鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

沖縄戦は沖縄県だけの戦争ではありません。奄美諸島でも戦われていました。

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1944年9月25日、徳之島から九州への疎開者を乗せた「武州丸」(日之出汽船 1222トン)が諏訪瀬島北端北西13キロ付近で米潜水艦「バーベル」(先に宮古丸と八木丸を沈めた潜水艦)の雷撃を受けて沈没した。(註1)この時武州丸には徳之島からの疎開者154人(亀徳99人、井之川27人、山25人、尾母3人)が乗船していた。年齢別では15歳未満の幼児学童が79人、16歳から59歳までの婦女が39人、と乗客の9割が学童と婦女だった。(註2)
これより前、サイパン島の陥落を受けた7月7日の緊急閣議で政府は、米軍の侵攻が予想される南西諸島の奄美大島、徳之島、沖縄本島、宮古島、石垣島の五島から老幼婦女子を本土及び台湾へ疎開させることを決定した。(註3)これを受けて鹿児島県知事は7月15日に奄美諸島の住民に対して本土への強制疎開を命じた。(註4)
 具体的には奄美諸島から3万人の疎開を予定し、このうち2万4千人を無縁故疎開者(疎開先に親類縁者などがいない疎開者)と見込んでいた。疎開先は全員鹿児島県内を予定していた。(註5)これを受けて徳之島では島全体で6千2百人を疎開させることになった。疎開できる者は満60歳以上の高齢者、一般婦女子、国民学校児童、その他の病身者とされた。(註6)つまり生産や戦闘の足手まといになる人々である。疎開は住民の安全のためではなかったのである。
 疎開勧奨は駐在巡査や町村役場吏員が戸別訪問して行われたほか(註7)、駐屯部隊でも各駐屯集落に副官を派遣して疎開勧奨を行ったという。(註8)勧奨といっても事実上の強制であり、かなり強引なこともおこなわれたようで、山集落では駐在巡査から荷造りの準備が遅いと叱られた上にビンタを張られた家族もあった。(註9)
 「勧奨」の結果、徳之島では2千3百人が疎開することになり、第1回目は8月18日午後、「天運丸」(200トン)という機帆船で徳之島、沖永良部島、与論島の希望者を乗せて古仁屋に運んだ。(註10)徳之島などの島には九州へ行く船が寄港することはあまりないため、住民は船の寄港する古仁屋に集まり、港近くの集会所や国民学校の教室、旅館などで船を待った。時には1週間から10日ぐらい待つこともあったという。(註11)
 古仁屋からの疎開の第1陣がいつ出発したかは不明である。資料で確認できるのは、8月24日に物資を運んできた海軍の潜水母艦「長鯨」である。潜水母艦とは母艦として潜水艦へ補給や乗組員の休養を任務とする船だが、この頃は輸送船の代わりに沖縄方面への輸送任務に従事していた。長鯨は瀬相で引揚者30名を乗せて26日に鹿児島に向かっている。(註12)
 この後も長鯨は9月7日、9月19日と瀬相に寄港している。人数は不明だが疎開する住民を乗せたようだ。第2回目以降(8月24日以降か?)は露天甲板に帆布を展張して、800人以上の疎開者を乗せたという。(註13)この通りだとするとかなりの人数が乗艦したようだ。
 武州丸が何回目の疎開船かは不明であるが、疎開のためだけに寄港したわけではない。同船は9月8日に7隻の僚船と5隻の護衛艦と共に、9月8日に基隆を出港した。ところが途中で米潜水艦の攻撃を受けて4隻が沈没、ほうほうの体で古仁屋にたどり着いたのが実情であった。疎開者を乗せるのはあくまで、九州に帰るついでの仕事だった。(このことは対馬丸にも言える。)
 武州丸は9月24日午前8時50分頃古仁屋を出港した。(ぃ丕牽粥帽L擅毅娃伊椶鮴僂鵑澄崛蟒4檗廚肇淵502船団を組み、護衛には第89号駆潜特務艇と第200号特設駆潜艇の2隻がついた。船団速力は7・5ノットで、名瀬に寄港して26日には鹿児島港に到着する予定だった。武州丸には疎開者150人が乗船していたという。(註14)
 武州丸と同行した船については長い間「日輪丸」(大同海運 7840トン)とされてきた。武州丸に亀津町・東天城村の疎開者が、日輪丸に天城村・伊仙村の疎開者が、合わせて約300人が乗船した。乗船時の手違いで荷物がそれぞれ逆の船に積み込まれてしまい、鹿児島で疎開者に荷物を渡した時に、武州丸で遭難した疎開者の荷物だけが残されたとされてきた。(註15)
 だが本当は日輪丸ではなく相州丸のようだ。当時相州丸乗組員だった安藤福治さんの回想からもそのことが確認できる。それによると名瀬で材木を積んだ相州丸が古仁屋に寄港すると、武州丸が先に入港していた。相州丸は疎開者の荷物やタンス、雑貨類を積み込んだ。一方の武州丸は女性や子供、老人などが乗船した。安藤さんは武州丸について台湾から来たらしいと聞いていた。(註16)この証言は註14の内容に符合しており、間違いないと思われる。
 疎開者のほとんどが薄汚れたゴザが敷かれた船倉に押し込められ、出入り口も人一人がやっと通れるほどの細い階段だったという。(註17)他の多くの場合と同じく、もともと貨物船のため環境は劣悪だったようだ。一部の住民は甲板にテントを張って過ごしていた。そこには沖縄に行く途中に輸送船が沈没したため鹿児島に引き返す兵士も約15名乗船していた。(註18)
 25日午後9時頃、甲板で寝ていた秋富善次郎さんはゴトンという音に飛び起きた。ベーベルの放った1発目の魚雷が命中したのである。気がつくと秋富さんは海中におり、船が沈没する時の渦に巻き込まれまいと力泳した。その時、2発目の魚雷が命中し武州丸は2つに折れて沈没した。(註19)魚雷命中から沈没まで5分か10分であった。
 武州丸の沈没に僚船の相州丸は気付いていた。姿は見えなかったが、キャーという叫び声とボイラーが爆発し蒸気が吹く音を見張り員が聞いていた。相州丸は全速力でひたすら逃げた。ただ生存者を傷つけないように遠く離れるまで爆雷は使用しなかった。(註20)
 秋富さんは1時間ほど漂流の後、戻ってきた1隻の護衛艦に救助された。翌朝護衛艦は沈没現場に向かい、井之川出身で兄の伊集院八郎さん(11才)と妹の嬉子さん(8才)を救助した。兄は板切れに乗っかり、妹は骨折を負いながらも木片にすがりついていた。(註21)だが2人と一緒だった父母と妹は船と共に沈んだ。
碇本ウメさん(60歳)と連れの女児も救助された。2人は武州丸が沈みかけた時に甲板に出てきた船長が、2人を海に浮かぶハッチの板に乗せたため助かったという。(註22)だがウメさんは病院で死亡している。他に内健一さん(14歳)も助かっている。疎開者以外では乗組員2名と兵士2名が救助されたという。(註23)結局、生存者は合わせて10名に過ぎず、疎開者148名と乗組員11名が死亡する大惨事となった。
 武州丸沈没の事実は厳重に秘匿された。生存者が上陸した鹿児島港では憲兵が待ち構えていた。トラックで移された県立病院にも憲兵がおり、武州丸沈没のことは口外しないようにと口止めされた。(註24)
 外出も許可されなかったため、軽傷の秋富さんは27日に病院を無断で抜け出して姉の家にいった。そこから大阪の友人に知らせ、その大阪の友人が島に電報を打ったことで島の人の知るところとなった。(註25)徳之島の亀徳郵便局では9月30日に武州丸沈没の内報を受けている。(註26)これが先の電報のことなのかは不明だが、この頃には島に伝わっていたことは確かである。
 武州丸沈没の報が伝わると、古仁屋で疎開船を待っていた人は前意を翻して島に帰り、二度と疎開の話は徳之島では起きなかったと言われている。(註27)対馬丸に比べれば犠牲者数は少ないが、対馬丸の沈没が疎開に及ぼしたのと全く同じ影響を及ぼしたようだ。
だが実際には疎開の動きが全く止まったわけではないようだ。東天城村の手々と山集落から疎開した人の中には、集結場所の古仁屋で空襲に遭って久根津集落に避難した人もいる。(註28)これは古仁屋の1回目の空襲のようなので、10月10日の空襲であろう。奄美諸島の疎開のその後は資料が少ないため不明な点が多いが、翌1945年3月24日に十島村の村営「十島丸」(573トン)が疎開者を乗せて名瀬を出港したのが最後となった。
 対馬丸と武州丸はともに政府の命令に基づく疎開船だが、その犠牲者に対する政府の対応は対照的である。対馬丸の疎開学童には1人当たり2万円の見舞金と遺族支出金が支給され、勲八等瑞宝章が授与され靖国神社に合祀されている。対馬丸に乗船していた一般の疎開者に対しても1人当たり3万円の見舞金が支給されている。(註29)
それに対して武州丸の遭難者には何の補償もされていない。いやその存在さえ国民一般は知らないだろう。犠牲の性格は同じはずなのにである。戦後60年を迎えてもなお、政府の対応は不十分と言わざるを得ない。


(註1)前橋松造『金十丸、奄美の英雄伝説』(南方新社 2004) P83〜86
(註2)水野修『七島灘を越えて』(海風社 1985) P25
(註3)防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968) P614
(註4)天城町役場編『天城町誌』(天城町役場 1978) P857
(註5)三上謙一郎『沖縄学童集団疎開』(鉱脈社 2004) P23〜24
(註6)前掲註4 P858
(註7)名城秀時『武州丸遭難誌』(武州丸遺族会 1982) P20
(註8)前掲註4 P868
(註9)前掲註7 P20
(註10)前掲註4 P858
(註11)本田碩孝「井之川における空襲前後のくらし」『終戦五十周年記念 戦争体験記第二集』(徳之島郷土研究会 1995)所収) P73〜74、前掲註2 P16
(註12)防衛研究所図書館所蔵『大島防備隊戦時日誌 S19・6〜S19・10』
(註13)安達利英「潜水母艦「迅鯨・長鯨」戦時中の兵装変遷と作戦行動記録」(『帝国海軍真実の艦艇史2』(学習研究社 2005 所収) P182〜184
(註14)前掲註12
(註15)前掲註7 P17〜18
(註16)安藤福治『十四歳私の戦争 海軍輸送船相州丸』(私家版 1991) P57〜58
(註17)前掲註2 P25
(註18)前掲註2 P13
(註19)前掲註7 P13
(註20)前掲註16 P61
(註21)前掲註7 P14〜15
(註22)前掲註16 P62
(註23)前掲註2 P45〜46
(註24)前掲註2 P45
(註25)前掲註7 P14
(註26)勝元清「日記「激戦下の徳之島」」(『徳之島郷土研究会報 第6号』1973所収) P7
(註27)前掲註7 P21
(註28)祝通俊編『手々の来し方』(徳之島町立手々小学校 1993) P291
(註29)財団法人対馬丸記念会『対馬丸ガイドブック』(2005) P124〜125

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はじめまして。
今日子供の通う小学校で疎開船「武州丸」の話を聞く機会がありネットで検索したところこのブログにたどり着きました。
奄美の戦争の歴史に目を向けていただきありがとうございます
私自身戦争のことを学ぶことに興味があり、自分の子供たちにも「この島にも戦争があった事実」を教えていきたいと思っています
修学旅行で沖縄に行くためひめゆり部隊のことなど沖縄戦のことについてはたくさん学ぶ機会があるのに、自分たちが住む奄美(私は徳之島在住)の戦争のことと言ったらほとんど学ぶ機会もないんですよね
takahiroさんのブログを読む中で、自分の祖母や近所のおばあちゃんが教えてくれた話が史実に基づいていたことなんだな…とわかりました
近所のおばちゃんは当時陸軍病院に勤めて?いたようで、たまに朝鮮人の患者がいた。話している言葉がわからなくて怖かった、など聞かされていました
あとは現在の大島高校の生徒さんが通信兵などとして大和城の部隊に配属されていたことなど聞いています(このことは当時の生徒さん方の記録をまとめた本も読みました)
これからもブログ拝見させていただきます。 削除

2011/12/8(木) 午後 9:43 [ 島の子 ] 返信する

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