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最近(と言わずここ10年以上前から)江戸に関する本がたくさん出されている。
研究者が書く一般向けの本から、小説家が書くものまで。
そのなかで、20年以上も研究者の間で論争になり、教科書の記述が変わった、江戸時代の事柄について、書いてみたい。
1649年、慶安の御触書
ほとんどの大人の世代は学校で必ずと言ってよいほど、習ってきている。記憶にある人も多いのではないか。
しかし、平成19年度の教科書(一部平成18年度版)から姿を消している。
現在では教科書に以下のように記述されている。
「安政年間、美濃岩村藩(現岐阜県)で出された法令であった」と。
山本英二著『慶安御触書成立史論』日本エディタースクール出版部、1999年2月。
この本では、まず最初に教科書に書かれてきた「慶安御触書」についての概観から話に入り、その後で研究史の整理を行っている。
そして、安政年間の美濃岩村藩の法令のことも触れているが、御触書の源流を元禄10年、甲府徳川藩(徳川綱豊、のちの6代将軍家宣)の領内で出された「百姓身持之覚書」としている。
細かいところは、上記、山本英二氏の著書を参照されたい。
さて、江戸時代観。
江戸時代は265年間の徳川の平和が続いた、世界史的にみても例をみないことであった。
徳川宗家18代目当主徳川恒孝さんはその著書(『江戸の遺伝子』PHP研究所、2007年3月)のなかで述べている。
今、上野の東京国立博物館(正式には独立行政法人東京国立博物館)で「大徳川展」が開催されている。
徳川将軍家、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家の全徳川家の遺品などが一堂に公開される。
徳川宗家は財団法人化が遅れたものの、徳川記念財団を設立し、史資料は江戸東京博物館や徳川林政史研究所などに保管を委託して管理運営している。
尾張家は愛知県名古屋市の大曽根にある、徳川美術館で管理している。(現在でも個人で所有しているものもあるのではないかと思ってしまうのだが…果たして真相は?)
水戸家は茨城県水戸市、偕楽園近くにある、徳川博物館で管理している。(以下同文)
紀伊家は…。
どうしてしまったのだろうか?
江戸東京博物館の開館記念の時に行われた「家康の遺品」展で、紀伊徳川家所有のものも出てきたが、数が少ない。
しかも個人所有であった。
財団法人化はしていないのだろう、と思うが、どうしてなのか?(将軍を8代、14代と出していて、御三家筆頭の尾張家を超えていたというのに…)
さて、このブログの最初に、少し書いたかもしれないが、江戸時代の将軍と大名の関係というのは本来、鎌倉以降の武家政権が主従関係を基幹としていることからも、基本的にはそうなのであるが、将軍と近世大名の関係は果たしてそんなに上下関係が顕著なのであろうか?
仮説としては、今のアメリカ合衆国のような、連邦国家のようなものであったと考えるが、藩の独自性というものがあった点、つまり武家諸法度など全国法令が示すとおり、将軍(幕府)の威光は絶大であるが、藩の独自性は認められていたというもの。
また、参勤交代制度は従来、大名の経済力をけずるという意図があったとされるが、実際に参勤交代で大行列を組むのは国元と江戸入り、または主要な城下町を通過するなどの時だけで、その他の道中では経費節減を行っていたということも言われてきている。
また、江戸は17世紀後半には100万都市と言われるように、町人50万のほかは武家50万、参勤交代で全国から大名とその家臣が来るので、いろいろと情報交換の場にもなっていた点からも、藩にとって経済負担は多くてもそれなりの見返りも期待できていたのではないか、と考えられる。
もちろん参勤交代は武家諸法度の寛永令に載せられているとおり、大名統制の一環であり、軍役(大名が果たすべき義務)の一つであった。
そう考えていくと、まだまだ江戸時代観、これからますます変わっていくこともあるのではないかと思う。
※更新頻度は不定期、今後はまめに更新したいとも思うが、果たして…(気長に見に来てください!)
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2007/11/10(土) 午後 10:37