1点に発散はあるか



ベクトル場における発散量の定義は、

イメージ 1

で現されます。

ベクトルが満ちている空間の単位体積当たり、あるいは2次元の場合は、単位面積あたりにベクトルによってどれだけベクトルで流れる成分が出て行くか、を現すのが「発散量」です。

私は、基本的にこの定義によると、点に「発散」は求めることは出来ないと考えて居ます。

しかし、ベクトル場の中の1点に発散を求める式として、学者さんは以下のような式を用いて、それが正当のように考えて居ます。

イメージ 2

イメージ 3
この式の中である点rのごく小さい領域Vから出て行く量を計算するのですが、この領域が“小さい”間は、問題はありません。1点に「発散」を求めることは、この領域を完全に0にすることになります。上の式ではV−>pと記入されている部分が、そのことを示しています。

図で言えば、rを0にするのですが、このときの「境界の法線成分」は領域が0になった時点で存在しません。こんなことを無視して、これが点での定義で、これが発散の定義ですと言っている学者の多いこと、チコちゃんは知っています。

 ベクトル場とポテンシャル場の違い(前回の記事に少し記載)も知らないで、やれ、流れにベクトル場が無いだの、ベクトル場における1点での発散でございますなどと、間違った知識を振りかざして、議論の余地もないとか、のたまう人の多いことを。

参考までに、のたまう人の例を以下示します。私が以前に他のブログに、ここでの記事と同様の記事を載せたときにくれた、コメントです。
イメージ 4

出だしは、えらく謙虚に始まっていますが、書いているうちに、私の考え方に、腹が立ってきた様子が伺え、最後は、全く自制が出来なくなった様です。
どなたか存じませんが、「流れ場は、一般的に非線形方程式で記述されるため(連続的な)ベクトル場ではなく・・( )は私の補足」との考え方など、私の考えに近いところもあるのですが、議論の余地がないのでは、仕方がありません。



この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

私が、「ヘルムホルツの分解定理は間違っている」と言うと、電磁気学関係者から反論を頂くことがあり、多くの流体力学の関係者には無視されています。あの大学者のヘルムホルツの言うことに間違いがあるはずが無い、と。

ヘルムホルツがどうしてベクトル場が発散のみのベクトル場と回転のみのベクトル場からなるという考えに至ったか、少し歴史を調べてみました。
 
1)オイラーにより流れの場がベクトル場として世に出た
ベルヌーイ(ヨハン:16671748、ダニエル:17001782)により管の中を流れる流体の力学が生まれ、オイラー(17071783)、ラグランジェ(17361813)により、流れと言うベクトル場が数学的に表現できるようになり、18世紀に流体力学が発達しました。

すなわち、流体の流れの場が「ベクトル場」として扱われるようになりました。
 
2)マックスウェルにより、電磁場がベクトル場として世に出た
一方、電磁気学はファラディー(17911867)の卓越した考えに基づいた実験により多くの知見が得られ、図に描かれた説明がなされましたが、それらの特性を数学的に表記するのがマックスウェル(18311879)でした。

ロバート・P・クリース著, 吉田 三知世訳;{世界でもっとも美しい10の物理方程式}によると、

マックスウェルは、混沌の状態にあった電気科学をすでにできあがっていた流体や熱の流れのベクトル場の考え方を類比して数学的に表現しました。
彼は、電荷は、水のような非圧縮性の流体を強制的に流れ出させるポンプのようなもので、電場は、ひとつの電荷から別の電荷へと伸び、空間の至るところ満たしている沢山の力線からなるという(漠然としており数学的ではない)ファラデーの考え方を仮に正しいとし、これらの線の上にあるそれぞれの点には、方向と強度という属性が付随している」と考えました。

このように流れの場の考えを類比することによって、マックスウェルは「電気磁気論」を書き上げました。

ただし、実はいわゆる現在言われている4つの式からなるマックスウェルの電磁方程式は、マックスウェルその人が書き上げたものでなく、ヘヴィサイド(18501925)が、ある意味勝手に、マックスウェルの難解な論文を纏めて、電磁方程式として世に出したものです。

ここに、電磁気学の扱う場も、流体の流れの場と同じく「ベクトル場」であると認識されました。

しかし、電界や磁界は実はベクトル場ではなく、ポテンシャル場で、その場に電荷や電流を置くと力のベクトルを考えることが出来る、と言う仮想のベクトル場です。流れの場のようにベクトル値が場に広がっているのではなく、ポテンシャルが空間に広がっているので、実際は、流れの場と、電磁場には大きな違いがあります。
 
3)ヘルムホルツは、マックスウェルの電磁方程式に心酔した
ヘルムホルツ1821 1894は、マックスウェルと同時代の人で、マックスウェルの方程式に賛同し、自分の弟子のヘルツにマックスウェルの電磁方程式の実験的確証を得るよう要請しています。

マックスウェルが流れの場を類比して作り上げたこの電磁方程式に魅了されたヘルムホルツは、電磁場を流れの場と同じものと考えたことは容易に想像できます。その電磁場は、回転のない発散だけを示す「力線」である電界と、発散のない回転だけを示す磁場からなっており、流れの場も発散だけの成分と回転だけの成分からなっていると考えてもおかしくありません。

しかも、このころ発達した、微分公式のベクトル3重積が、ひとつのベクトルが明らかに発散だけの成分と回転だけの成分からなるとする式もあって、ヘルムヘルツの分解定理ができあがったことが分かります。
 
以上の歴史的背景を纏めると、マックスウェルは、目に見えない混沌とした電界、磁界を目に見え簡単にその姿を見ることができる水の流れなど流体の流れの場と同じように考えて電磁方程式を作り上げました。この方程式の見事さに魅せられて、水のような流体も電磁場と同じように振る舞うと考えると、流れの場は、「発散のみの流れ」と「開店のみの流れ」からなると考えるようになるに至ったのだと思います。
 
そして、その考え方が今に引き継がれて、ヘルムホルツの定理として残っています。
 
しかし、実際には、流れの場は、空間をベクトルそのものが埋め尽くされている場であり、その流れの場、すなわちベクトル場のポテンシャルが明確に存在すると確認されていないベクトル場です。

確かに渦がない流れには、速度ポテンシャルの存在が、発散のない流れには流線関数(ベクトルポテンシャル)が存在することは、数学的に保証されています。だが、流れが発散も渦(回転)もある流れは、渦があることにより速度ポテンシャルの存在が否定され、発散があることによってベクトルポテンシャルの存在が否定されています。

ヘルムホルツの分解定理を信じる人たちは、流れのベクトルがあると発散の分布も渦(回転)の分布も計算できることで、それらが独立して存在していると勘違いしています。

流れベクトルの中には、渦にも発散にも寄与する成分が存在していて、それらの二つの分布は、互いに独立していなく、ヘルムホルツの分解定理が言うような、独立した「発散だけの成分」と「渦だけの成分」に分解されてはいません。このことは、この定理を用いて等圧面の風を分解し、速度ポテンシャルと流線関数を示していますが、これらの二つの風は互いに独立していなく、直交してい無いことからも分かります。

このことを指摘すると、彼らは、「抽象的な直交性」が保たれて居るので、現実の二つの成分の風が直交して無くても問題ないと言います。「抽象的な直交性とは「発散成分」と「渦(回転)成分」の直交性を言っています。現実の空間で直交して無くて、どこが「直交性が保たれている」のでしょうか。今の気象学者は、数学も物理学も無視して、自分たちの世界で悦にいっています。
 
 一方、電場、磁場は、明確にポテンシャル場が存在しており、そのポテンシャル場に電荷や電流を仮に置くと、力のベクトル場が「考えられる」というもので、流体の流れの場と、電磁気の場は全く異質のベクトル場であることに気づかないままであります。

この記事に

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

 日野幹雄の「流体力学」(朝倉書店)で学んだ人は、「ポテンシャル流」を学んだときに「速度ポテンシャル」と「流線関数」を学んだため、「流れの中に速度ポテンシャルと流線関数があっても、別段何の違和感も無く、それで、発散と渦度が混在するのが当たり前であって、何も違和感を感じないのかもしれない。

 しかし、「ポテンシャル流」とは、テキストを良く読み返してもらいたいが、渦度の無い流れである。その渦の無い流れは、速度ポテンシャルででも、流線関数ででも表すことができる、というものである。この場合、流線関数と速度ポテンシャルは、どの点においても必ず,それらの等値線は直交している。それらは、“同じ一つの流れ”を速度ポテンシャルの傾きで示す「発散流れ」ででも、「渦の無い渦流れ」として流線関数ででも示すことができるというものである。

 一方、ヘルムホルツの分解定理と言うのは、発散も渦もある流れが、渦流れと発散流れに分解できるというのであって、渦の無いポテンシャル流れとは全く違う流れである。速度ポテンシャルで示す発散流れと流線関数で示す渦流れの二つの流れが混在しているというのである。
 
 一般に、流れFの中に発散も渦もあると、∇・Fによって発散の分布が、∇×Fによって渦の分布が得られる。それは、ベクトルFが存在さえすれば、ヘルムホルツの分解定理と関係なく求められる。

2次元で発散および渦の計算を求める式を下図に示す。
イメージ 1

 この式を見ると、元の流れFのすべてが、直交する赤いベクトルと青いベクトルに分解され、発散は青いベクトルだけで、渦は赤いベクトルだけで求められているので、これらの発散流れと渦流れが独立した流れになって居ると考えられるかもしれない。これは、ヘルムホルツの分解定理を示しているに他ならない、ことになる。

 しかし、もし、ベクトル場が全微分が可能であれば、上の青いベクトルと赤いベクトルは直交していても互いに独立では無く、それぞれに相関関係がある。

 全微分が可能とは、
 
イメージ 2

 先の図の法線成分(青いベクトル)U4は、発散成分の計算に用いられていますが、その値は接線成分(赤いベクトル)U3と密接な関係を持って居ますし、また接線成分(赤いベクトル)のV4は法線成分(青いベクトル)のV3と密接な関係を持っています。同様なことは格子点1と格子点2との間にも見られます。

 このことは、発散の計算に用いられたU4は、発散計算が行われる前に既に、渦成分を持っています。と言うことは、元のベクトルFの発散計算を行うために用いられたU4は、発散と渦の二つの成分に共通に寄与していることを示しています。

 同じことがV4V3の間でも、U1U2の間にも、V1V2の間にも言えます。

 これらの事柄は、流れの成分には、「発散も渦も両方含む流れの成分」が存在することを示しています。

 すなわち、流れの成分には、「発散流れ」と「渦流れ」のほか「発散も渦も無い流れ」と「発散も渦も両方含む流れ」が存在することになります。

 流れの場が存在すると、発散の場も渦の場も計算できますが、それが独立して存在していることにはなりません。計算によって得られた「発散の場」と「渦の場」は独立して存在しているのでは無く、下図に示すように互いに共通のネットをもって居ます。互いに独立してなんか居ません。
イメージ 3
 
 「ヘルムホルツの定理」が主張している流れの場を、図にして示すと、下図の通りです。
イメージ 4
 流れFが発散のみの流れと渦のみの流れからできていると考えて、それらの量を「成分」と考えている点に問題があります。

 実際の自然の流れには、一様流を考えると簡単に理解できるように、「発散も渦も無い流れ」が存在し、流れの場の各成分(本当の意味の成分)が完全微分できるのであれば、その流れには「発散にも渦にも寄与する成分」があります。模式図で示すと以下の通りです。
イメージ 5

 一般的に、流れに発散も渦もある場合は、上の図のような成分を持ちますが、ベクトル場にはいろいろな種類のベクトル場があります。

 ベクトル場の分類として、発散と渦の存在に注目して流れの場(ベクトル場)を分類すると以下の図のような4つのベクトル場に分類することができます。
イメージ 6
 電磁波の電界が単位電荷に与える力のベクトル場は、渦が無く発散のみの流れと同じです。また、磁界が単位電流に与える力の場は、発散が無く渦のみの流れの場と同じです。

 一般に、ベクトル場として、電磁気学で扱う電磁場を流れの場と同様に考えて居ますが、電磁場と流体の流れの場には、大きな違いがあります。

 電磁場は、はじめに電界や磁界というポテンシャル場がありますが、流体の流れの場にはポテンシャルが存在するかどうか不明です。
 
 流体の流れの場には、流れのベクトルそのものが空間に満ちていますが、電磁場は、ポテンシャルが満ちていて、そのポテンシャルから得られる力のベクトル場は、実際に満ちているわけで無く、「考えられるだけ」の力ベクトル場です。

 電磁場に出てくる力のベクトル場は、「もしもそこに単位電荷(電流)を置くと考えられるだけ」のベクトルの場ですので、隣り合うベクトル同士が互いに影響を与えませんが、流体の流れのベクトル場は隣同士の流れベクトルが互いに影響し合って居ます。(ナビアストークスの式参照)
 
 電磁場には、ポテンシャルの存在がさきに確認できているので、点にベクトルが考えられるが、流れの場からポテンシャルを求めるには、絶対に空間微分が必要です。つまり、ベクトル空間の1点でポテンシャルが求められると考えることはできません。

 多くのヘルムホルツの分解定理を説明する記事に、1点のベクトルから「発散成分」、{速度ポテンシャル}、または「渦成分」(流線関数)得られるなどとの記述がありますが、そのような説明はベクトルの基本を無視した間違いと明確に言うことができます。

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

 ヘルムホルツの分解定理が出来上がった時代背景を見ると、19Cの半ばに微分演算子∇がベクトルとして多用されるようになり、ベクトルとの違いを吟味することなく、その便利さのみが注目されていた。


当時は、ベクトル場として認識されていたのは、初めから存在が確かなスカラーポテンシャルとして電界が、また存在が確かなベクトルポテンシャルとして磁界が認識されていた。電界の中に置かれた単位電荷が受ける力の場を「発散のみで回転のないベクトル場」、磁界の中に置かれた単位の電流が受ける力の場を「回転のみで発散のないベクトル場」がベクトル場としてとらえられていた。


本来は、流れの場とこれら電磁気における力の場の違いを考慮すべきであった。これらの力の場は、先に電界や磁界というポテンシャル場の存在が確認されているベクトル場であるのに対して、実際の川の流れなどの流体の流れのベクトル場は、その流れのベクトルを表すためのポテンシャルが本当に存在するのか確認できていないベクトル場である。その違いが認識できていなく、たぶん同じような「ベクトル場」だろうとしてみなされてきている。


当時としては、流れのベクトル場を実際的に認識できる時代ではなく、電界の中の電荷や磁界の中の電流が受ける力の場のベクトルを同じ「ベクトル場」と考えることもやむを得ないといえるかもしれない。


 
流体の流れベクトルと電磁気学が扱う電場、磁場との違いを認識できるチャンスはあった。




<直交性の問題>


 これらの間違いに気づくべきチャンスは、気象学の速度ポテンシャルと流線関数を求めたときに訪れていたが、間違った考えに毒されていて、権威主義の学者と呼ばれる人たちは、「抽象的な直交性」なることを言い始めて、そのチャンスを失っている。


 気象学では、ヘルムホルツの分解定理を“用いて”、東圧面内の風、すなわち2次元の面内の風を「発散だけの風」と「回転だけの風」に分解し、それぞれのポテンシャルである「速度ポテンシャル」と、「流線関数」を求めている。


 この「速度ポテンシャル」から得られる「発散風」と「「流線関数」から得られる「回転風」は、理論的には直交しているはずであるが、実際のこれらの風は直交していない。ここでこの定理の間違いに気が付くチャンスはあった。


 しかし、ヘルムホルツ教に属された現代の学者たち(流体学の先生)は、教義が間違っているはずはないと思って、白いものでも黒く見えるらしく、「抽象的に」発散成分と回転成分に分解できているので「なんの問題もない」と言う。


 すなわち、現実的には直交していないように見えるが、「発散風」は風の発散成分で「回転風」は風の回転成分なので、これらは「元来、直交しており、現実の風が直交しておろうとなかろうと、関係なく直交している」そうである。これが「抽象的な直交性」だそうで、「発散風」は発散風として吹き流れていき、「回転風」は回転風として流れていくので、互いに他に影響されいよう流れていくと考えるようだ。


 このような考え方は、日本の学問の先頭に立つ教授連中も言っていた。風を示す空気の流れは、例えば、「発散風」は赤い空気の粒に、「回転風」は青い空気の粒として流れていき、赤い粒は赤い粒だけのルール(速度ポテンシャルの等値線に直交)に従って、青い粒は、青い粒だけのルール(流線関数の等値線に沿って)に従って流れるので、互いにぶつかっても問題なく通り過ぎるそうだ。


 この話は、直接有名大学の先生から聞いたが、あきれてそれ以上モノが言えなかった。これが科学と言えるのだろうか。直交性とは何か。現実の流れの中で、流れのベクトルが、直交する2方向に分解され、それぞれの成分が「流れの発散」と「流れの回転」に寄与するのが「直交性」ではないのか。


 現実の風とは、空気の粒子の流れであり、その流れていく方向が流れベクトルであり、その流れの方向を便宜的に直交する方向に分解して考えて、直交するベクトル成分が互いに他に影響がない動きとして直交性を考えてきたのではなかったか。数学的なベクトルの成分に関する考え方を無視する、この「抽象的な直交性」に至っては、完全に宗教の世界である。

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

流体がその瞬間にその空間を埋めていることは実際何の問題もない事実である。しかし、その流体がどのような流れの場になっているかを示す「流速場」は一般的には存在しない。
こう言うと、今の科学者は、「何を馬鹿なことをいうか」と言われそうだが、速度とは距離の時間微分であって、時間微分を示す物理量を「時間の要素を含まない」瞬間の場に表現することはできない。
 
流速場がいつでも存在していると考えることは、ゼノンのパラドックスの一つ「飛んでいる矢は止まっている」と考えることに等しい。
いきなり、こう言っても現代の科学レベルの人には、分からないと思う。

飛んでいる矢を1次元で考え、時間との「2次元空間」で考えてみよう。横軸に時間、縦軸に距離を取ると、原点からどれだけ離れた位置に矢があるかが縦方向の座標で示される。
イメージ 1



物体の動きを距離・時間空間で表現するとき、その物体の速度は、ある瞬間と別の瞬間の位置の差をその時間さで割ると得られる。この二つの時間差をどんどん小さくしてΔtを無限に小さくすると、その瞬間の「速度」が得られると現代の科学者は考えている。


上の図で言えば、物体の速度は2点を結ぶ直線の傾きで示すことができ、速度を求める時間差を0に近づけると、その傾きは物体の軌跡曲線との接線になり、接線と言う「直線」は曲線と1点で交わるので、その接線が物体の「その瞬間の速度」を与えると言うのである。


一体、時間的な点、すなわち瞬間に速度が決められるものだろうか。上の図で瞬間に得られるものは、「物体の位置」だけである。物体の運動が時間の関数で与えられている場合には、その時間微分値もあらかじめ分かっているので、確かにその瞬間の速度が決められる。

しかし、現実の流体の流れの場?は、例えば気象で扱う大気の動きや川の水の流れなど、一般に決められた数式で表すことはできない。科学者は、ナビアストークスの式で表すことができると言うかもしれないが、彼らは自分の意見を通すためには、自分で分かっていても、その場逃れのウソを平気で言うものである。ナビアストークスの式とは、交通法規みたいなもので、道を走るときのルールを示したようなもので、個々の車の動きを示しているわけではない。今の問題では、通りを走っている車のすべてについて具体的に時間を追ってどこにあるかが分かっていなければならない。


なお、今の学者は、言うだろう。それもナビアストークスを解けば分かっているのだと。しかし、この式は、非線形方程式で完全には解けない。

私は学生の頃、この式をひねくり回して、渦度方程式や発散方程式を導き出す先生の講義を聞いて、必死で勉強した。なんの疑問もなく、納得しながら学んだが、実はナビアストークスの式とは非線形方程式と言って、それらの示す式は足し算や引き算を勝手にやることができない方程式群になっている。これを勝手に都合の良いように微分して足したり、引いたりして、渦度方程式や、発散方程式を導き出して、悦に入っているのが現代の流体力学先生たちである。


気象庁の数値予報の歴史にもそのことが表れている。昔の話だが、渦度方程式や発散方程式で数値予報をやりかけたが、うまくいかないので、昭和48年に「プリミティブモデル」に移行した。この時、うまくいかなかったのは、差分方程式の技術の問題だと考えていた。これは渦度方程式や発散方程式自体の本質的な間違いがあらわになったのが事実であったのだが、そのことが分かっている人間はいまだに誰もいないのである。


話が横道にはいったが、一般的には時間軸の1点である瞬間に分かるのは、そのもののある「位置」だけであり、「そこにある」ことしかわからない。あくまでもその瞬間の速度を知りたければ、時間軸上の「最小の粒」の二つの位置が必要である。

イメージ 2
流れの場、一般に「速度の場」とは、ある瞬間のものの「位置分布状態」と隣り合わせの「時間の粒」の「位置分布状態」の差の分布を示すもので、実際に我々が「流れの場」と認識しているのは、その差を二つの「時間の粒」のうちのどちらかに代表して与えているだけであって、「正確にある瞬間」の速度場と言うものはない。
 現実の世界は、3次元的に「ものがそこにある」のパラパラ漫画であり、瞬間瞬間に速度を考える今の流体力学(速度場や、発散・回転の場を考えている)は根本的に間違っていると思う。ゼノンと言う人は、紀元前400年以前にそのことを警告している。
私は、これまで少し間違った考え方をしていました。学者が発散や回転を求める微分演算子∇を用いた数量を1点で求められると考えていることに疑問を持ち、微分の分母が0になっても得られると考えていることは間違っていて、それが「飛んでいる矢は止まっている」のと同じ間違いだと言ってきました。
 
 「飛んでいる矢は止まっている」のが正しい、と思います。これは、パラドックスではなく、その他のゼノンのパラドックスとは、別に考える必要があると思います。他の「カメはアキレスに追いつけない」などは、単純な考え方の間違いでその間違いは簡単に指摘できますが、「飛んでいる矢は止まっている」はある定義のもとに真実です。

 その定義とは、「時間は瞬間のつながりで構成されていると考える」です。この定義がおかしいのかもしれないのですが、もしも、時間が瞬間のつながりであれば、「飛んでいる矢は止まっている」のです。

 時間が瞬間のつながりであれば、世の中の現象がすべて、gifアニメで成り立っていると考えることができ、世の中の動き(速度)は、連続してぱらぱらめくっていくと見えてくるもので、実際は「静止画」をぱらぱらめくっているだけです。

 そう考えると、各瞬間に矢は「そこにあるだけ」で止まっています。

 速度とは、2枚以上の静止画の中でみられる矢の距離を、ぱらぱらの時間差で割った値として与えられます。静止画の1枚の中で速度は決して得られません。

 流体力学の先生方が、空間の微分値を1点で求めるというのは、静止画の1枚の絵だけで速度が得られると考えているの等しいのです。

 



この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事