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日野幹雄の「流体力学」(朝倉書店)で学んだ人は、「ポテンシャル流」を学んだときに「速度ポテンシャル」と「流線関数」を学んだため、「流れの中に速度ポテンシャルと流線関数があっても、別段何の違和感も無く、それで、発散と渦度が混在するのが当たり前であって、何も違和感を感じないのかもしれない。
しかし、「ポテンシャル流」とは、テキストを良く読み返してもらいたいが、渦度の無い流れである。その渦の無い流れは、速度ポテンシャルででも、流線関数ででも表すことができる、というものである。この場合、流線関数と速度ポテンシャルは、どの点においても必ず,それらの等値線は直交している。それらは、“同じ一つの流れ”を速度ポテンシャルの傾きで示す「発散流れ」ででも、「渦の無い渦流れ」として流線関数ででも示すことができるというものである。
一方、ヘルムホルツの分解定理と言うのは、発散も渦もある流れが、渦流れと発散流れに分解できるというのであって、渦の無いポテンシャル流れとは全く違う流れである。速度ポテンシャルで示す発散流れと流線関数で示す渦流れの二つの流れが混在しているというのである。
一般に、流れFの中に発散も渦もあると、∇・Fによって発散の分布が、∇×Fによって渦の分布が得られる。それは、ベクトルFが存在さえすれば、ヘルムホルツの分解定理と関係なく求められる。
2次元で発散および渦の計算を求める式を下図に示す。
この式を見ると、元の流れFのすべてが、直交する赤いベクトルと青いベクトルに分解され、発散は青いベクトルだけで、渦は赤いベクトルだけで求められているので、これらの発散流れと渦流れが独立した流れになって居ると考えられるかもしれない。これは、ヘルムホルツの分解定理を示しているに他ならない、ことになる。
しかし、もし、ベクトル場が全微分が可能であれば、上の青いベクトルと赤いベクトルは直交していても互いに独立では無く、それぞれに相関関係がある。
全微分が可能とは、
先の図の法線成分(青いベクトル)U4は、発散成分の計算に用いられていますが、その値は接線成分(赤いベクトル)U3と密接な関係を持って居ますし、また接線成分(赤いベクトル)のV4は法線成分(青いベクトル)のV3と密接な関係を持っています。同様なことは格子点1と格子点2との間にも見られます。
このことは、発散の計算に用いられたU4は、発散計算が行われる前に既に、渦成分を持っています。と言うことは、元のベクトルFの発散計算を行うために用いられたU4は、発散と渦の二つの成分に共通に寄与していることを示しています。
同じことがV4とV3の間でも、U1とU2の間にも、V1とV2の間にも言えます。
これらの事柄は、流れの成分には、「発散も渦も両方含む流れの成分」が存在することを示しています。
すなわち、流れの成分には、「発散流れ」と「渦流れ」のほか「発散も渦も無い流れ」と「発散も渦も両方含む流れ」が存在することになります。
流れの場が存在すると、発散の場も渦の場も計算できますが、それが独立して存在していることにはなりません。計算によって得られた「発散の場」と「渦の場」は独立して存在しているのでは無く、下図に示すように互いに共通のネットをもって居ます。互いに独立してなんか居ません。
「ヘルムホルツの定理」が主張している流れの場を、図にして示すと、下図の通りです。
流れFが発散のみの流れと渦のみの流れからできていると考えて、それらの量を「成分」と考えている点に問題があります。
実際の自然の流れには、一様流を考えると簡単に理解できるように、「発散も渦も無い流れ」が存在し、流れの場の各成分(本当の意味の成分)が完全微分できるのであれば、その流れには「発散にも渦にも寄与する成分」があります。模式図で示すと以下の通りです。
一般的に、流れに発散も渦もある場合は、上の図のような成分を持ちますが、ベクトル場にはいろいろな種類のベクトル場があります。
ベクトル場の分類として、発散と渦の存在に注目して流れの場(ベクトル場)を分類すると以下の図のような4つのベクトル場に分類することができます。
電磁波の電界が単位電荷に与える力のベクトル場は、渦が無く発散のみの流れと同じです。また、磁界が単位電流に与える力の場は、発散が無く渦のみの流れの場と同じです。
一般に、ベクトル場として、電磁気学で扱う電磁場を流れの場と同様に考えて居ますが、電磁場と流体の流れの場には、大きな違いがあります。
電磁場は、はじめに電界や磁界というポテンシャル場がありますが、流体の流れの場にはポテンシャルが存在するかどうか不明です。
流体の流れの場には、流れのベクトルそのものが空間に満ちていますが、電磁場は、ポテンシャルが満ちていて、そのポテンシャルから得られる力のベクトル場は、実際に満ちているわけで無く、「考えられるだけ」の力ベクトル場です。
電磁場に出てくる力のベクトル場は、「もしもそこに単位電荷(電流)を置くと考えられるだけ」のベクトルの場ですので、隣り合うベクトル同士が互いに影響を与えませんが、流体の流れのベクトル場は隣同士の流れベクトルが互いに影響し合って居ます。(ナビアストークスの式参照)
電磁場には、ポテンシャルの存在がさきに確認できているので、点にベクトルが考えられるが、流れの場からポテンシャルを求めるには、絶対に空間微分が必要です。つまり、ベクトル空間の1点でポテンシャルが求められると考えることはできません。
多くのヘルムホルツの分解定理を説明する記事に、1点のベクトルから「発散成分」、{速度ポテンシャル}、または「渦成分」(流線関数)得られるなどとの記述がありますが、そのような説明はベクトルの基本を無視した間違いと明確に言うことができます。
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Helmholtz Decomp
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ヘルムホルツの分解定理が出来上がった時代背景を見ると、19Cの半ばに微分演算子∇がベクトルとして多用されるようになり、ベクトルとの違いを吟味することなく、その便利さのみが注目されていた。
当時は、ベクトル場として認識されていたのは、初めから存在が確かなスカラーポテンシャルとして電界が、また存在が確かなベクトルポテンシャルとして磁界が認識されていた。電界の中に置かれた単位電荷が受ける力の場を「発散のみで回転のないベクトル場」、磁界の中に置かれた単位の電流が受ける力の場を「回転のみで発散のないベクトル場」がベクトル場としてとらえられていた。
本来は、流れの場とこれら電磁気における力の場の違いを考慮すべきであった。これらの力の場は、先に電界や磁界というポテンシャル場の存在が確認されているベクトル場であるのに対して、実際の川の流れなどの流体の流れのベクトル場は、その流れのベクトルを表すためのポテンシャルが本当に存在するのか確認できていないベクトル場である。その違いが認識できていなく、たぶん同じような「ベクトル場」だろうとしてみなされてきている。
当時としては、流れのベクトル場を実際的に認識できる時代ではなく、電界の中の電荷や磁界の中の電流が受ける力の場のベクトルを同じ「ベクトル場」と考えることもやむを得ないといえるかもしれない。
流体の流れベクトルと電磁気学が扱う電場、磁場との違いを認識できるチャンスはあった。
<直交性の問題>
これらの間違いに気づくべきチャンスは、気象学の速度ポテンシャルと流線関数を求めたときに訪れていたが、間違った考えに毒されていて、権威主義の学者と呼ばれる人たちは、「抽象的な直交性」なることを言い始めて、そのチャンスを失っている。
気象学では、ヘルムホルツの分解定理を“用いて”、東圧面内の風、すなわち2次元の面内の風を「発散だけの風」と「回転だけの風」に分解し、それぞれのポテンシャルである「速度ポテンシャル」と、「流線関数」を求めている。
この「速度ポテンシャル」から得られる「発散風」と「「流線関数」から得られる「回転風」は、理論的には直交しているはずであるが、実際のこれらの風は直交していない。ここでこの定理の間違いに気が付くチャンスはあった。
しかし、ヘルムホルツ教に属された現代の学者たち(流体学の先生)は、教義が間違っているはずはないと思って、白いものでも黒く見えるらしく、「抽象的に」発散成分と回転成分に分解できているので「なんの問題もない」と言う。
すなわち、現実的には直交していないように見えるが、「発散風」は風の発散成分で「回転風」は風の回転成分なので、これらは「元来、直交しており、現実の風が直交しておろうとなかろうと、関係なく直交している」そうである。これが「抽象的な直交性」だそうで、「発散風」は発散風として吹き流れていき、「回転風」は回転風として流れていくので、互いに他に影響されいよう流れていくと考えるようだ。
このような考え方は、日本の学問の先頭に立つ教授連中も言っていた。風を示す空気の流れは、例えば、「発散風」は赤い空気の粒に、「回転風」は青い空気の粒として流れていき、赤い粒は赤い粒だけのルール(速度ポテンシャルの等値線に直交)に従って、青い粒は、青い粒だけのルール(流線関数の等値線に沿って)に従って流れるので、互いにぶつかっても問題なく通り過ぎるそうだ。
この話は、直接有名大学の先生から聞いたが、あきれてそれ以上モノが言えなかった。これが科学と言えるのだろうか。直交性とは何か。現実の流れの中で、流れのベクトルが、直交する2方向に分解され、それぞれの成分が「流れの発散」と「流れの回転」に寄与するのが「直交性」ではないのか。
現実の風とは、空気の粒子の流れであり、その流れていく方向が流れベクトルであり、その流れの方向を便宜的に直交する方向に分解して考えて、直交するベクトル成分が互いに他に影響がない動きとして直交性を考えてきたのではなかったか。数学的なベクトルの成分に関する考え方を無視する、この「抽象的な直交性」に至っては、完全に宗教の世界である。
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流体がその瞬間にその空間を埋めていることは実際何の問題もない事実である。しかし、その流体がどのような流れの場になっているかを示す「流速場」は一般的には存在しない。
こう言うと、今の科学者は、「何を馬鹿なことをいうか」と言われそうだが、速度とは距離の時間微分であって、時間微分を示す物理量を「時間の要素を含まない」瞬間の場に表現することはできない。
流速場がいつでも存在していると考えることは、ゼノンのパラドックスの一つ「飛んでいる矢は止まっている」と考えることに等しい。
いきなり、こう言っても現代の科学レベルの人には、分からないと思う。
飛んでいる矢を1次元で考え、時間との「2次元空間」で考えてみよう。横軸に時間、縦軸に距離を取ると、原点からどれだけ離れた位置に矢があるかが縦方向の座標で示される。
物体の動きを距離・時間空間で表現するとき、その物体の速度は、ある瞬間と別の瞬間の位置の差をその時間さで割ると得られる。この二つの時間差をどんどん小さくしてΔtを無限に小さくすると、その瞬間の「速度」が得られると現代の科学者は考えている。
上の図で言えば、物体の速度は2点を結ぶ直線の傾きで示すことができ、速度を求める時間差を0に近づけると、その傾きは物体の軌跡曲線との接線になり、接線と言う「直線」は曲線と1点で交わるので、その接線が物体の「その瞬間の速度」を与えると言うのである。
一体、時間的な点、すなわち瞬間に速度が決められるものだろうか。上の図で瞬間に得られるものは、「物体の位置」だけである。物体の運動が時間の関数で与えられている場合には、その時間微分値もあらかじめ分かっているので、確かにその瞬間の速度が決められる。
しかし、現実の流体の流れの場?は、例えば気象で扱う大気の動きや川の水の流れなど、一般に決められた数式で表すことはできない。科学者は、ナビアストークスの式で表すことができると言うかもしれないが、彼らは自分の意見を通すためには、自分で分かっていても、その場逃れのウソを平気で言うものである。ナビアストークスの式とは、交通法規みたいなもので、道を走るときのルールを示したようなもので、個々の車の動きを示しているわけではない。今の問題では、通りを走っている車のすべてについて具体的に時間を追ってどこにあるかが分かっていなければならない。
なお、今の学者は、言うだろう。それもナビアストークスを解けば分かっているのだと。しかし、この式は、非線形方程式で完全には解けない。
私は学生の頃、この式をひねくり回して、渦度方程式や発散方程式を導き出す先生の講義を聞いて、必死で勉強した。なんの疑問もなく、納得しながら学んだが、実はナビアストークスの式とは非線形方程式と言って、それらの示す式は足し算や引き算を勝手にやることができない方程式群になっている。これを勝手に都合の良いように微分して足したり、引いたりして、渦度方程式や、発散方程式を導き出して、悦に入っているのが現代の流体力学先生たちである。
気象庁の数値予報の歴史にもそのことが表れている。昔の話だが、渦度方程式や発散方程式で数値予報をやりかけたが、うまくいかないので、昭和48年に「プリミティブモデル」に移行した。この時、うまくいかなかったのは、差分方程式の技術の問題だと考えていた。これは渦度方程式や発散方程式自体の本質的な間違いがあらわになったのが事実であったのだが、そのことが分かっている人間はいまだに誰もいないのである。
話が横道にはいったが、一般的には時間軸の1点である瞬間に分かるのは、そのもののある「位置」だけであり、「そこにある」ことしかわからない。あくまでもその瞬間の速度を知りたければ、時間軸上の「最小の粒」の二つの位置が必要である。
流れの場、一般に「速度の場」とは、ある瞬間のものの「位置分布状態」と隣り合わせの「時間の粒」の「位置分布状態」の差の分布を示すもので、実際に我々が「流れの場」と認識しているのは、その差を二つの「時間の粒」のうちのどちらかに代表して与えているだけであって、「正確にある瞬間」の速度場と言うものはない。
現実の世界は、3次元的に「ものがそこにある」のパラパラ漫画であり、瞬間瞬間に速度を考える今の流体力学(速度場や、発散・回転の場を考えている)は根本的に間違っていると思う。ゼノンと言う人は、紀元前400年以前にそのことを警告している。
私は、これまで少し間違った考え方をしていました。学者が発散や回転を求める微分演算子∇を用いた数量を1点で求められると考えていることに疑問を持ち、微分の分母が0になっても得られると考えていることは間違っていて、それが「飛んでいる矢は止まっている」のと同じ間違いだと言ってきました。
「飛んでいる矢は止まっている」のが正しい、と思います。これは、パラドックスではなく、その他のゼノンのパラドックスとは、別に考える必要があると思います。他の「カメはアキレスに追いつけない」などは、単純な考え方の間違いでその間違いは簡単に指摘できますが、「飛んでいる矢は止まっている」はある定義のもとに真実です。
その定義とは、「時間は瞬間のつながりで構成されていると考える」です。この定義がおかしいのかもしれないのですが、もしも、時間が瞬間のつながりであれば、「飛んでいる矢は止まっている」のです。
時間が瞬間のつながりであれば、世の中の現象がすべて、gifアニメで成り立っていると考えることができ、世の中の動き(速度)は、連続してぱらぱらめくっていくと見えてくるもので、実際は「静止画」をぱらぱらめくっているだけです。
そう考えると、各瞬間に矢は「そこにあるだけ」で止まっています。
速度とは、2枚以上の静止画の中でみられる矢の距離を、ぱらぱらの時間差で割った値として与えられます。静止画の1枚の中で速度は決して得られません。
流体力学の先生方が、空間の微分値を1点で求めるというのは、静止画の1枚の絵だけで速度が得られると考えているの等しいのです。
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1) 飛んでいる矢は止まっているか
飛んでいる矢は止まっている、と言ったらおかしいと思いますか。ゼノンのパラドックスと言う矛盾のある話の中に、「飛んでいる矢は止まっている」と言うのがあります。「飛んでいる矢の時間を無限に小さく切り刻んで、時間を瞬間の繋がりと考えると、各瞬間瞬間に矢は「そこにある」ことの連続であると考えることができ、飛んでいる矢は、各瞬間に止まっていると考えることができると言うものです。
飛んでいる矢は、速度をもって飛んでいます。速度は、例えば秒速1mとか、毎時50Kmとか、言う風に距離を時間で割ります。
一定の速度をもって動くものを、横軸に時間、縦軸に距離で示すと下図のように、直線で表すことができて、速いものほど、この図では勾配がきつくなります。この図のなかで、「止まっている」とは、時間軸(横方向)に対して距離(縦方向)が変化しないことを意味しますので、水平の線で表現することができます。
一方、速度が変化する場合は、上の図で示すような直線ではなく、曲線で表されます。例えば、弓道の矢を考えますと、はじめ矢をつがえ構えているときは「静止」していますが、放たれた瞬間から速度が急速に増しています。
矢が放たれる瞬間からの時間を横方向に、放たれる前の矢の先端の位置を距離の原点として、矢の先端の移動距離をrとして縦座標に取ると、放たれた瞬間は速度0で、次の瞬間から力を受けて加速度を得ます。次第に速度が増して、弦から離れると空気の抵抗を無視できるとすると、一定速度になって飛んでいきます。
ほんの一瞬の出来事で、弦に押されている間の加速している時間の話ですが、距離(位置)と時間の空間では、曲線で示されることになります。この間の速度は、移動した距離を時間で割って求めることができますが、刻々と変わっていく速度は、図る時間(Δt)を0に近づけることによって、その瞬間の速度を求めることができます。
有限の時間の平均的な速度は、測る前の時刻とあとの時刻の矢の位置を結んで、その傾きを取ることによって求めることができます。この時間を無限小に近づけると、その傾きを表す直線は曲線の接線になります。
このことを、数学では、
矢が放たれてしばらくの実際の矢が飛んでいく状態は距離-時間座標では、曲線で示されますが、速度は直線で示されます。曲線と直線は1点で交差しますので、時刻t1における矢の速度は、この瞬間の を求めることによって接線が求められます。すなわち
v(t1)=(
となります。
一般に、従属変数yを独立変数xで微分する場合、dy/dxは、微分の分母(dx)を無限に0に近づけることによって、その分母になっている関数xの任意の1点で決定できると考えられています。
今考えている例に戻りますと、位置情報rが時間tの既知の関数である場合は、そのtでの微分値が分かっていますので、どの瞬間の微分値も分かり問題はありません。が一般的には、rがtの既知の関数として与えられず、その時刻t1にr1にあると言う位置情報だけで、速度は決まりません。
一般的には、無限に時間間隔を0に近づけても、2つ以上の時間における位置情報があれば、問題なくその微小な時間の「平均」速度を決めることができます。しかし、無限に近づけすぎて、時間の間隔が無くなってしまっては、速度は決まりません。「Δtを無限に0に近づける」のと「Δt=0」とは違います。
無限に微小な時間間隔を取るとは、時間軸上の2個以上の情報が得られますが、「Δt=0」、すなわち、時間軸上の1点で1個の位置情報しか得られない場合には、速度=距離/時間=距離/0となって、数学的には不定となり、値は決定できません。
v(t1)=(
の考え方には注意が必要です。
「飛んでいる矢が止まっている」と考えるこの考え方はどこに問題があるのでしょうか。「飛んでいる」を判定するために必要なのは速度であり、「その時刻にそこにある」だけでは、「とまっている」とは判断できません。
ある瞬間の、すなわち時間軸上の1個に対応する位置情報だけで「飛んでいる、止まっている」の判断はできません。時間軸を時間の「つぶ」の連続と考えると、2個以上の時間の「つぶ」に対応する位置の情報が無ければ「速度」は決めることができません。
先の例に戻りますと、r(t1)だけでなくr(t1+Δt)との2つの情報が無ければ速度は得られません。Δtはいくら小さくしても良いのですが、無限に小さくしたからと言って、r(t1)だけで速度は得られると考えることはできません。
もしも、任意の物体の速度が、Δtを無限小に近づけることによって、ある瞬間に決まっていると考えとすると、ゼノンのパラドックスの矛盾と同じ間違った考え方に陥っていることになります。
2) ヘルムホルツの分解定理とゼノンのパラドックス
ヘルムホルツの分解定理と言われている「定理」にも、ゼノンのパラドックスと同じような間違いが含まれています。すなわち「微分する変数を無限に微小にする」を「微分の微小変化量を0にしてしまう」間違いを犯しています。
私のホームページ「ヘルムホルツの分解定理は間違っている」を見て頂いたある先生から下のようなコメントを頂きました。
まず、この先生は初めに大きな勘違いをされています。「渦度または発散のどちらかがゼロである場合には」と言っておきながら、「渦も発散もゼロでない場合の話」にいつの間にかすり替えています。
次に問題なのは、境界の法線成分と接線成分だけでスカラー関数やベクトル関数が既知となると考えることです。この考え方は、多くの流体学者が間違っているのですが、ガウスの積分定理を都合の良いように誤解して使っています。ガウスの積分定理は、
「ある点を取り巻く境界内の発散の体積積分は、その境界から出ていくベクトルの総量に等しい」と言うだけで、境界の部分的な特性を述べているものではありません。
境界の法線成分、接線成分が分かっても、決してスカラー関数やベクトル関数が求められることはありません。ポテンシャル関数が求められるためには、境界の近傍のデータが絶対的に必要です。
あるベクトル場Fにおいて、3次元で言えば境界面、2次元なら境界線上の値は、発散(∇・F)や回転(∇×F)の計算について、少なくとも1次元分のデータが不足しているため、その点における発散、回転は求めることができません。
2次元の場合について、図で説明します。
境界上の点pにおけるスカラーポテンシャルを知るためには、図の中の式で示す通り、その点pの近傍、すなわち少なくとも境界内部についてもそのデータが無ければ絶対に発散の分布が分からず、境界線上の値だけではスカラーポテンシャルの値が分かるはずはありません。
これが分かると考えるのは、δn(法線方向の微分)が無限に小さくなることを、完全に0にしてしまって、微分値が不定になっていることに気づいていない間違いです。
もしも境界における法線成分が発散成分ともしも考えているなら、ガウスの積分定理をひどく間違って理解しているとしか言いようがありません。
もしも、法線成分が発散成分と考えるなら任意に考えた境界がスカラーポテンシャルの等値線になっていると言うことになります。こんなひどい間違いをしているとは考えられませんが、中にはこんな考えをしている人がいるかもしれません。
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ベクトル場とポテンシャル
力の場や流体の流れの場など、空間の位置座標にベクトルが対応して存在する場合、ベクトル場と呼んでいますが、基本的な数学的考察に寄り、ベクトル場に回転が無ければ、すなわち、ベクトル場が「発散に寄与する成分」と「発散にも回転にも寄与しない成分」だけからなるベクトル場には、スカラーポテンシャルが存在して、そのポテンシャルの勾配が、そのベクトル場を表すことができます。
をもつための必要十分条件」は
すなわち、ベクトル場がスカラーポテンシャルを持つためには、そのベクトル場の回転が0、すなわち回転の無いベクトル場でないといけません、と言っています。これが必要かつ十分条件であると言うことは、もしも、そのベクトル場に回転があれば、スカラーポテンシャルは存在しないことを言っています。
回転の無いベクトル場とは、「発散のみに寄与する成分」と「発散にも回転にも寄与しない成分」のどちらか、またはこの二つの組み合わせの場合だけにスカラーポテンシャルは存在することが示されています。模式図で示すと、下図のような場合です。
もしも、ベクトル場に回転に寄与する成分があると、スカラーポテンシャルは存在しないことを定理7.3は述べています。このことをよく覚えておいてください。
すなわち、ベクトル場がベクトルポテンシャルを持つためには、そのベクトル場の発散が0、すなわち発散の無いベクトル場でないといけません、と言っています。これが必要かつ十分条件であると言うことは、もしも、そのベクトル場に発散があれば、ベクトルポテンシャルは存在しないことを言っています。
発散の無いベクトル場とは、「回転のみに寄与する成分」と「発散にも回転にも寄与しない成分」のどちらか、またはこの二つの組み合わせの場合だけにベクトルポテンシャルは存在することが示されています。模式図で示すと、下図のような場合です。
もしも、ベクトル場に発散に寄与する成分があると、スカラーポテンシャルは存在しないことを定理7.5は述べています。このこともよく覚えておいてください。
以上のこと、すなわち定理7.3と定理7.5を合わせて考えると、元のベクトル場に回転があれば、スカラーポテンシャルが、発散があればベクトルポテンシャルが存在しないことは、高校生以上の思考力があれば分かります。
すなわち、「発散も回転もあるベクトル場にスカラーポテンシャルもベクトルポテンシャルも存在しない」ことは分かります。
定理7.3と定理7.5は数学的に全く基本的な定理で、誰も疑う人は居ません。
この二つの定理は、「ヘルムホルツの分解定理」を否定しています。
発散と回転がある流れには、スカラーポテンシャル(速度ポテンシャル)もベクトルポテンシャル(流線関数)も存在しませんから、元の流れの場を「発散流れの場」と「回転流れの場」に分解することはできません。
これらが独立して存在していると勝手に考えています。独立して存在すれば、それぞれ定理7.3及び定理7.5によってスカラーポテンシャル及びベクトルポテンシャルが存在することになります。
しかし、実際には、独立して存在することを証明していません。先の記事にも書きましたが、流れの場Fには、極座標で考えると明らかに発散にも回転にも寄与する成分が存在します。∇・Fと∇×Fのどちらにも寄与する成分があると、二つの(発散と回転の)流れの場は、くっついており、下図のようになっています。
もしも、発散流れと回転流れが独立しているなら、それぞれの計算で得られたベクトルがどの場所においても直交性を保つことを証明しなければなりません。何処ででも直交性を保っていれば、上のネットは互いに影響なく外すことができます。
流体学者の中には、それらが実空間上に直交していなくても「仮想の直交性」なりたっているので、構わないと言い放っています(下図参照。下図に示すコメントは、ある学者に、気象庁やNOAAが発表している速度ポテンシャルと流線関数の分布から得られる「発散風」と回転風」が直交してないのは、どのように考えられますか、と聞いた答えの一部です)。
彼らにはヘルムホルツの分解定理が初めにあって、先天的に成り立っていると言うのです。全く馬鹿馬鹿しい定理があったものです。ベクトルの全く基礎的な考え方の一つである「直交性」をゆがめてまで、ヘルムホルツ教の経典を信じている人たちです。
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