日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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             愛知時計電機AB-1(上)  三菱内燃機MC-1(中)  中島N-36(下) 
 逓信省航空局(大日本帝国時代は陸軍より逓信省の管轄になっていた.現在は国土交通省航空局となっている)が,1925年に募集した輸送機の懸賞設計で三木鉄夫技師の名前で水上輸送機として一等賞を獲得した旅客機に6万余円の試作奨励金を補助して,愛知時計電機が製作して1928年3月に完成した.
 また航空局が提唱していた国策の航空会社を設立後に運航する機材を開発するために,旅客と貨物を輸送する飛行機として純国産とする方針で,三菱内燃機,中島飛行機製作所の2社にも中型輸送機の試作を1927年に依頼し,先に航空局から各企業に6万円の試作奨励金を補助し,1927年8月より製作に着手していた.こうして輸送機の試作は,愛知時計電機,三菱内燃機製造,中島飛行機製作所の3社が各1機を製作し,それぞれ特色を持った旅客機が試作され,1928(昭和3)年4,5月に残りの2機が完成した.
 愛知時計電機はドイツのハインケル社より導入した独特の木製機製作技術により愛知AB-1,三菱内燃機製造は英国人スミス技師が設計した海軍の13式艦上攻撃機の主翼と尾翼を利用した木製骨組みの三菱MC-1,中島飛行機製作所はフランスのブレゲー28輸送機を基本とした金属製骨組みの中島N-36を試作した.
 3社の試作機に対する審査結果は,それぞれの特徴がある構造と性能が評価されたが,まだ実用性に問題があるという結論で,国産機の実用には時期尚早ということになった.
 そのため1929(昭和4)年より運航を始めた日本航空輸送株式会社では,米国からフォカー式スーパーユニバーサル旅客機を輸入し,のちに中島飛行機が国産化することになった.
 愛知AB-1は貨物輸送を主としたものだが,貨物450kgに旅客2人,乗員2人が乗るものとなっていた.試作機は3機ともに水陸交替機(水上機と浮舟と陸上機の車輪を交換して使用可能)で6時間の航続力,平均時速150kmの仕様のもとに製作されていた.中島機は群馬県太田町の尾島飛行場で,三菱機は各務ケ原飛行場,愛知時計機は伊勢湾で航空官立会いで試験飛行が行なわれた.
 試作された愛知AB-1輸送機(愛知ローレン水冷式W型12気筒450馬力を装備)は,1929(昭和4)年に日本航空輸送でフォッカーの到着に先立って陸上機として短期間使用された.その後で相羽有の経営する東京航空輸送社の羽田〜下田間の定期ローカル線に水上機として使われた.
 三菱MC-1旅客機(三菱アームストロング・シドレー・ジャガー空冷式複列星形14気筒385馬力)は,1928年6月から1929年4月まで朝日新聞社東西定期航空会の定期航空輸送に試用され,さらに6月から1930年5月まで日本航空輸送株式会.社の福岡〜蔚山間の定期航空輸送に投入された.また1931(昭和6)年8月以降1938年ごろまで兵庫県城崎の日本海航空会社の1号機として,双浮舟付きの水上機タイプが使用された.
 中島N-36試作1号機(中島ジュピター6型空冷星形9気筒420馬力)のJ-BAKBは,1928(昭和3)年5月に,また2号機のJ-BAYOは1929年4月に完成したが,1号機は1928年5月3日に尾島飛行場で初飛行を終えて,翌4日に引き続き加藤寛一郎飛行士の操縦により,全席満員の状態で試験するため,工員7人を同乗させて離陸し,高度約100mに達したころ,突如真っ逆さまに墜落して爆発し,全員が死亡する大事故を起こした.このため2号機は各部を改造して,1929年5月以来,日本航空輸送会社の実験機として立川飛行場と初期の羽田飛行場を中心にした,おもに貨物輸送と乗員の飛行訓練に使用された.

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