私が、「ヘルムホルツの分解定理は間違っている」と言うと、電磁気学関係者から反論を頂くことがあり、多くの流体力学の関係者には無視されています。あの大学者のヘルムホルツの言うことに間違いがあるはずが無い、と。
ヘルムホルツがどうしてベクトル場が発散のみのベクトル場と回転のみのベクトル場からなるという考えに至ったか、少し歴史を調べてみました。
1)オイラーにより流れの場がベクトル場として世に出た
ベルヌーイ(ヨハン:1667〜1748、ダニエル:1700〜1782)により管の中を流れる流体の力学が生まれ、オイラー(1707〜1783)、ラグランジェ(1736〜1813)により、流れと言うベクトル場が数学的に表現できるようになり、18世紀に流体力学が発達しました。
すなわち、流体の流れの場が「ベクトル場」として扱われるようになりました。
2)マックスウェルにより、電磁場がベクトル場として世に出た
一方、電磁気学はファラディー(1791〜1867)の卓越した考えに基づいた実験により多くの知見が得られ、図に描かれた説明がなされましたが、それらの特性を数学的に表記するのがマックスウェル(1831〜1879)でした。
「ロバート・P・クリース著, 吉田 三知世訳;{世界でもっとも美しい10の物理方程式}によると、
マックスウェルは、”混沌の状態にあった電気科学”をすでにできあがっていた流体や熱の流れのベクトル場の考え方を類比して数学的に表現しました。
彼は、電荷は、水のような非圧縮性の流体を強制的に流れ出させるポンプのようなもので、電場は、ひとつの電荷から別の電荷へと伸び、空間の至るところ満たしている沢山の力線からなるという(漠然としており数学的ではない)ファラデーの考え方を仮に正しいとし、これらの線の上にあるそれぞれの点には、方向と強度という属性が付随している」と考えました。
このように流れの場の考えを類比することによって、マックスウェルは「電気磁気論」を書き上げました。
ただし、実はいわゆる現在言われている4つの式からなるマックスウェルの電磁方程式は、マックスウェルその人が書き上げたものでなく、ヘヴィサイド(1850〜1925)が、ある意味勝手に、マックスウェルの難解な論文を纏めて、電磁方程式として世に出したものです。
ここに、電磁気学の扱う場も、流体の流れの場と同じく「ベクトル場」であると認識されました。
しかし、電界や磁界は実はベクトル場ではなく、ポテンシャル場で、その場に電荷や電流を置くと力のベクトルを考えることが出来る、と言う仮想のベクトル場です。流れの場のようにベクトル値が場に広がっているのではなく、ポテンシャルが空間に広がっているので、実際は、流れの場と、電磁場には大きな違いがあります。
3)ヘルムホルツは、マックスウェルの電磁方程式に心酔した
ヘルムホルツ(1821 〜 1894)は、マックスウェルと同時代の人で、マックスウェルの方程式に賛同し、自分の弟子のヘルツにマックスウェルの電磁方程式の実験的確証を得るよう要請しています。
マックスウェルが流れの場を類比して作り上げたこの電磁方程式に魅了されたヘルムホルツは、電磁場を流れの場と同じものと考えたことは容易に想像できます。その電磁場は、回転のない発散だけを示す「力線」である電界と、発散のない回転だけを示す磁場からなっており、流れの場も発散だけの成分と回転だけの成分からなっていると考えてもおかしくありません。
しかも、このころ発達した、微分公式のベクトル3重積が、ひとつのベクトルが明らかに発散だけの成分と回転だけの成分からなるとする式もあって、ヘルムヘルツの分解定理ができあがったことが分かります。
以上の歴史的背景を纏めると、マックスウェルは、目に見えない混沌とした電界、磁界を目に見え簡単にその姿を見ることができる水の流れなど流体の流れの場と同じように考えて電磁方程式を作り上げました。この方程式の見事さに魅せられて、水のような流体も電磁場と同じように振る舞うと考えると、流れの場は、「発散のみの流れ」と「開店のみの流れ」からなると考えるようになるに至ったのだと思います。
そして、その考え方が今に引き継がれて、ヘルムホルツの定理として残っています。
しかし、実際には、流れの場は、空間をベクトルそのものが埋め尽くされている場であり、その流れの場、すなわちベクトル場のポテンシャルが明確に存在すると確認されていないベクトル場です。
確かに渦がない流れには、速度ポテンシャルの存在が、発散のない流れには流線関数(ベクトルポテンシャル)が存在することは、数学的に保証されています。だが、流れが発散も渦(回転)もある流れは、渦があることにより速度ポテンシャルの存在が否定され、発散があることによってベクトルポテンシャルの存在が否定されています。
ヘルムホルツの分解定理を信じる人たちは、流れのベクトルがあると発散の分布も渦(回転)の分布も計算できることで、それらが独立して存在していると勘違いしています。
流れベクトルの中には、渦にも発散にも寄与する成分が存在していて、それらの二つの分布は、互いに独立していなく、ヘルムホルツの分解定理が言うような、独立した「発散だけの成分」と「渦だけの成分」に分解されてはいません。このことは、この定理を用いて等圧面の風を分解し、速度ポテンシャルと流線関数を示していますが、これらの二つの風は互いに独立していなく、直交してい無いことからも分かります。
このことを指摘すると、彼らは、「抽象的な直交性」が保たれて居るので、現実の二つの成分の風が直交して無くても問題ないと言います。「抽象的な直交性とは「発散”成分”」と「渦(回転)”成分”」の直交性を言っています。現実の空間で直交して無くて、どこが「直交性が保たれている」のでしょうか。今の気象学者は、数学も物理学も無視して、自分たちの世界で悦にいっています。
一方、電場、磁場は、明確にポテンシャル場が存在しており、そのポテンシャル場に電荷や電流を仮に置くと、力のベクトル場が「考えられる」というもので、流体の流れの場と、電磁気の場は全く異質のベクトル場であることに気づかないままであります。