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19世紀に中国(当時は清)と英国が東アジアでアヘン戦争(1839〜1842)を引き起こした.この戦争には英国側が中国軍に対して新しい軍艦としてネメシス(Nemesis)という鉄製の船体で建造された蒸気砲艦を投入して,その軍事的な効果が注目された.鉄製蒸気砲艦ネメシスは,英国海軍ではなく東インド会社がアジアの河川地帯で効果的な戦闘を行うための河川砲艦として計画した最初の鉄製砲艦だったのである.当時の英国海軍はすでに大西洋とインド洋を支配しており,一部に蒸気機関を搭載した軍艦を装備してはいたが,まだ大部分は帆船で,提督達は自然にしたがって航海するのを好んでいた.蒸気機関でプロペラを駆動する小型の鉄製軍艦はようやくヨーロッパ海域での使用が始まった時期であった.そのため東インド会社はリバプールにあるバーケンヘッド鉄工所に秘密のうちに新型軍艦を植民地を拡張する目的に発注していた.これらの鉄製砲艦は,当時の軍艦に比べると小さく,長さ184フィート(55m)×幅29フィート,高さは11フィートで喫水は5フィートの船体になっていた.特徴は船体に木材を使わずにすべて鉄を使用して120馬力の蒸気機関を装備しており,季節風下でも自力で河川を航行できるものとなっていた.
英国の東インド会社はアジアの植民地(インドと中国)経営を拡張するために河川用砲艦を活用して相当のインドやビルマで実績を上げていた. 産業革命を果たしていた英国のリバプールにあるバーケンヘッドのレアード鉄工所(Birkenhead Iron Works:ウィリアム・レアードが設立)において1839年に完成したネメシス号(排水量660トン,120馬力,武器は32ポンド旋回砲2門を搭載し,船内は水密隔壁によって6つに区分されていた)を大西洋から喜望峰をまわってインド洋を経由して8か月の航海を終えてアヘン戦争下の中国沿岸にやってきていた.そしてこの砲艦が喜望峰経由で東アジアまで航海してきた最初の鉄製蒸気砲艦でもあった. こうして1840年11月25日にはマカオに派遣されていた東インド会社の鉄製蒸気砲艦ネメシス号は,アヘン戦争において虎門内に英国の兵力を送り込むために軍艦としてその威力と性能を十分に発揮した.さらに1841年2月には,鉄製の船体を持つ蒸気砲艦「ネメシス」号は,第1次アヘン戦争中の広東に向かう途中で,旋回砲座に装備した32ポンド砲2門で,中国の軍用ジャンク9隻,要塞5か所,陸軍駐屯地2か所,岸壁の砲台1基を1日で破壊してしまった.こうして英国軍による香港占領(1月26日)とネメシス号による珠江遡航(1月27日)が行なわれた. 東インド会社が派遣したベンガル海軍の鉄製蒸気砲艦ネメシス号,クイーン号,フレゲソン号,セソストリス号が,虎門以北広東までの複雑に入り組んだ水深の浅い内陸水路に侵入して,中国側の火筏や武装ジャンクを駆逐し,後続の帆走艦隊の遡航をサポートした.こうして河川用の喫水の浅い小型蒸気砲艦に対する軍艦としての評価も高くなっていた. 英国軍は,1841年8月21日にポティンジャーの大規模な攻撃開始より,アモイを8月26日に陥落し,定海攻撃を9月25日に行い,10月1日に陥落させた.さらに1842年になると英国軍は6月13日に揚子江への侵入をはじめて,6月16日には地呉松砲台を陥落させて,8月29日には旗艦コーンウォリス号の艦上で南京条約(ヨーロッパとアジアの国で結ばれた不平等条約)を調印してしまった. |
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蒸気機関が船を動かす動力源に適したエンジンと評価されて蒸気船が実用化されると,次は河川から大洋を汽船で航海する方向に目が向いた.1819年に米国から英国へ大西洋を横断したサバンナ号(Savanna)は,補助エンジンとして蒸気機関を装備した帆船で,いわばハイブリッド汽船だった.
サバンナ号は27日間で大西洋を航海して横断したが,蒸気機関を使用して航海したのは,そのうち4日間足らずであった. さらに1825年に英国からインドまで喜望峰を周る航海によって到達した最初の汽船は,英国の「エンタープライズ」号だった.この蒸気船の航海はファルマスからカルカッタまでの113日間の航海において,蒸気機関を使用したのは63日だった.まだ当時の蒸気機関は,燃料となる石炭をがぶ飲みする欠点があったが,産炭地で石炭が安価に入手できる英国内や樹木が豊富なミシシッピ河沿岸であれば,たいした問題にはならなかったが,大洋を蒸気機関で航海しようとする蒸気船には,大量の石炭を積み込んで出航するか,途中で大型の帆船から石炭を補給する必要があった. こうして初期の蒸気船は,まず英国と米国間の長距離輸送手段として大西洋航路から使用がはじまった.大西洋を横断する蒸気船の航路は交通が頻繁で,大西洋を安定して速く航海できるため,航海費用が高価でも利用者はある程度は存在していた.さらに英国とインド間の航路にも蒸気船を投入して航海日程を短縮しようと検討がはじまった. ヨーロッパからインドまでの航路には当時は3つのルートが存在した.まず,エジプトを陸路で横断し,紅海を南下してアラビア海を経由するルートがあった.第2のルートは,シリアを横断してメソポタミアに到達し,ユーフラテス河とペルシア湾を南下してアラビア海に出るルートである.第3は,大西洋を南下してアフリカ大陸を回ってくる喜望峰ルートである.これらのルートを選択するのは,航海技術と中東地域の政治情勢が関係していた. アフリカ周りの喜望峰ルートは,東インド会社が19世紀初めによく使用した.英国はナポレオンとの戦争でオランダとフランスの海上戦力を一掃していたから,このルートは距離が長いが安全な航路となっていた.東インド会社の帆船が英国とインドを喜望峰ルートで往復すると,当時はおよそ2年の歳月を必要とした. 英国人は中東を陸路で通過する2つのルートを「陸上ルート」(Overland)と呼んでいたが,メソポタミアを経由するルートは,ヨーロッパとシリア間,ペルシア湾の奥からインドまでの航海は比較的簡単なものだった.しかしこれらの2つの区間の中央に,外国人を嫌悪するアラブ部族や,アジア的なトルコ人官僚がいるオスマントルコ帝国を通過する必要があった.紅海ルートには,政治的な問題は少なかったが,帆船が紅海を航海することはほとんど不可能とされていた.紅海は風向が変わりやすく,長期の凪,突然の暴風雨などの自然環境が障害となった.また地形的にも紅海には,隠れた岩礁や珊瑚礁が点在し,海岸線は鋸の歯のように入り組んでおり,沿岸の住民が遭難船から略奪する機会を待ち構えていた. 英国の海軍将校ジェームズ・ヘンリー・ジョンストン(James Henry Johnston)は,長距離の大洋横断航路への汽船を就航させようとする動向が高くなってきたので,1822年にカルカッタとスエズ間に汽船を運航しようと計画した.彼はカルカッタに在住している英国人に呼びかけて「英国・印度間汽船運航推進協会」(Society for the Encouragement of Steam Navigation between Great Britain & India)を設立し,「汽船委員会」(Steam Committee)が6万9903ルピーの「汽船基金」(Steam Fund)を設立した.インド総督アマーストが2万ルピー,アワドの太守が2000ルピーを寄付し,残りをカルカッタの業者が拠出した.これらの寄付金を,ベンガルと英国との間(大西洋を南下する喜望峰ルート)を1回当たり平均70日間で,4回連続して航海した汽船の持ち主に8万ルピーを賞金として与える懸賞とした. ジョンストンは英国に戻り,外洋を航海する英国最初の汽船の建造に取り組んだ.この船には「エンタープライズ」号(Enterprise)と名づけて,長さ141フィート,搭載重量464トンで,60馬力の蒸気機関を2基装備したものとなった.計画では,途中でケープタウンに寄港して燃料を補給すれば60日以内でカルカッタに到着可能と考えていた. エンタープライズは1825年8月16日に英国のファルマスを出航したが,速度が遅く燃料消費も予想外に多かったために,ケープ・タウンに寄港したのは10月13日になってしまった.さらにインド洋で暴風雨に遭遇したためカルカッタに到着したのは12月7日で,航海には113日もかかってしまった.しかしベンガル管区政庁は,「スティーム」ジョンストンに賞金の半額を与え,エンタープライズ号をビルマ戦争で武器輸送に使用するために購入した.その後ボンベイ海兵隊(1830年以降はインド海軍)がエンタープライズを取得したが破損したため,インド海軍のマルコム兄弟はボンベイで新しく「ヒュー・リンゼイ」(東インド会社取締役会長の名前)号を建造した. ヒュー・リンゼイ号は木造チーク材で,長さ140フィート,幅25フィート,80馬力の蒸気機関を2基装備した蒸気船だった.こうして1830年3月20日にヒュー・リンゼイ号は石炭を満載してボンベイを出航したが,アデンで石炭を使いきってしまった.燃料補給のために12日を費やしたが,スエズに到達した.アフリカ周りの帆船で燃料が供給されたが,石炭はトン当たり13ポンドとなり,ボンベイ〜スエズ間の往復運賃は1700ポンドとなった.しかし,ボンベイから運んだ郵便は59日でロンドンに到着した.
紅海ルートを航行したヒュー・リンゼイ号はボンベイ〜スエズ間を21日間で運航した.スエズからは陸路をらくだの背で運んでカイロに届けて,平底舟でナイル河を下り,アレクサンドリアに到着し,マルタ島行きの商船が郵便物を運んだ.マルタ島より先は,英国海軍本部が汽船による定期航路を開設していた. |
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最初に鉄製の船体を持った蒸気船は,1822年に英国のスタフォードシャーのチップトンにあるホースレイ鉄工所(Horseley Ironworks)で製作した部品をテムズ川のロザミアにあるサーレイ造船所(Surrey docks)で組み立てた.この鉄船の平底は,厚さ6.35mmの鉄板をリベットで接合した蒸気貨物船「アーロン・マンビー(Aaron Manby)」(長さ36.6m×幅7m,積載量116トン,マスト兼用煙突の高さ14.3m)で,30馬力の蒸気機関を装備してヘンリー・ベル(Henry Bell)が設計した直径12フィート×幅1.5フィートの外輪(セーヌ川では最大梁の長さが23フィートに規制されていた)を駆動していた.
甲板には木甲板を採用し,機関室と船倉は鉄の隔壁を使用した.5月の試運転では9ノットで航行したが,6月からロンドン〜パリ間をアマニ油と鉄材を積んで定期運航した.その後フランスの観光業者が購入してセーヌ川の遊覧船として5年間運航していた.その後はロアール川で遊覧船として1855年まで使用された.鉄製の蒸気船は,当時の木造蒸気船よりも1フィート喫水が浅くなる利点があった. |
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世界史の大航海時代に残された最後の北東航路(Northeast Passage:北大西洋から北極海をアジアの北岸に沿って東に航海してベーリング海峡を通って太平洋に出る)というのは, 北極海をユーラシア大陸のシベリア北方からベーリング海峡を抜けて北太平洋へ至るルートのことだった.この航路は年間の大半が氷に閉ざされているため, 蒸気船が登場するまで帆船による航行は不可能なルートだったが, 実際に北極海の北東航路を蒸気船で横断したのは,1878年になってからである.最後の冒険航海となった北東航路は, 1879年に1年を掛けてスウェーデンのノルデンショルド(Nordenskiold)が蒸気船ヴェガにより航行に成功した.
さらに途中で越冬することなく航海できるようになったのは, 砕氷船が登場した1932年以降のことになる. 1879年9月2日に,スウェーデン国旗を掲げた蒸気船ヴェガ(Vega:60馬力の蒸気機関を装備,長さ43.3m×幅7.9m,排水量357トン)号が横浜港に入港した.この蒸気船の日本到着は,初めて北極海の北東航路を航海して北太平洋に貫けたものだったから世界から注目を集めた. アドルフ・エリック・ノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskiold)が率いた30人の北極海探険航海隊は,北ヨーロッパから北太平洋の日本まで北東航路を通る初めての航海に成功した.これで北大西洋から北極海を経由して太平洋に貫ける北東航路を実証したノルデンショルドの航海は,科学探険の歴史では伝説となった. 北ヨーロッパから東アジアへの最短航路と考えられていた北極海の北東航路を通って太平洋まで航海可能という予言が,何世紀にもわたってヨーロッパで信じられていた.部分的にはすでに多くの冒険者達が北極海の北東航路の周辺を航海していた. ノルデンショルドは北東航路を実際に航海して日本に到達したことによって,アジアへの冒険航海として北ヨーロッパを出発し,北東航路を西端から東端まで実際に蒸気船で航海することが可能なことを初めて証明した.探検計画はスウェーデン王オスカル2世(OscarII)によって承認され,探検航海の費用は,大部分をイエテボリ(Goteborg)の木材商人オスカル・ディクソン(Oscar Dickson)が負担し,一部は国王自身,またロシア商人アレクサンドル・シビリャコフ(Alexander Shibiryakov)も負担した. こうして捕鯨船だった蒸気船「ヴェガ号」を北東航路を探検航海するための旗艦として装備した.船長はルイス・パランデル(Louis Palander)で,乗組員は30人だったが,ロシア語通訳として探検隊に参加した20歳のフィンランド人,オスカル・ノルドクイスト(Oscar Nordquist)中尉もいた. ノルデンショルドは,これまでの北東航路への探検航海は,海岸線からはるかに離れた航路をとったために横断に失敗したと考えていた.当時は,夏はシベリアの川から流れ出る水によって北極海は凍結することはなく,海岸近くの水域であれば航行可能であると信じられていた.北東航路への実証航海は1878年7月4日に,スウェーデンのイエテボリを出発し,計画に沿って順調に航海していたが,9月28日にベーリング海峡から航海距離にしてわずか2日の120海里のピトレカイ沖で船は流氷に囲まれてしまった.もし探検隊がその場にほんのわずかに2〜3時間早く到着していれば,または沿岸からさらに離れた場所を航行していれば,その夏中に北東航路の航海を完了できていたかもしれない位置だった. 一隻の米国の北極探検船がサンフランシスコを1879年7月8日に出港した.この船は米国の海軍軍人で探検家だったジョージ・ワシントン・デ・ロング少佐(George Washington De Long:1844〜1881)の率いる北極探検船「ジャネット(Jeannette)」号(420トン)だった. 船にはデ・ロング隊長以下32人が乗り組んでいた. これまでのほとんどの北極海を探検する船は, 大西洋側から北極海へと入っていたが, 太平洋からベーリング海峡を経て北極海に入ろうとしたデ・ロングの探検計画は, この点で目新しいものだった. ゲデンシュトロムはノヴァヤ・シビリ島東方海上を調査中,1809年に途方もなく広い開氷面に行き当たり,この海域は冬でも凍らないと考えた. こうして, シベリア北方海域には広大な開氷面「シベリア開放海」がある, という説が信じられるようになった.さらにフランスの水路学者ラムペールは, 太平洋から暖流がベーリング海峡を通って北極海の奥深くへ流れているから, 北極海の中心部には氷がなく, 広い開放海になっている, とする説を1867年に発表した.この説を信じれば, ベーリング海峡から海流に乗って北極へ到達することができることになる. またドイツの地理・地図学者アウグスト・ハインリヒ・ペーターマン(August Heinrich Peterman:1822〜78)もこの「北極大開放海」説に賛同していた.そしてデ・ロングはこの説に従って北極点へ到達しようと考えていたのである. ところでデ・ロングの探検隊は,はじめスウェーデンの探検家であるN.A.E.ノルデンシェルド(Nils Adolf Erik Nordenskiold:1832〜1901)の「ヴェガ(Vega)号」の救出を目的としていた. ヴェガ号は1878年7月18日に北東航路(大西洋からユーラシア大陸の北方を経て太平洋へと至る航路)探検のためにノルウェーのイエテボリを出発しベーリング海峡へ向かったまま, 消息不明となっていた. これを知った「ニューヨーク・ヘラルド』(New York Herald)新聞社の社長だったジェイムズ・ゴードン・ベネット(James Gordon Benett: 1841〜1918)は,新聞社として捜索隊を派遣することを試み,デ・ロングはこの企画に乗って北極海の探検航海に出発したのである. かつて「ヘラルド」紙は1869年, ナイル川の探検中に行方不明になった探検家デイヴィッド・リヴィングストン(1813〜73)を捜索するために, ヘンリ・モートン・スタンリー記者(1841〜1904)をアフリカに派遣し, 1871年にリヴィングストンを無事発見し報道した実績があった. しかし実際にはヴェガ号は, ベーリング海峡までわずか約220kmの地点で氷に閉ざされ1878年9月28日に動けなくなっていた. だが同船は1879年7月18日に,氷から解放され20日にベーリング海峡を通過していた. そのため, デ・ロングがジャネット号で北極海に入ったころ(8月29日)に, ヴェガ号は北東航路を通過して無事に北太平洋を横浜へ向かって航行していたのである. これを聞いてデ・ロングは, ジャネット号の進路を北極へと向けた.
ようやく氷海に閉じ込められていたヴェガ号まで氷の割れ目が達し,越冬を終えて1879年7月18日に航海を再開して北東航路を実証するために続行することができた.ノルデンショルドの航海前の入念な準備によって,探検隊は幸運にも壊血病やその他の不幸な事態に遭遇することはなかった.ただしベーリング海峡に到達する直前に流氷に阻止されたのが,唯一の予想外の事態だった.またルイス・パランデル船長の航海術がなければ,航海は成功しなかっただろう.ノルデンショルド自身は北極圏の探検家ではなく,当時の評判では「ノルデンショルドほど氷を恐れた学者はいない」といわれ,北極圏の船旅では,いつも船酔いをしていたという. 無事に北東航路の実証航海を終えたヴェガ号は横浜を10月11日に出港し神戸に向かい,神戸には13日に到着し,そこから一行は京都と琵琶湖を訪れた.探検隊は10月21日に長崎に到着し,出島を訪れた.ヴェガ号は,長崎を10月27日に出港し,太平洋を西に航海して途中,香港,シンガポール,スリランカ,スエズ運河を通る南ルートを航行し,ナポリ,ローマ,リスボン,ロンドン,コペンハーゲンに停泊し,ストックホルムには1880年4月24日に到着した. |




