鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

沖縄戦は沖縄県だけの戦争ではありません。奄美諸島でも戦われていました。

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 沖縄突入を目指した戦艦大和は昭和20年4月7日午後2時23分、北緯30度22分・東経128度4分の坊之津岬の海上で米機動部隊艦載機の攻撃により沈没した。大和の正確な沈没地点については、年以来の潜航艇による数度の調査で確定され、海底に沈む大和の姿がカメラで撮影されたことは記憶に新しいところである
 大和の沈没地点については乗組員だった吉田満さんの著書『戦艦大和ノ最後』の記述から、徳之島西方沖の海上とされてきた。その後の調査や防衛庁の資料等で坊之津岬沖と断定しても、吉田さんの著書の大きな影響力、そして「少しでも沖縄に近いところで沈んだ」と思いたい一種の判官びいきなのか、長い間徳之島西方海上説を根強く支持させてきた。戦艦大和の慰霊碑も徳之島の伊仙町の犬田布岬に造られている。
 実際には徳之島から戦艦大和は見えなかったのだろうか。当時徳之島にいた人で大和の最後を目撃した人が存在する。小学生だった益田宗児さんは東シナ海の上空を乱舞する米軍機と、白昼立ち上る大きな火柱を目撃した。(註1)徳之島憲兵隊員だった塩田甚志さんは著書で「7日午後、大和城の監視哨ははるか西北西の水平線の彼方に大火柱が上がるのを目撃し、遠雷のような響きを聞いた」(註2)と記している。徳之島飛行場に不時着した第21振武隊員の石田京さんも、水平線に白い半円が天Dまで膨らんで消えるのを2回目撃した。時間は午後2時22分、18秒後に爆発音を聞いたので距離は海岸から25キロ沖合いと判断した。(註3)
 実際に大和の艦影を目撃したというのは里村さんだけである。他の人は大和を攻撃する米軍機や沈没時の火柱を目撃し、爆発音を聞いているだけである。石田京さんは沈没地点を海岸から25キロ沖合いと判断しているが、この近さであれば艦影が徳之島から見えたはずである。吉田満さんの著書の記述が影響しているのかもしれない。
 里村さんの回想のように大和が沈んだとすると、島に生存者が漂着しても不思議ではないし、島から漁船で生存者救助に行きそうなものだが、そういったことはないようだ。沈没時間も合わない。何か他の船の沈没と混同しているのではないだろうか。

(追記)
 この日大和を攻撃する米艦載機の大群は奄美諸島上空を通過している。奄美大島曽津高崎の海軍レーダーは4月7日早朝、200キロ以上の距離に大編隊を探知している。この編隊は帰途は島の上空を通りその数は約120機を数えたという。(註4)喜界島基地では大和に向かう米軍機の大群通過を目撃している。午前10時50分頃、上空を艦上機150機が北西進するのが目撃され、その旨の電文が打たれたが、大和には遅れて到着したため、戦機に間に合わなかった。午前11時30分頃にも大編隊250機が北上中との電文が打電している。(註5)


(註1)益田宗児『徳之島特攻隊物語』(南島文化研究所 2004) P58
(註2)塩田甚志『生と死の岐路−沖縄戦終焉時のドキュメンタリー』(誠広出版 1992)
  P87
(註3)石田京『或る敗因』(文芸社 2007)P48〜50
(註4)海軍電測学校卒業生の会編『栄光の海軍電測士官』(同会 1980) P73〜74
(註5)吉田満・原勝洋『ドキュメント戦艦大和』(文藝春秋 1986) P112

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