川西機械製作所のK-12:桜号太平洋横断長距離機
帝国飛行協会の提案によって,国産機による太平洋横断飛行が1927(昭和2)年8月に計画された.陸海軍,東京帝国大学,中央気象台,帝国飛行協会の専門委員により協議して,飛行機は川西機械製作所の関口英二技師が設計して製作することになった.搭乗員は,日本航空(川西機械系)の後藤勇吉,海江田信武,藤本照男,諏訪宇一の4人が選ばれた.
横断機の設計は1927年10月より開始され,基本構造は計画だけで中止になったK-9旅客機をもと(軽金属/木製骨組み,合板羽布張り)にスタートし,航続距離を伸ばすために,胴体の重心付近に5000Lの燃料タンクを設置した.製作作業は順調に進み試作1号機(川崎BMW6水冷式V型12気筒500馬力)は1928(昭和3)年6月に完成し,各務ヶ原で試験飛行を行なった.しかし横断機の性能判断については,航空局と主催者さらに製造者との間に対立が発生し,暗礁に乗りあげてしまった.
試作2号機は1928(昭和3)年8月に完成したが,機体構造と性能検査の結果,燃料を満載した状態に対して機体の強度不足,性能不足,発動機の耐久性不足などを航空局が曲技飛行レベルの規格で評価したため,製造メーカーとの考え方が対立したまま,1928(昭和3)年11月に太平洋横断飛行の計画は,いったん中止して計画を見直すことになった.これは横断飛行を肯定する海軍と否定する陸軍の対立が表面化する形になった.
設計時の航続距離は5500km(全備重量5500kg),航空局の制限規定によらない場合の推定航続距離は全備重量5.5トンの時7250km,全備5トンで6220kmとなる.
一方で,長距離飛行訓練中に後藤勇吉操縦士が墜落事故死,K-12桜号の事故による破損,さらには寄付金募集の成績不良などによって,太平洋横断飛行は中止することになった.
川西機械製作所では,桜号は航続時間を5時間程度の旅客機に改造して使用する代替案もあったが,問題が多くて実現せず,機体は事故破損のままに廃棄されてしまった.これで川西機械製作所飛行機部における民間機の製造は,桜号を最後に撤退する事態になってしまった.
|
mokoさん所から飛んで参りました!!!こんなところがあったなんて・・・じっくり見させてください!!!
2005/4/20(水) 午後 10:12
ロック岩崎さんが練習中に,事故で亡くなった.信じられない,信じたくない.....
2005/4/21(木) 午後 10:03