鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

沖縄戦は沖縄県だけの戦争ではありません。奄美諸島でも戦われていました。

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集まったのは原田隊第2小隊長の長良治雄少尉(中尉とする資料もある。)を長として、原田隊から選ばれた下士官・兵に地元出身兵を加えた17名、それに他の陸上部隊から選ばれた40数名を合わせた60数名であった。(註1)
 刳舟挺進隊は敗戦までに3隊が編成された。第一挺進隊の指揮官には先述の長良治雄少尉が、第二挺進隊の指揮官には斉藤邦夫軍曹がそれぞれ選ばれた。(註2)その後第三挺進隊(高橋挺身隊)も編成された。(註3)
 挺身隊は米軍の艦隊はもちろん航空機が厳重な警戒をしている海上を突破して、沖縄へ弾薬を輸送しようというのだから、危険このうえない任務である。そのため隊員選定に当たっては「妻子なき者、一人息子や長男でなき者、性格適当な者という風に選抜」(註4)したという。これはまさに特攻隊員の選抜基準である。刳舟挺進隊はその任務の困難さにおいて特攻隊と同一視されていたのである。
 集まった隊員は昼間は休養を取り、専ら夜間に刳舟の漕法訓練と編隊訓練を行った。(註5)富島さんも夕方から舟漕ぎと舟をひっくり返して起す練習が続いたと回想している。(註6)練習として徳之島を一周したともいう。(註7)隊員の待遇は良く、「毎日白米に生鮮食料で鶏肉スープは欠かさず、煙草も1日1個支給され、山中の陣地での高級将校待遇であった」(註8)という。
これは生還の確立の低い任務であることと、刳舟を漕ぐ体力を付けるための措置であろう。
 挺身隊の各艇には沖縄へ輸送する防水梱包の特殊弾薬(実際は砲弾)20発が積み込まれた。隊員は古い絣の着物を着て藁縄の腰帯を締め、藁草履を履いて島民の姿に変装した。所持品は自殺用の手榴弾1発と短剣、食糧として焼米と乾燥味噌、各自に1個の水筒だけだった(註9)米軍の目を欺くため漁民に扮したのである。沖縄に直接行くのではなく、徳之島から沖永良部島を経由して与論島までは大発に曳航されて、与論島から刳舟のみで沖縄を目指すのである。(註10)
 軍では挺身隊のために古仁屋で刳舟数隻を徴発した。(註11)漁師に変装するための芭蕉着物は、平土野の宮田光雄二等兵、花徳の直島直治村長などが苦労して集めた。(註12)また憲兵隊にも旅団から刳舟と着物を集めるように密名が下り、刳舟の練習をするという名目で集めたという。(註13)憲兵隊が関係しているのは、挺身隊の任務が極秘任務だったことを示している。事実山小学校周辺では私服の憲兵が警戒にあたっていた。(註14)

(註1)徳之島郷土研究会編『徳之島における戦争体験記』(同会 1993) 7頁
(註2)野村正起『沖縄戦遺族の声』(叢文社 2002) 99頁
(註3)防衛研究所図書館所蔵『奄美地区独立混成第64旅団高級部員中溝猛氏日誌』
(註4)高田利貞『運命の島々 あま美と沖縄』(京都報徳会 1956) 196頁
(註5)奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第5号』(同会 1998) 4頁
(註6)奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第4号』(同会 1997) 56頁
(註7)奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第7号』(同会 1999) 18
 頁
(註8)前掲註6 55頁
(註9)前掲註5 4頁
(註10)前掲註1 7〜8頁
(註11)『ルリカケス 第18号』(奄美瑠璃懸巣会)(同会 1996) 63頁、前掲
註6 56頁
(註12)天城町役場『天城町誌』(天城町 1978) 871頁
(註13)塩田甚志『生と死の岐路−沖縄戦終焉時のドキュメンタリー』(誠広出版 19
92) 93頁
(註14)前掲註6 56頁

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