鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

沖縄戦は沖縄県だけの戦争ではありません。奄美諸島でも戦われていました。

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中溝日誌を読む(1)

太平洋戦争末期の1944年3月15日、南西諸島の防衛を担当する第32軍が編成された。その指揮下の部隊として、7月12日に独立混成第64旅団(以下、独混64旅団と略す。)が編成され、奄美諸島一帯の防衛を担当した。(註1)独混64旅団は司令部を徳之島に置き、徳之島の他に奄美大島、喜界島、沖永良部島、与論島に守備隊を派遣した。
 敗戦と同時に日本軍は戦争中の資料をほとんど焼却してしまった。独混64旅団も同様のため、当時の陣中日誌等はほとんど残されていない。僅かに東京都恵比寿の防衛研究所図書館に、戦後米軍から返還された空襲時の戦闘詳報等が所蔵されているだけである。
 ただ一点だけ独混64旅団の沖縄戦中の行動の概要を知る資料が防衛研究所図書館に残されている。本稿で取り上げる『独立混成第64旅団高級部員中佐 中溝猛氏日誌』(以下、中溝日誌と略す。)である。
中溝猛中佐は当時独混64旅団の高級部員、いわば参謀長の任に当っており、旅団長の高田利貞少将を補佐していた。中溝日誌は中溝中佐が日録的に記したもので、1945年3月6日から8月12日までの分が残存している。だが防衛研究所図書館にある中溝日誌は原本のコピーである。しかもその原本は中溝中佐が戦争中に記したものではない。
その理由は
  1、3月6日の部分が日付を書かずに途中から始まっている。
  2、3月6日の部分の前に高田利貞少将の経歴及び戦後の近況が追加されている。
  3、4月8日の一部分が一度書いた後、×印で消されている。
  4、5月19日の沖縄戦の戦訓の部分を別の紙に書いて、上から貼り付けている。
 以上から中溝日誌は戦争中に書かれた原本そのものではないことが分かる。おそらくその成立は中溝中佐が戦争中書き留めていた物を敗戦後持ち帰り、現在の原本として整理して書き写したと考えられる。
 とはいえ、中溝日誌の重要性は全く変わらない。奄美諸島守備の独混64旅団の唯一の、陣中日誌的な資料であるだけでなく、中溝日誌を書いた中溝中佐が独混64旅団の作戦指揮の中枢にいたことが、この資料の価値をさらに高めている。
 ここでは中溝日誌を中心にそれを補う形で他の史料を使いつつ、3月6日から8月12日までの独混64旅団の動きを述べていくことにする。(以下、特に註のない場合の出典は中溝日誌からとする。)
 中溝日誌は3月6日から始まる。誰にどういう場で注意したのかは不明だが、「予防、防諜、(二字不明)、秘匿壕ノ件」について、おそらく中溝中佐が注意している。防諜とはスパイ活動等によって軍の秘密が漏れるのを防ぐことである。断片的ではあるが、防諜に注意が向けられていたのは確かである。また通信担当の古梶実夫中尉が首里から帰還している。沖縄本島の首里にある第32軍司令部に行っていたのだろう。
独混64旅団は大和城山(標高249メートル)の山頂に「直撃の十トン爆弾に堪えるだけの厚さを頂上に残して円筒を建てたような洞窟を造り、四方に展望孔をつけた」(註1)戦闘指令所を構築した。旅団長や司令部要員の宿舎、通信部隊の施設や兵舎等は戦闘指令所から東側に下った山麓一帯に設けられた。(註2)
 指揮下の独立混成第22連隊(以下、独混22連隊と略す。長 鬼塚義淳大佐)は当部に司令部を置き、第1大隊(長 橋爪捨雄少佐)を島の南東部の守備に、第2大隊(長 荒二井芳衛少佐)を島の南西部の守備に当たらせた。独立混成第21連隊(以下、独混21連隊と略す。長 井上二一大佐)は旅団司令部近くに司令部を置き、第1大隊(長 鈴木秀雄少佐)を島の北西部の守備に、第2大隊(長 山本八郎次少佐)を島の北東部の守備に当たらせた。(註3)
 両連隊の東西の守備範囲の境界線が、凡そ花徳と平土野を結ぶ伊仙亀津徳之島空港線の一部になる。そのほぼ中間に天勝屋(てんかつや)という場所があった。高田少将は自ら筆を執ってここを「天下茶屋」と命名して標柱を立て、各部隊の連絡地点とした。そして標柱を中心に各部隊の駐屯地へ通じる山道を設けた。(註4)旅団司令部は天下茶屋の南にあたる。この天下茶屋の連絡所が落成したのが7日である。
 8日午前10時からは、「奄美守備隊歌賞品授与式ノ発表会並普及」が行われた。奄美守備隊の歌は高田少将自らが大和南八という名前で兵士の士気を鼓舞するために作詞し、それに召集されて旅団本部に配属されていた武田恵喜秀さん(鹿児島師範学校の助教授だった)が曲を付けたものである。(註5)
 第501特設警備工兵隊(長 龍造寺芳信少佐)に召集された寿富一郎さんは、他の約20名と一緒に歌の指導を受けた。この20名がそれぞれの隊に帰って伝達したので、この歌は軍民の間でよく歌われるようになったという。(註6)賞品授与とあるので作曲者の武田さんは、この席で表彰されたのだろうか。
 実は奄美守備隊の歌はもう1つ存在する。独混21連隊の鈴木大隊第6中隊(中隊長 由良正則大尉)の豊島唯さんが作詞したものである。(註7)先ほどのものとは歌詞が全く異なっている。前者が奄美守備隊全体の歌なのに対して、こちらは中隊もしくは大隊内くらいで歌われたものかもしれない。
 9日には午前9時から第2回目の通信会同が行われた。その後中溝中佐は昼食に玄米食を食べて冷酒を飲んだ。一般の兵士が酒を飲めるのは何かの記念日等に限られるが、高級部員ともなると昼間から飲めたようだ。
 この日の午後、海上挺身第30戦隊長の富田稔少佐が中溝中佐の元を訪れた。海上挺身隊とは特攻艇を装備する部隊である。同隊はカタ604船団の1隻「大信丸」に乗船して宮古島へ向かう途中、奄美大島で米艦載機の大空襲を受けた。この攻撃で大信丸は沈没し、部隊は戦死16名を出した。富田少佐等は沖縄本島の第32軍司令部に連絡に行くため、古仁屋を経て3月10日に徳之島に到着した。そこで旧知の中溝中佐と会い、中佐は飛行場に着陸する飛行機で沖縄に行けるように手配してくれている。(註8)

(註1)高田利貞『運命の島々 あま美と沖縄』(京都報徳会 1956) 65頁
(註2)特設防衛通信隊記念誌新版下編集委員会『記録のない過去 特設防衛通信隊記念誌』(同記念誌頒布委員会 2000) 39〜40頁
(註3)天城町役場『天城町誌』(天城町 1978) 860頁
(註4)前掲註3 860頁
(註5)『徳之島郷土研究会会報 第20号』(徳之島郷土研究会 1994) 9頁
(註6)前掲註5 9頁
(註7)前掲註1 76〜78頁
(註8)菅原寛『陸軍最後の特攻艇○レ』(私家版 1988) P98、102〜104、212〜213

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