 自分がなってきているような危機感も覚える。 こうやって文章を書いていても、なんやろう…自分でおもろい文やな、と思ってへん自分もいる。 自分のやることに納得いかんようになってるんか、なんか、ちょっと前にはあったであろう、 幻の巨塔のような、存在しないヘンテコで虚飾溢れる自信が、 やっぱ無いやん!ってなってるんやろか。 なんか、やることなすこと、ん?!って思ってまう。 無駄に無鉄砲で、無理して強いフリしてた自分はどこいったんやろか。 あの感覚は無くなって…か、消えていって…か。 様々経験したことで無くなっていったもんやろか。 結構ややこしい対応でも平気になってきた一方で、 まだまだ絶頂期の調子乗りには遠く及んで無い気もする。 ま、まだケースワークの現場に戻って間がないんかもしれんが。 なーんか、毒ってゆーか、邪悪な、というか…。なんかそんなんも含めて、ってゆーか… かっこよー言うなら清濁併せ呑むということなんやろうけど、 それってエーことなんやろか。 冷めてるのか、醒めてるのか。 今の、現実に感謝したり、高望みな過去を妄想したり。 こうであれば、こうなってたかも。 いや、でもこれやから今でエーんや…など。 不惑には程遠い、惑々感たっぷりなオレ。ワクワクいっぱいな毎日を探してたしな。 普遍のものが有難いってのがよくわかってしまう自分もいたり。 これがオッさんになったってことなんかなぁ。とか思ったり。 そんなん考えんと、毎日が必死に。何も考えんと真っ直ぐに。 そんな風に生きたいと思った。 |
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8月になると、今後も思い出すのだろう…と思った。
昨年の8月に我が社のトップも来るような会議があった。 有名な学者やらなんやらが来る会議で、準備のために時間をめっちゃ使った。 本番の日。 気合を入れてやろうと、朝からラーメンを食べた。 昨年度は自分の中では、1、2を争うほどの試練の年で、 今思っても、 よく乗り越えたな〜って思う。 そんな年やったから「ここは大事!」ってな時は朝飯にラーメンを食うていた。 なんでラーメンやねん。 そんな疑問はさておきやが… 自分を鼓舞するために、大好きな食べ物を食べようと決めていた。 勝負メシ、やな。 朝活の散歩を終えて、ラーメンを作る。 ネギと卵2つ入れたスペシャルメニュー。 うまかっちゃんにはこのトッピングがテッパンだ。 … 天気はくもりのち晴れ。散歩行った時はやや雨雲っぽかったが、傘はいらんやろう。 そう思って家を出た。 近くの高校の横を通る道すがら、 大雨が急に降ってきた。 暑いさかりに、 大事な会議だからとジャケットも着ていた。 傘持ってへんし… 近くの大木に身を寄せて雨が止むのを待った。 「朝から最悪やから、今日はこの後エーことばっかりや!」と、 ナゾのプラス思考が発揮し、 大事な会議を乗り越えたな… … 昨年度は自分にとって、 厳しくて、 一年全てがしんどくて、 明日が来るのが待ちどおしくて、 明日が来るのを恐れていた。 そんな毎日を、 波に巻き込まれるがごとく、 運命の歯車を呪い、 自分の不遇を呪った。 あの時思っていたこと。 「1年後は笑い話になるわ〜」 そうやって頑張ってきた毎日。 今の自分があるのは、その時頑張ってきた自分がいるから。 笑い話になって良かった。 |
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飲み会のあととかには、炭水化物が付き物で、
オレは特にラーメンが好きである。 〆のラーメンをチョイスする人は多いと思う。…が、 昨日は何を思ったのか、コンビニで普段なら買わんもんを買ってしまった。 かつおのオニギリである。 今思っても、何でかつお?!… いや、そもそも何でオニギリ?!…と。 自分でもよくわからん。 でも、久しぶりにかつおのオニギリを食うた。 ローソ◯ンのかつおまぶしたオニギリを食べると、ふいに思い出した。 おかんの味や、と。 オトコはマザコンが多い。ん。確かに。 でも、やっぱりおかんの味は特別よな。 そう思いながら、オニギリを頬張っていた。 カツオ節にしょうゆ。 これだけでサイコーの贅沢。 オレが中学校とか高校ん時に、持っていった弁当の、 ごはんの上には高確率でまぶしてあった。 カツオ節にしょうゆ。 あの、醤油の味が忘れられない。 カツオ節の風味が移り、純粋なままにダシの良さを感じる。 唐揚げやら卵焼きやらのオカズは脇役と化す。 今思えば、ガムシャラな毎日やったな〜 でも、もっとがんばれば良かった。 頑張り方を考えたら良かった。 今ならこうするのに、あーするのに、と。 そんな、 今更の過去を思い出したり。 またおかんの飯を食いに行くか〜 |
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小さめのグラスに、氷をギチギチに積める。 邪道と言われるだろうが、オレは通常では考えられないモノをその中に注ぐ。 そのモノとは… ビール。 …休日を彩る金色の眩い液体は、爽やかな炭酸と共に疲労感を忘れさせる。 喉に流れた途端に弾ける刺激は、激務をやりきった戦士に安らぎを与える。 心地よい刺激は気分を落ち着かせ、楽しみな休日を締めくくる。 そんな魔法の液体を氷の中に入れるのは、まさに愚行と言われたりもする。 オレがこのアイスビールに出会ったのは、某マンガである。 コンビニで立ち読みし、興味を持った自分は早速行動に移した。 … 氷が敷き詰められた小さなグラスにビールを注ぐと… …なんと、きめ細かな泡が出来上がり、黄金の液体が氷を溶かす様は、何とも幻想的である。 キンキンに冷えたビールが、さらにキンキンの氷に当たることで、なんというか、ビールのカドが取れてまろやかになる。 簡単に言うと飲みやすい。 酒に弱い自分にとってはまさにうってつけ。 小さなグラスに入ったビールを一気に飲み干すと… あまりのウマさに思わず唸るノド。 飲み干した充実感は何とも言えない…うん。サイコー。 休日はやっぱりこうでないと… … 対人援助職の人間だけではないと思うが… 自分の場合は、明らかに、事務だらけの職場だった頃に比べて、対人援助の職場の方が疲労感がスゴイ。 それだけ緊張感に包まれて、トイレに行く暇も無いくらいの激務だから、まぁ…そらそーか、という気もする。 去年の今頃は1時間半に一回はトイレに行って、しばしの逃避をしていたなぁ…と苦笑いを覚えつつ、やっぱり対人援助は楽しいな、と再認識している。 それはさておき。 前もそうだったが、やはり対人援助の仕事は休み方がポイントだと強く感じる。 休み方を間違えると、休んだ気がしない。 疲労感を抱えたまま月曜日がはじまってしまう。 同僚たち、あるいは同業種のツレの話を聴くと、休みはひたすら寝ているとの話しが多いように思う。 昼、あるいは夕方まで寝て、酒呑んで、ダラダラして寝る。 DVD観たり、ゲームしたり…好きなようにダラダラする。 それもシアワセな休日やと思う。 ある意味でいつもとは違う日を演出し、ハレとケを分けている。 それがその人にとって、 あー、休んだ! …と、気持ち新たに明日を迎えるなら、それはそれでシアワセだ。 自分も一時期そんな時があった。活動は昼から、とか、金曜日の夜はダラダラとテレビに耽っていたりとか。 でも自分はそれが合わなかったのだろう。 いつものとーりに起きて、いつものように運動して、いつものように寝る。 いつもと違うのは昼寝とビールだ。 誰に気兼ね無く爆睡し、夕方の散歩の後にビール。 シアワセな休日だったと、眠りにつく頃に感じる。 対人援助はツライよ。 |
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悲しい事件としか言いようのない、虐待事件がまた起こった。
この事件は児童福祉の転換を図る可能性のある…というか、この事件も含めて、いい加減に転換を図らないといけない、と思う。 個人的には、香川も東京も判断を誤まったな、という感じはする。でも、児童相談所の限界が見えてきている気もする。 一行政機関である児童相談所。 こういう事件が起こると決まっていう、体制強化という言葉だが、今の機能以上に何を強化するのか。 言うなれば、小さい箱の中に大量の積み木を入れている状態で、上に上に積み重ねても、一つの小さな箱の中に入る積み木を分配しない限りは、その箱の中に入っている積み木を処理する人が大変になるだけ。 今の児童相談所はそうなっている。 事件を起こさない努力を尽くして、職員の限界を超えて『体制強化』をしている。 新たな事件が起こるたびに新たな体制強化を図る。 もちろん既存のままでは良くないし、努力を尽くしても起こった責任は消えるものではない。 だけど、体制強化を一行政機関に押し付けるだけで、人を増やすだとか、夜間対応の強化とか、「これ言うとけば大丈夫だろう」的な対応では、また同じ事件は起きる。 人を増やしても、育てる職員が育っていないと意味がないし、潰れる人間が後をたたないだけ。夜間対応も同じ。 付け加えると、自治体にもよるかもしれないが、児童相談所はいわゆる9時5時で終わるところではない。 プラス夜間対応。ブラック感が出てくる。 もう、その箱の中に入れるの、無理ではないすか? 色んな国の在り方をそろそろ、取り入れた方が良くないですか? 悲しい事件は無くしたい。切にそう、思った梅雨の夜。 この雨の意味を胸な刻みたい。 |
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日の出間近の空は、それだけで美しい。
闇と、薄紫色と、オレンジのコントラストは、見るだけで力が湧いてくる。 今年度から早朝ランを取り入れてみた。 実は取り入れるのに勇気が必要だった。朝から走って疲れて、仕事にならないのではないか…と思ったからだ。 実際に何度か試したことはあったが、仕事中にホルモンがギュンギュン湧き出てくる感覚に襲われ、ダルくなったこともあった。 今思えば、早起きと早朝ランを一気に取り入れたからだとわかるが、自分にとっては早朝ランは勇気のいる選択だった。 昨年度は5時起きを習慣化することに成功し、起床後のウォーキングが習慣であったので、早朝ランへの移行も、今ならイケるかも…と思い、また、体力の向上を目的に、今年度から早朝ランをしよう!と勇気を奮い立たせた。 早朝ランをはじめて、もうすぐ一ヶ月。 朝焼けと日の出、エネルギーに溢れた太陽を身体に浴びながら、汗を流す。 ほぼジョグペースなので疲れることもなく、約45分くらいかけて海沿いの道を走る。 朝の陽光が水面に滲んで、絶え間ない煌めきを身体一杯に注ぎ込ませてくれる。サイコウの朝の栄養をいただいている気分になる。 朝日に温められた潮風は、朝の草木の呼吸と共に、爽やかな太陽の香りを演出してくれる。 走りきり、クールダウンで少し歩く。1日のはじまりにして、1日のやるべきことをやりきった感覚は、充実を身体に宿す。 仕事の達成感に匹敵するといっても過言ではない。それほどの達成感を朝一番に味わえる。 汗をシャワーで流す時の、全身を駆け巡るビリビリ感は何なのだろうか。脳内に大量の快楽物質が発生し、身体全体がビリビリする感覚。 こんな感覚が手軽に味わえるシアワセを発見し、これまた自分の成長にプラスになったと、思わず笑顔になる。 仕事中は眠くなることはなく、むしろ仕事への集中力は、増すばかりのように感じる。心身の充実をとても感じる。 今年度はこれを続けていくことで、自分の課題を克服し、成長していくだろうことは想像に難くない。そんなふうにも感じる。 早朝ランは是非オススメしたい。 でもまずは一歩一歩。 早起きからはじめてみて、朝日を浴びることをはじめてみてほしい。 この感覚を味わってほしい、と思う。 |
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新年度がはじまり一ヶ月…
今年の4月もまた激動だった。行政の中枢から現場への復帰。やはり対人援助を専門とする人間は、現場が大好きなんやろう。 児童福祉だけではなく、全てを包括したようなケースワークが求められる現場で、これまで経験したことが、どれだけ活かされるのかまだわからないし、久しぶりのケースワーク業務なので、感覚が戻るのかという不安もある。 …でもすごく楽しい。まだ研修期間で、まだケースは持っていないが、研修の事例検討やセンパイ方に付かせていただく中で少しずつ現場の感覚を取り戻しつつある感じで、現場の空気、そして、みんなで助けあう職場の雰囲気に「ああ、これこれ」と思わずにはいられない。 対人援助の職場はいいな、と思う。馴れ馴れの関係ではなく、それぞれが自立したプロとしての意識を持ち、その上で助けあう。まさに協力の世界だが、この感覚が心地よい。 児童福祉の現場は個人商店なところもあったが、自分がウデを磨き「メモをかいて、汗をかいて、恥をかく」ような実践をすると、他部署や他機関のプロ達がいっぱい助けてくれた。そうやって、一人では困難なことでも解決に導けた。 行政の中枢は違う。確かに助けていただいたことは多々あったが、雰囲気としては協力…というよりも、指示的というか…。 あとは、現場は現場の人間がイキイキしているが、中枢は下の人間は完全に「下っ端」である。 … ま、ともあれ無事に現場に戻れたし、また一からチカラつけるために、今年度から朝ランをはじめた。 また自分の成長に向けて、新しい一歩が踏み出せたことが嬉しい。 そんな気分に浸れた4月最後の朝。 朝を大事にしていきたい。 |
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ついにこの日がやってきた。
この一年よくがんばった。自分で自分を褒めたい、という感覚… …かと思いきや、何だか不思議な感じ。今日でとりあえず苦境を脱して、福祉現場に戻れるのだが。なんやろう、この感じ。 悲しい、とか名残惜しいとかは全くない。…でもイマイチ実感が湧かない。 なんか、終わりが近づくにつれて、実感がだんだん無くなってきていた。4月になってからも、ようやく4月や〜!って思ったりもしたが、何だか達成感がない。 9月や10月…1月くらいまでは、1ヶ月…いや1週間を刻む度に、オレ、がんばってるやん!って思えた。 その時の自分は、4月になったら有頂天になってエライことになるんちゃうか?!と考えていたが、なんやろう、日常のまま終わりを迎えた感じ。 多分…多分だが、苦境に感じていた部分がどこか脇に置かれるようになり、段々と苦境に感じにくくなってきたということだろうか。 これは成長と捉えていいものなのか。 感覚がアホになりすぎてしまったんだろうか。…うーん…よくわからない… もしかして、苦境を乗り越えるって、意外とあっさりしたもんなんだろうか。 それほど苦境では無かった、ということなのだろうか…。よくわからない。 最後の2ヶ月は確かに、忙しかった。だからかな?充実感を得てしまったのかな? 困惑している自分…。ま、多分困惑…なんだろう。 今の自分をしっかり整理して、自分のがんばりを振り返った時、オレは苦境を乗り越えたんだ、と思うのだろうか。 苦境とは蜃気楼みたいなものなのかもしれない。そこに苦境がある、と感じて近づくが、いつのまにか消えている。知らない間に消えた蜃気楼を追い求めてたどり着く先のオアシス。 焦らずとても、オアシスが目前にあるのかもしれない。 今は焦らず、目の前の道を進むのみ。 |
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単純な二元論では、表現できないもの。それはわかった上でタイトルどおりの表現をしている。
個人の価値観で考えてしまうため、違う人から見たら、違う見方となることも、多々あるのもわかっている。 それでも思う。カスみたいな人はやっぱりいる。 人は、生きていく上で様々な困難にあたり、人それぞれの生き方、人それぞれの価値観がある。 それらを尊重しろ、という話ではない。そうではないが、そこに頭が及ばず、話も聴かず、自分の理だけで考えて、自分の理が正論であることを説き、自分の意見は正しい、アナタが間違っている、と言う。 理…。 そう、この「理」が偏っているんだろう。人に理を押し付けて、自分の理が正しいことのみを正当化する。 理が崩れそうな時は怒り、群れを成して敵化させる。 思いつきやすいのは、いじめ、だろうか。 被害者も楽しそうだったと言ったり、嫌なら嫌と言えばいいと言ったり…。 簡単に言うが、カンタンには言えないからこそ、いじめが起きる。 相手には相手の理があることに頭が及ばないのだろう。 理を曲げろ、ということではなく、相手の理をわかる必要がある、と言いたい。 わかる…つまり「解る」ことが必要だと。 話しを聴いて、相手の理を正しく解釈する。それが「理」を「解る」ことであり、理解するというのはそういうことなんだろう。 そういう意味で、理解しようとしない人はあきまへん。ダメです。あとは、理解を押し付ける人も、全くあきまへん。 まずは、自分を理解しなあきまへんな。そう思った肌寒い春の日。 もう夜は明けている。 |
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