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崇徳上皇白峯御陵

崇徳上皇白峯御陵
住 所:香川県坂出市青海町
マピオンマップ↓↓↓↓↓
 
 長寛二年(1164)8月26日、46歳で崩御された崇徳上皇は,遺体を八十場の泉に浸さた後、9月16日に白峰山で荼毘に付され、その場に葬られました。お墓である御陵は、積み石の方墳であったといわれています。
 都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒廃していたといわれています。
 初代高松藩主松平頼重(よりしげ)、五代頼恭(よりたか)、十一代頼聡(よりとし)らにより、修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど、今日みられるように整備されました。
崇徳上皇ゆかりの地↓↓↓↓↓

白峰寺よりの参拝ルート
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中平善之進像

 中平善之進像 高知県高岡郡津野町高野
 中平善之進は穏敦(やすあつ)、幼名を鴨之助という。宝永六年(1709)北川庄屋上岡左衛門次正の長男として生まれる。
 幼にして利発、享保八年(1723)六月、十五歳にして北川大庄屋代勤を聞届けられた。元文三年(1738)郡方の勧めで梼原村大庄屋中平弥左衛門の養子となった。藩においては財政建直しのため宝暦二年(1752)国産方役所をおき、国産品を指定し問屋を定めてその利益を吸収する制度をとった。
 津野山方面の御用商人は蔵屋利左衛門で、彼はその専売権を利用して買いたたいたので農民は窮乏して来た。善之進は数度津野山九ヶ村の庄屋を招集して協議し藩庁に対策を訴えた。
 藩はこれを握りつぶして何ら対策を立てないのみか、その願いを不当として弾圧をさえ加えかねない有様で、
農民等は怒って「蔵屋を殺そう」と騒ぎ始めた。善之進はそれを押し鎮め、自ら藩庁に出頭しこの窮状を訴えようとしたが、芳生野村村庄屋が藩庁に密告したので、足軽一隊が派遣され主だった者を召し捕り入牢せしめた。時に宝暦五年(1755)これを「津野山騒動」と呼んでいる。
 善之進は牢獄にあって蔵屋の非を叫び続けたが、蔵屋の死にあい黒白(こくびゃく)をつける術(すべ)を失い、
宝暦七年(1757)七月二十六日神在居において打首の刑に処せられた。
 この時突如暴風雨となり荒れに荒れたので、これを世に「善之進時化(しけ)」と呼んで善之進の怒霊のなせる業(わざ)として恐れられた。
 その後藩庁では国産方を廃止しる処置をとったが、それ以上に彼の義に倒れた精神は郷土に生きて明治維新の志士を輩出し、回天の事業をなしとげたのである。
 善之進ときに四十九歳であった。 中平善之進銅像建立期成同盟会 説明板より転載しました。
 銅像原型 濱田浩造
 道を挟んで向かいには「風神鎮塚」がある。隣には茶堂 道にしたには高野の舞台もある。
 写真は2013年10月2日撮影
 場所はスポットノート『銅像や記念碑等のmap』に投稿します。
 
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維新の門群像

 維新の門群像 高知県高岡郡梼原町
 近代日本の魁となった土佐勤王党の志士の偉業は、筆舌に尽くし難く、誠に偉大なものであります。
 維新の里といわれる檮原からも。吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の六志士を輩出し、又、維新回転の立役者である坂本龍馬も風雲急を告げる中盟友澤村村惣之丞と共に当地の那須邸に投宿し、酒を酌み交わしながら時局を談じた後、那須父子の案内で韮ヶ峠を経て土佐を脱藩し、維新回転の奔流に身を投じました。
 これに前後して、土佐勤王党の数多くの志士たちも、宮野々関門を経て九十九曲峠を越え、激しい時代のうねりの中に次々と散華してゆきました。
 封建社会から近代社会への黎明を告げた彼ら明治維新の志士たちの偉大な功績のの顕彰と。過疎、高齢化社会の現代にあって、農村村は今や崩壊の危機に瀕しており、このような中で次代を担若者たちに、この伝統と誇りを持ち、更なる地域の発展を願って、平成四年八月三日、維新の門群像建立委員会を組織し、八志士の群像の建立地を、日本最後の清流四万十川源流、梼原川の高台であり、志士たちの旅立ちの地でもある、此所和田城址と定め、募金活動を進めてまいりました。
 そして、この趣旨に御賛同賜り貴重な浄財を御寄せいただきました全国各地の皆様方の熱い思いは、寄付金総額1億373万4814円となりました。
 又、群像製作を担当されました浜田浩造先生には、緻密な時代考証と優れた芸術性をもって渾身の情熱を注がれ、昼夜を分たぬ御努力の中で、立派に完成いただきました。その間、顧問並びに委員の方々には、その豊富な見識により貴重な御助言を賜りまして、平成七年十一月十一日、待望の除幕を迎えることができましたことに対して、深甚の感謝を申し上げます。
 ここに、御寄附いただきました皆様方の御芳名を記し、衷心よりのお礼と致します。
 最後に、この維新の門の建立を契機として、檮原町と全国の皆様との新しい交流が広がることを切に願うもの
であります。
 平成八年三月二十四日  維新の門群像建立委員会 現地説明板より転載しました。
 写真は2013年10月2日撮影
 場所はスポットノート『銅像や記念碑map』に投稿します。
 
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義経騎馬像

義経騎馬像 徳島県小松島市旗山田野と芝生の境
 旗山は当時の小島の山頂(標高20m)へ源氏の白旗を立て軍陣の標記としたことから、旗山と呼ばれています。山頂に6.7mの日本一の高さを誇る義経騎馬像立っている。
義経阿讃を征く
 新しい世の光をうけ、1185年天の時来る。嵐のなか、摂津渡辺の津(大阪市堂島)から海路二十五里、義経軍勢、中ノ湊の多奈に上陸、軍船勢合に集ふ。芝生旗山に清淨と、正々の白旗ひるがへる。
 渚にひかへし新居見城主近藤六親家、義経「ここは何処ぞ」親家「勝浦に候」と応へ天神山の手勢を率るて先陣を承る。堂々の陣、田口良達の熊山城を撃破して、北山の東海寺から、あつり越へして国府に至る。白鷺に導かれて 佳吉の吉野川を渡河し、金泉寺から阿讃の国境、松明を焚いて越ゆ。
 東讃引田の要津、馬宿の海蔵院に仮宿白鳥から朝霧ふかき田面峠、粛々と二隊に分かれる。
 熊野別当湛増率ゐる。水軍播磨灘に入る。志度 古高松 相引川 源氏が丘に 戦機熟せり 白旗と赤旗入り交ふ天下分け目の屋島合戦 三日にして 平家宗盛政権の本陣落城
旗山八幡神社参道入り口脇に石の説明板より転載しました。
文は、現地説明石板&小松島市HPなどより転載しました。
写真は、2013年6月25日撮影
場所はスポットノート『源氏・平家map/銅像や記念碑map』に投稿します。
 
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天馬石
名馬磨墨と宇治川先陣争いをした名馬池月が石に化したといい、また馬が天からおりて化石になったという天馬石は、旗山の東北角にあって、馬の形をしており、この石を踏むと腹痛を起こすという。
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飛翔の像

 飛翔の像
 新しい時代の予感が28歳の龍馬の心をとらえた。脱藩という大罪を犯して、大望のため土佐を捨て、河辺村榎ヶ峠(現愛媛県大洲市河辺町)に至ったのは、文久二年三月二十六日。近代日本の誕生に命を賭けた龍馬の旅は、ここ河辺村から始まった。この坂本竜馬脱藩の道は、平成八年十一月一日に文化庁の「歴史の道百選」に選定された。
 私たち河辺村民は、この道を文化遺産として大切に保存することを誓い、ここに龍馬、惣之丞、俊平の顕彰碑「飛翔の像」を建立する。
平成十年三月吉日 河辺村村長 大野 富士男
 沢村惣之丞 (1843〜1868)左
 土佐郡潮江村(潮江村・現高知県高知市)の地下浪人の家に生れる。
 文久二年(1862)龍馬に先立ち土佐を脱藩した。三月十六日に下関の白石正一郎宅で吉村虎太郎、久坂玄瑞らと画策後、危険を冒して土佐に帰り、三月二十四日、龍馬を伴って再度脱藩した。名を関雄之助と改め、土佐海援隊では龍馬の片腕となって活躍したが、長崎で薩摩藩士を誤殺、その責を負うて自刃した。二十六歳
 龍馬脱藩の道は、惣之丞の口述を記録した文書に基づいている。
 坂本龍馬 (1835〜1867)中央
 高知城下の郷士の家に生まれる。
 文久二年(1862)三月二十四日同志の沢村惣之丞とともに土佐を脱藩した。翌日檮原村の那須俊平、信吾父子の家に宿泊し、三月二十六日俊平の道案内で予・土国境を越え、榎ヶ峠から河辺村に入る。泉ヶ峠で一泊したあと、宿間村(現愛媛県内子町五十崎)で俊平と分かれ、長浜から下関に向かった。
 その後、新しい日本をつくるために奔走したが、京都近江屋で中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、維新を見ることなく闘死した。三十三歳
 那須俊平 (1807〜1864)右
 高岡郡檮原村(現高知県高岡郡檮原町)の郷士。
 文久二年(1862)三月二十五日、土佐を脱藩した坂本龍馬と沢村惣之丞が那須家に宿泊した。翌日、那須俊平・信吾父子が道案内をして檮原を立ち、予・土国境で信吾は引き返したが、俊平は伊予路に入り、河辺村を通って宿間村(現愛媛県内子町五十崎)まで龍馬らを案内した。
 その後、自らも脱藩して京都に上り、長州の忠勇隊に入って活躍したが、禁門の変で討たれた。五十八歳
 以上の文は顕彰碑の陶板より転載しました。
 写真は2013年7月3日撮影
 場所はスポットノート『銅像や石の建造物map』に投稿します。
 近隣施設:浪漫八橋・龍馬脱藩の道・河部ふるさと村・交流館才谷屋・三杯谷の滝
 
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