日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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荻田常三郎はフランス帰りの飛行士

 荻田常三郎{滋賀県愛知郡八木荘村(現在の秦荘町)出身}は陸軍を満期除隊後に,フランスへ渡り飛行機の操縦技術を習得した.飛行士としてフランスより1914(大正3)年5月に帰国し,モラヌ・ソルニエ単葉機を持ち返り「煎風」(ル・ローンC空冷式回転星型7気筒80馬力:全幅9.3m×全長6.58m,主翼面積14.5m2,自重330kg)と命名した.翌6月に帝国飛行協会の主催で行なわれた第1回民間飛行競技大会(兵庫県鳴尾競馬場)に参加し,飛行高度で2O03mを記録し優勝した(坂本寿一,高左右隆之,海野幾之介,荻田常三郎,磯部鉄吉らの5機が参加).
 さらに荻田常三郎は郷土への訪問飛行を企画し,八日市町の沖野が原を仮飛行場として利用し,荻田と助手の乗った「煎風」は1914年10月22日に沖野が原から離陸し,八日市町より中野村周辺を一周し,荻田の故郷八木荘村を上空から訪れ沖野が原に戻ったが,狭いせまい会場に集まった多数の観客を避けるために,着陸して逆立ち状態になり機体は大破した.荻野や観客にケガはなかったが,午後の飛行は中止された.この飛行は飛行高度が700m,飛行時間は12分45秒だった.
 荻田飛行士は機体を修理しつぎの飛行は京都の深草練兵場で1915(大正4)年1月3日に行なわれた.しかし飛行機の離陸直後にエンジンが不調になり,近くの兵器廠内に墜落して炎上し,搭乗していた荻田飛行士,大橋繁治助手は共に即死してしまった.

町民による民間飛行場

 一方八日市町では地元の飛行家・荻田常三郎の提案で町が飛行学校の開校を計画し,名称を「滋賀県八日市飛行場既成同盟」と決め,総事業費(3万円)の大半を篤志により,1915(大正4)年4月19日より八日市町の飛行場造成工事に着手し,6月末には4万3000坪(約14ha=0.1419平方km)の飛行場が完成した.八日市町は琵琶湖の東部に広がる湖東平野に位置し,沖野が原という広大な野原があった.内陸部にあっても「湖陸風」という琵琶湖周辺独特の強い風が吹く場所である.これが日本初の内陸部に整備された民間飛行場となった.同時に飛行場(修交館・後に公会堂となった)には「煎風飛行学校」が創設された.八日市飛行場の完成によって,チャールス・ナイルス,アート・スミス,フランク・チャンピオンなどの外国人飛行家が八日市町を訪れて,曲技飛行を披露する飛行会が開かれた.
 また一方で「煎風」単葉機の予備部品を使って「第2煎風」が製作され,この飛行機は1916(大正5)年1月に来日中の米人チャールス・ナイルス飛行士の操縦で,高度3050mの日本記録を残した.その後1917(大正6)年10月に米人フランク・チャンピオン飛行士(女性飛行士キャサリン・スチンソンの機関士として来日し,スチンソン嬢の帰国後は,自分の操縦で飛行興行を続けた)の操縦で,高知市外上空で曲技飛行中に空中分解して墜落し,チャンピオン飛行士は死亡した.

中国・辛亥革命軍の飛行学校

 八日市町の民間飛行場は完成したが,教官に予定した荻田の死去で頓挫していた飛行学校は,米国帰りの坂本寿一を教官として開校することになった.1916年になると沖野が原には大凧に代わって飛行機が旋回するようになっていた.梅屋庄吉(1868〜1934:「日活」の前身となる日本活動写真株式会社を創立)の支援で設置された中華革命党の飛行学校の教官となった坂本寿一の複葉機である.中華民国の革命家である孫文の依頼で中国の青年義勇飛行士の養成訓練を行なうことになったのである.
 孫文は飛行機を利用した戦いを想定し,中華革命軍に航空隊を創設しようと米国華僑の飛行士だった譚(たん)根を司令長官に1915年3月に任命していたが,計画は暗礁に乗り上げていた.
梅屋庄吉には頭山満から飛行士・坂本寿一を紹介されて,孫文に仲介することになったのだろう.孫文は帰国直前になってようやく坂本寿一に正式に飛行隊の創設を1916年4月25日に依頼し,梅屋庄吉は飛行学校運営の支援を担当した.
 教官・坂本寿一の飛行学校は1916年5月4日に開校し,飛行練習が始まった.練習生は40人でほとんどが中国人留学生で,近くの宮川楼旅館に泊まり込み,昼間は飛行訓練,夜は学科の講義を受ける猛訓練を重ねていたが,中国の政情が急変した.
 袁世凱大総統の急死により,坂本教官は飛行訓練を中途で打ち切り中国に渡ることを決めて,6月28日に愛機を積込み5人の留学生とともに神戸を出発し,7月2日に東北軍の拠点である青島に到着し,さらに前線基地に進出した.
 飛行隊はまず戦場で威嚇飛行を行ない,「速やかに降伏せよ」という内容のビラをまいた.当時,中国人が飛行機を見るのは初めてで,「天仙来」(天の仙人来る)と騒ぎになった.もちろん爆弾攻撃も行なったが,まだ飛行機から落下する爆弾はなく,たばこの空き缶に火薬を詰めた手製の爆弾を作り,片手で操縦桿を握りながら火をつけて投下し,爆発音によって敵軍を混乱に陥れた.
 しかし北洋軍閥が分裂の様相を見せ,済南で停戦協議が始まり,9月21日には済南で東北軍との和平が調印された.これにより飛行隊は3か月で解散することになり,教官は無事に日本に帰ってきた.
 しかし飛行場のような大規模な施設は地方の町にとっては重荷となり,財政面で行き詰まり民間飛行場は廃止された.ところが1917年に軍の特別大演習が滋賀県で実施され,沖野が原飛行場が不時着陸場に指定されると,状況は変わり,八日市町の有力者は関係者に働きかけ,陸軍第3航空大隊の新設が決まった.1921年10月27日に先発隊の25人が着任し,11月に各務が原から150人余が八日市町へ移動した.翌1922年1月11日には第3大隊の開隊式が行われ,地元とは密接な関係が築かれ,毎年4月3日には「飛行場祭」が開かれた.さらに1930年には八日市鉄道が新八日市から飛行場まで開業した.しかし1937年に日中戦争が勃発し第3連隊も中国に派遣され,八日市には中部第98部隊が転営,埼玉に転出した後は明野飛行学校の分教場となった.軍の施設は米軍の空襲の目標となり,1945年7月24,25日に八日市町が空襲されて多数の犠牲者が出た.
  そして大日本帝国は敗戦を迎えて,飛行場は戦後に食糧増産のために農地として開拓された.当時の飛行場に関係したものは,八日市鉄道の廃線跡,飛行場跡に立つ石碑,中央公民館前の記念碑が残っている.大通り風物時代館は銀行跡を利用した八日市まちかど博物館で,八日市飛行場の資料,大正期や昭和初期の商い道具,玩具などが展示されている.

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