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ヘルムホルツの分解定理が出来上がった時代背景を見ると、19Cの半ばに微分演算子∇がベクトルとして多用されるようになり、ベクトルとの違いを吟味することなく、その便利さのみが注目されていた。
当時は、ベクトル場として認識されていたのは、初めから存在が確かなスカラーポテンシャルとして電界が、また存在が確かなベクトルポテンシャルとして磁界が認識されていた。電界の中に置かれた単位電荷が受ける力の場を「発散のみで回転のないベクトル場」、磁界の中に置かれた単位の電流が受ける力の場を「回転のみで発散のないベクトル場」がベクトル場としてとらえられていた。
本来は、流れの場とこれら電磁気における力の場の違いを考慮すべきであった。これらの力の場は、先に電界や磁界というポテンシャル場の存在が確認されているベクトル場であるのに対して、実際の川の流れなどの流体の流れのベクトル場は、その流れのベクトルを表すためのポテンシャルが本当に存在するのか確認できていないベクトル場である。その違いが認識できていなく、たぶん同じような「ベクトル場」だろうとしてみなされてきている。
当時としては、流れのベクトル場を実際的に認識できる時代ではなく、電界の中の電荷や磁界の中の電流が受ける力の場のベクトルを同じ「ベクトル場」と考えることもやむを得ないといえるかもしれない。
流体の流れベクトルと電磁気学が扱う電場、磁場との違いを認識できるチャンスはあった。
<直交性の問題>
これらの間違いに気づくべきチャンスは、気象学の速度ポテンシャルと流線関数を求めたときに訪れていたが、間違った考えに毒されていて、権威主義の学者と呼ばれる人たちは、「抽象的な直交性」なることを言い始めて、そのチャンスを失っている。
気象学では、ヘルムホルツの分解定理を“用いて”、東圧面内の風、すなわち2次元の面内の風を「発散だけの風」と「回転だけの風」に分解し、それぞれのポテンシャルである「速度ポテンシャル」と、「流線関数」を求めている。
この「速度ポテンシャル」から得られる「発散風」と「「流線関数」から得られる「回転風」は、理論的には直交しているはずであるが、実際のこれらの風は直交していない。ここでこの定理の間違いに気が付くチャンスはあった。
しかし、ヘルムホルツ教に属された現代の学者たち(流体学の先生)は、教義が間違っているはずはないと思って、白いものでも黒く見えるらしく、「抽象的に」発散成分と回転成分に分解できているので「なんの問題もない」と言う。
すなわち、現実的には直交していないように見えるが、「発散風」は風の発散成分で「回転風」は風の回転成分なので、これらは「元来、直交しており、現実の風が直交しておろうとなかろうと、関係なく直交している」そうである。これが「抽象的な直交性」だそうで、「発散風」は発散風として吹き流れていき、「回転風」は回転風として流れていくので、互いに他に影響されいよう流れていくと考えるようだ。
このような考え方は、日本の学問の先頭に立つ教授連中も言っていた。風を示す空気の流れは、例えば、「発散風」は赤い空気の粒に、「回転風」は青い空気の粒として流れていき、赤い粒は赤い粒だけのルール(速度ポテンシャルの等値線に直交)に従って、青い粒は、青い粒だけのルール(流線関数の等値線に沿って)に従って流れるので、互いにぶつかっても問題なく通り過ぎるそうだ。
この話は、直接有名大学の先生から聞いたが、あきれてそれ以上モノが言えなかった。これが科学と言えるのだろうか。直交性とは何か。現実の流れの中で、流れのベクトルが、直交する2方向に分解され、それぞれの成分が「流れの発散」と「流れの回転」に寄与するのが「直交性」ではないのか。
現実の風とは、空気の粒子の流れであり、その流れていく方向が流れベクトルであり、その流れの方向を便宜的に直交する方向に分解して考えて、直交するベクトル成分が互いに他に影響がない動きとして直交性を考えてきたのではなかったか。数学的なベクトルの成分に関する考え方を無視する、この「抽象的な直交性」に至っては、完全に宗教の世界である。
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