鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

沖縄戦は沖縄県だけの戦争ではありません。奄美諸島でも戦われていました。

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 年が明けた1945年1月22日、米機動部隊艦載機が南西諸島全域に来襲した。奄美諸島では奄美大島、徳之島、喜界島、沖永良部島に来襲し、飛行場や船舶を攻撃した。
 午前9時26分頃、名瀬港に来襲した3機は座礁している極洋丸・丹後丸及び停泊中の機帆船に爆弾6発を投下して機銃掃射を行った。この攻撃で機帆船の船長(軍属)が死亡した。さらに別の編隊は9時30分過ぎ、小湊沖(1隻)と伊須湾沖(2隻)の機帆船を銃爆撃した。
9時40分には焼内湾に停泊中の機帆船2隻が、続いて大島海峡西口を航行中の機帆船も爆撃を受けた。午前10時頃には皆津崎沖を航行中の海軍の機帆船「キク丸」(詳細不明。大島防備隊所属の第8喜久丸かも。)が爆撃を受けた。この攻撃でキク丸は海軍軍属2名が負傷した。(註1)
 午後に入っても船舶への攻撃は続き、午後4時頃、請島沖を航行中の機帆船2隻が爆撃を受け、2隻とも爆弾が命中し炎上沈没した。(註2)また喜界島では午前8時50分に来襲した米軍機の空襲で、機帆船1隻が大破して船員1名が行方不明となった。(註3)これらの船名は不明だが、おそらく海軍の船と思われる。
午後2時、徳之島の山港から機帆船「和泊丸」と長良治雄少尉の指揮する船舶工兵第26連隊第3中隊所属の大発2隻が沖永良部島に出港した。当初和泊丸は午前10時出発を予定していたが、徳之島が空襲を受けていたため出港できず、午後12時25分に空襲警報が解除されて出港が許可された。
 この時和泊丸には数日前に独立混成第64旅団司令部に打ち合わせのため徳之島に来ていた沖永良部島守備隊長の吉岡勝少佐(独立混成第21連隊第3大隊長)、沖永良部島に視察及び作戦指導に向かう旅団の高級部員中溝猛中佐、多田太吉主計大尉、作戦主任伯野淑一大尉等が乗船していた。(註4)
 また同船と大発は沖永良部島へ運ぶ大量の軍需物資を積んでいた。それらは小銃百、銃剣111、毛布381枚、階級章2813、粉味噌248キロ、梅1054キロ、食用油153キロ、缶詰144キロ、救急食1065キロ、タバコ5万7千6百本などであった。(註5)
 井之川沖を航行中の午後3時、大発は徳之島上空を飛行する米軍機を発見し、ただちに船首を海岸に向けた。だが午後3時5分、米軍機7機が銃撃を加えてきた。和泊丸は2回目の掃射で機関部に火災が発生、炎上したまま船体は井之川海岸に乗り上げて沈没した。銃撃で吉岡少佐と兵士4名、和泊丸の船員7名のうち1名が死亡し、中溝中佐は重傷を負って病院に収容され、多田大尉と船員2名が軽傷を負った。(註6)同行していた大発は備え付けの機関銃と小銃で応戦したが、2番艇は被弾により浸水し兵士1名が負傷した。2隻とも海岸に乗り上げたが沈没は免れた。(註7)
 これとほぼ同時刻の午後3時、徳之島の西海岸の秋利神川河口近くで別の大発2隻が米軍機4機の攻撃を受けていた。午後2時前に平土野を出港した加藤米造少尉の指揮する大発2隻である。
 午後2時35分、徳之島に黒煙が上がるのを目撃した2隻は空襲と判断し、陸に船首を向けた。だがその途中で攻撃を受け1番艇に積んでいたドラム缶に銃弾が命中、一面火の海となった。加藤少尉は艇員に離艇を命じ、自らは数名の兵士と共に残って旋回機銃と小銃で応戦した。だが、銃撃を受けて少尉をはじめ3名が戦死、生き残った1人が大発を海岸に着けた直後に船は沈没した。(註8)
 2番艇は小銃で応戦しつつ1番艇を救助しようとしたが、被弾による浸水が激しいため断念し、海岸になんとかたどり着いた。2番艇も火災を起したが直ちに消火した。後で調べるとなんと40発もの弾痕が残されていた。(註9)この攻撃で3名が死亡し5名が負傷した。
ちなみに井之川沖で攻撃を受けた大発の指揮官長良治雄少尉はかつて慶応大学の名2塁手として鳴らし、六大学野球のベストナイン打者のリーディングヒッターになったこともある。(註10)またなかなかの趣味人で座礁した井之川の海岸で詩吟を詠じていた。(註11)後日少尉は沖縄へ砲弾を輸送する刳舟挺身隊の第1陣の指揮官として戦死する。加藤隊の2番艇に連絡係りとして乗船していた大野一郎伍長も刳舟挺身隊に参加し生還している。(註12)
 和泊丸は26日に名瀬で徴兵検査を受ける沖永良部島の壮丁を検査に間に合うように、名瀬に運ぶ任務を帯びていた。さらに沖永良部島で積んでいる物資を下ろす時間を考慮すると、午後1時には出港する必要があり、出港の可否を午後12時30分頃までに判断する必要があった。(註13)大発4隻も沖永良部島と与論島から徳之島飛行場工事に徴用した住民を輸送する任務を負っていた。(註14)
 そこで奄美守備隊長である独立混成第64旅団長の高田利貞少将は、午後12時20分までに届いた電報から、空襲警報を解除してもよいと判断し和泊丸に出港を命じた。22日午後よりも翌日午前中のほうが空襲の危険が高く、また徳之島よりも沖永良部島のほうが危険が少ないと判断したのである。(註15)
 だがこの判断は結果的に甘かったと言わざるを得ない。もし空襲にあった場合の対応について、「機先ヲ制シテ撃墜スレバヨシ(中略)撃墜出来ズトモ攻撃精神、敢闘精神ヲ発揮シ射撃スルニ於テハ敵ハ近寄リ得ザルベシ」(註16)としている。これは日本軍特有の精神論であり、何の根拠もない。冷静な判断よりも一刻も早く出港させたいという気持ちが判断を狂わせたのではないだろうか。
 1月29日、沖永良部島和泊港で陸軍の暁3号艇が米軍機の攻撃を受けた。至近弾を受けて船尾が中破、梶が損傷して航行不能となった。この時隊員3名が負傷した。同船は陸軍の暁部隊所属の船で木造150トン、武装は重機関銃1のみ、乗員は全て陸軍兵士であった。(将校1、下士官4、兵30)沖縄への物資輸送のため前年12月に鹿児島県山川港を出港し、島伝いに南下している途中だった。(註17)
 攻撃を受けたのは1月29日とされるが、この日は沖永良部島に米艦載機の空襲はなかった。おそらく米軍機はフィリピンを基地とするB24(米陸軍の四発重爆撃機)などの陸上機の可能性が高い。逆に日付自体が22日の誤りの可能性もあるが、22日に沖永良部島が空襲を受けたという記録はない。ここでは一応29日としておく。
 翌月の2月18日午前9時頃、沖永良部島と与論島の中間付近で、木造船「開門丸」(80トン)がフィリピンから飛来したと思われるB24の銃爆撃を受けて沈没した。同船は徳之島飛行場の建設工事に徴用された与論島の住民を乗せて、徳之島に向かう途中だった。乗船していた住民の数には33人(註18)、34人(註19)、47人(註20)と諸説ありはっきししない。
 同船は夜間航海の予定がだったが、錨が引っかかったため昼の出港となってしまった。B24を発見した住民は、与論島に引き返すように船長(輸送指揮官とも言われる)に懇願したが、それは拒否され船はそのまま進んだという。(註21)
生存者の中田盛雄さんによると、超低空で飛来した米軍機の投下した爆弾は船尾に命中した。機銃掃射で引率の軍曹(輸送指揮官のことか?)は戦死し、住民の中にも目をやられたり、太ももを切断されるなど負傷者が出た。人々は慌てて船室に逃げ込んだが、米軍機は再度爆撃し、船体が真っ二つになって船は沈没した。(註22)
 乗員2名と伍長1人を含む生存者8人が開門丸の救命ボートに乗っているところを、沖永良部島の海軍見張所が発見し、サバニで引っ張って救助した。(註23)別の5人(4人とも)は沖縄の伊平屋島に漂着したところを救助された。(註24)犠牲者の数も諸説あり、26人(註25)とも34人(註26)とも言われる。
 開門丸は長い間事実関係が誤って伝えられてきた。8月7日午前4時頃、徳之島西方海上で徳之島から与論島へ帰る住民を運んでいる途中に沈んだとされたり(註27)、沈没日時が1月26日と言われていた。(註28)最近になり生存者や目撃者の証言が出て、初めて事実が明らかになっている。
 この日攻撃を受けた船は開門丸だけではなかった。午前11時、沖永良部島に双発機が来襲した。屋子母5浬で輸送船1隻が攻撃を受けて沈没、9名が救助された。別の1隻は余多海岸で攻撃を受けて船体は浅瀬に乗り上げたが、乗員は全員無事だった。(註29)開門丸と攻撃した機種は微妙に違うようだが、これもフィリピンから飛来した陸上機の攻撃だろう。陸上機は主に偵察を任務としていたが、時にはこのように攻撃してくることもあった。
 これとは別に1月4日午前7時30分頃に、海軍大島防備隊所属の機帆船2隻が攻撃を受けている。1隻は後部から煙を吐きながら知名港近くまでたどり着き、もう1隻は徳之島と沖永良部島の中間付近で炎上した。2隻とも乗員は脱出し、後者の船は船長以下6名が知名港に泳ぎ着いた。その後船は対空機銃をはじめとする装備を沖永良部島の海軍見張所で外して利用し、船体は沖合いに沈められた。(註30)
 この出来事は1月4日のこととされるが、他の資料にはこの空襲は記録されていない。一番近いのは1月22日の空襲だが、先述のように沖永良部島は空襲を受けていない。攻撃の状況を見ると1隻の沈んだ場所が異なるが、2月18日の攻撃と状況はよく似ている。著者で当時沖永良部島海軍特設見張所長の山口政秀少尉が島に着任したのが、前年の11月15日であるから、これがそれ以降であることは間違いない。断定は出来ないが両者は同じ出来事である可能性がある。

(註1)防衛研究所図書館所蔵『第一船舶輸送司令部平賀部隊大藪隊戦闘詳報 S20・1・22』
(註2)前掲註1
(註3)防衛研究所図書館所蔵『独立混成第六十四旅団空襲戦闘詳報 S20・1・22』
(註4)富田一夫『孤島燃ゆる』(徳之島戦史刊行会 1982) P82
(註5)前掲註 3
(註6)前掲註3、前掲註4 P82
(註7)防衛研究所図書館所蔵『船舶工兵第二十六聯隊第三中隊戦闘詳報 S20・1・22』
(註8)前掲註8
(註9)前掲註8
(註10)高田利貞『運命の島々 あま美と沖縄』(京都報徳会 1956) P197〜199
(註11)岐阜県大野郡久々野町幾山河編纂委員会『幾山河』(同会 1987) P228
(註12)篠崎達男「沖縄への弾薬輸送隊」(『しまがたれ 第5号』(しまがたれ同好会 1998)所収)
(註13)前掲註3
(註14)前掲註7
(註15)前掲註3
(註16)前掲註3
(註17)三重県立津中学校昭和十三年度卒業陳川申酉会『戦争の時代と私 遥かなり戦後五十年』(同会 1995) P152
(註18)前掲註10 P172
(註19)与論町遺族会『鎮魂』(同会 1996) P101
(註20)『戦後五十年 わたしの戦争体験記』(与論町教育委員会 1995) P19
(註21)前掲註20 P21、前掲註19 P102
(註22)前掲註20 P21〜22
(註23)前掲註20 P23
(註24)前掲註20 P24
(註25)前掲註10 P172、勝元清「日記「激戦下の徳之島」」(『徳之島郷土研究会報 第6号』(徳之島郷土研究会 1973)所収) P13
(註26)大内森業『ゆんぬ』(星雲社 1982) P150
(註27)天城町役場編『天城町誌』(天城町役場 1978) P863、前掲註10 P172(ただし後者は沈没日時は記載なし)
(註28)前掲註25の後者 P13
(註29)町誌編纂委員会編『知名町誌』(知名町役場 1982) P412
(註30)山口政秀『沖永良部島 海軍特設見張所』(南京都学園 1999) P105〜107

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