白戸式旭号飛行機
奈良原飛行団では奈良原三次に代わって白戸飛行士が稲毛海岸で,飛行機の製作と練習生の飛行訓練を担当することになった.続いて練習生の伊藤音次郎が飛行士として自立し,白戸/伊藤飛行場の時代が始まっていた.
飛行機によるデモ興行飛行会をプロモートしようと考えた鳥飼繁三郎は園田武彦から,航空機用グリーン・エンジン(グリーン水冷式倒立直列型4気筒40馬力)を買い取った.このエンジンは,園田武彦が英国に留学したときに手に入れたものである.
鳥飼さんはこのエンジンを利用して,奈良原飛行団の白戸栄之助飛行士と共同で試作したのが白戸式日本号である.ところが日本号は信州飯田町で1915(大正4)年に開いた飛行会において,離陸滑走を繰り返したが,飛行することなく,破損してしまった.日本号が飛べなかった原因は,海抜500m以上の高地では空気の密度が低いために,エンジンの出力が低下したためである.さらに翼面積も不足していることがわかった.そこで発動機を再整備して,主翼の両端を延ばすなどの改造を加えて,再び地方の巡業飛行に出直すことになった.この飛行機は白戸式旭号(全幅11m×全長7.2m,自重320kg)と呼び,山形,盛岡,弘前,北海道の室蘭と順調に有料巡業飛行を続けることができた.
飛行練習の教官となった白戸栄之助は,1916(大正5)年12月中ごろにそれまで奈良原飛行団が本拠としていた稲毛海岸を離れて,千葉町(現在の千葉市)寒川新宿の海岸(現在コミュニティセンター近くの国道16号線の山側)に移転し,白戸飛行機練習所を開設した.
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