日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 カーチス社のテスト・パイロットのユージン・バートン・エリー(Eugene Burton Ely)は1911年1月18日に,セルフリッジ飛行場から午前10時45分にハドソン・フライヤー複葉機に乗って離陸し,サンフランシスコ湾に停泊している米国海軍の巡洋艦ペンシルバニアの仮設木製甲板(長さ41m×幅9.7m)に11時1分に飛行速度40マイル/時(64km/h)で拘束着艦に成功した.飛行機が停止したのは甲板の端から30フィート(9.1m)手前だった.無事に着艦したのがわかると周囲の艦船から汽笛や警笛が沸き上がった.ユージン・バートン・エリーは士官食堂で艦長とともに昼食会に参加して,57分後に再びペンシルバニアの飛行甲板から離艦してセルフリッジ飛行場へ帰っていった.
 使用した複葉機は水冷4気筒50馬力エンジンを装備したカーチス・プッシャー(プロペラ推進式)の車軸に拘束フックを追加設置したものである.
 ユージン・エリーは2か月前(1910年11月14日)に,チェサピーク湾に停泊している巡洋艦バーミンガムの前部甲板に仮設した25mの木製滑走路から離陸に成功していたが,悪天候のために海岸に不時着したため,プロペラを破損していた.水上機の開発だけではなく,軍艦からの発艦と着艦に成功したことによって,海軍における飛行機の有用性が確認され,米国海軍とカーチス社の友好的な関係が始まる.

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鶴見に飛行場があったころ

 来日した外国の飛行家に刺激されて大空へ飛び立つ夢を抱く人々が,自分で飛行機を試作始めていた大正時代には,鶴見には飛行場が3か所もあった.まず1921(大正10)年12月に,飛行家であった玉井照高が自作した飛行機で,後輩を指導していた玉井飛行場が生麦にあった.1923(大正12)年4月に潮田町が誕生した時には「祝町制施行」のビラをまいた記録も残っている.しかし関東大震災後に玉井飛行場は閉鎖され,その跡地にキリンビールの工場が建設された.
 明治維新によってアジアで日本が工業立国を進めてゆくためのショールームとなった京浜工業地帯は,民間のデベロッパーが中心となって臨海工業用地を埋め立てによって企業に提供することによって始まった.まず神奈川県の鶴見川河口の潮田地先海岸(いわば京浜工業地帯の初期)の埋立てが浅野総一郎の手で行なわれていたが,埋め立てた土地が安定するまでの間,臨時の飛行場として浅野総一郎は,2年間無料で飛行学校に提供した.これが鶴見の飛行場(潮田飛行場)といわれた.

第一航空学校 1923(大正12)年5月開校

 宗里悦太郎(山口県出身:赤羽飛行機製作所で機体製作技師長を勤めたが,閉鎖後独立)が鶴見川河口の埋立地(神奈川県橘樹郡潮田町末広町:現在の横浜市鶴見区末広町)に民間の飛行士養成所として第一航空学校を1923年5月に開設した.この学校の敷地は,東西350間(636m)×南北300間(545m)で地元(安善町)では宗里飛行場と呼んでいた.飛行練習に使用した飛行機は5機ほどで,訓練生は10人程度が在籍していた.航空学校では飛行訓練のほかに一般の人にも料金15円で横浜上空を一周する遊覧飛行を実施していた. 
 第一航空学校の操縦教官には,亀井五郎(伊藤飛行場出身で3等飛行機操縦士→2等飛行機操縦士1924年2月)がいたが,川西機械製作所系の日本航空に操縦士として1924年5月に入社した.そのため,卒業生の木下豊吉(3等飛行機操縦士:1924年2月)が教官助手から教官に昇格した.第一航空学校の卒業生には,日本で2番目の女流飛行家となった木部シゲノ(福岡県出身/19歳で3等飛行機操縦士:海軍機で曲技高等飛行も行なった→2等飛行機操縦士/1927年2月),藤井ヤエ(20歳/3等飛行機操縦士1927年7月)などがいた.1926年2月に千葉県船橋海岸に移転して1939(昭和14)年まで続いた.
 このほか潮田飛行場には,赤羽飛行機時代の人間関係のつながりで,根岸錦蔵がニューポール式83形を,今井小まつ(西原小まつ)が中島式5型複葉機を預けた時期がある.

片岡飛行学校 1924年2月 第一航空学校に隣接して開校

1924(大正13)年2月に片岡文三郎(名古屋出身:28歳)が第一航空学校に隣接して潮田末広町(現在の日本鋼管正門から入舟橋にかけて)に片岡飛行学校を開設した.
 飛行士の養成だけではなく,宣伝ビラを飛行機より散布したり,飛行機より航空写真を撮影する空中測量を企画し,飛行機に垂直撮影機を装備して実験を試みていた.
 飛行学校を開設した片岡文三郎は,1923年6月に開催された第4回懸賞飛行競技会で連続周回飛行(下志津〜霞ヶ浦〜所沢間177kmの三角コース)で優勝し,賞金2500円と中島式5型練習機1機,さらに整備費,輸送費用,飛行機用燃料10時間分を賞品として授与された.開校時の使用機材は,アブロ式504K型練習機が3機ほどだった.埋立地の完成により工場の進出がはじまり,借地の期限が切れると片岡飛行場は1926年3月に閉校した.
 ところで横浜と川崎の中間にあった鶴見町と潮田町は1927(昭和2)年4月に横浜市に編入され,10月より区制が引かれ鶴見区となった.
 京浜工業地帯の発展に伴い,全国から大勢の労働者が鶴見にやってきて,潮田の本町通り商店街や,まち全体が大きく展開していった.
 鶴見地区における海岸の埋立事業は15年の期間を必要としたが,1928(昭和3)年に一応完成し,「浅野埋立」と呼ばれた. 埋立地は完成後, 浅野セメント, 日本鋼管, 浅野製鉄所,旭硝子,日清製粉などが進出し,京浜臨海工業地帯の中核となった. 
乗客600人に運転士と車掌の2人で電車を運行している.ラッシュ時には700人を越える場合もあるだろう.小さな駅は無人化されてるし.
 ほぼジャンボと同じくらいの乗客の数になる.福知山線とは乗客を運ぶ距離が異なるが,事故を起せば,飛行機の場合には,ほぼ全員が犠牲者になってしまう.今回の事故では,重傷の方を別にすれば,乗客の18%が犠牲になった.やはり,速度が100km/h程度だったから.......
 日本の鉄道の運行が正確という神話は,鉄道省のころに築き上げられたもの.
 1945年以降の国鉄,JRによってとうの昔に神話なんてなかった.
 戦後も60年過ぎれば,また大日本帝国時代の精神がなつかしいのだろうか?
 なにが,「運転士はブレーキ・ハンドルを握ったままでした.」,だ.
 こんどは,死者を英雄に祭り上げるのか..イッソ,ヤスクニ・ジンジャへか?
 まだ,どこかに木口小平の銅像でも作るのかい?
 (ススメ,ススメ,ヘイタイススメ)
 戦前の教科書かい.世界に誇る日本の鉄道って!!
 いまの日本では,このような大事故でも,通常の交通事故と同じで,
 業務上過失致死(死者が107人であっても)の主犯(運転士)と車掌(従犯:たぶん?)が犯人で終わり.
 車掌さんは,裁判で不利にならないように会社(JR西日本)と打ち合わせているのだろう.
 JR西日本が事故の責任を回避しようとするのは,裁判では当たり前のこと.
 運転士と車掌の不注意でミスを犯したから,事故が起きたと.....
JRの在来線というのは,運転士の裁量が大きく,ミスが即事故に結びつきやすい運用システムだけど,
 オーバーランを問題にするよりも,その程度で済んだことに感謝しなければ......
 基本業務のミスが査定や評価に直結した管理体制というのは,現場の作業者に余計な負荷を掛けるだけの
精神主義(かっての帝国陸軍と同じでアナクロでは?)では,それこそ現代に通用しないのでは....
 
交通機関を利用していて,事故などで駅に長く停車することがある.
通常運転に回復するまで,かなり時間が掛かりそうなとき,
 (1)じっと回復するまで待つ
 (2)代替の手段を利用して目的地まで行く
という選択になるが,この選択の結果としてあとでチェックして見ると,どちらもほとんど差がないことが多い.
近ごろは,読みかけの本が,こうゆう空き時間に読み進めるから,回復するまで待つことにも耐えられるようになった.
 東武鉄道の踏切事故の時も,踏切警手に通行者の安全が委託されていて,操作をミスした場合のバックアップ装置がなかった.
 福知山線の場合も,電車の運行は運転士に任されていた.運行ダイヤに従って走行するという.....
居眠りや病気で運転手が意識を失えば,ATSによって電車が停止する程度の安全装置がついていたようだ.
 不思議なのは,運行を管理している部署からは情報が出てこなかったこと.
 車掌の事故報告がJR西日本より公表されていないこと.
 車掌さんは,事故について正確な報告を職場の上司にしたのだろうか?
 そして,御上の警察には.(刑事被告人にされているのだから,自分に不利な事実は公表しないだろうしなあ).
 今回の車掌さんは,不幸中の幸いなことに生存されていると思われるのだが,部分的な談話だけで,どうなってしまったのだろう.重傷を負っていらっしゃるのだろうか?
 まだ生死の不明な運転手さんは,事故の犯人としてマスコミから格好な犠牲者にされているが..... 
旧国鉄時代から引き継いでいる労使対立は,JR西日本でも残っているようだし......
 赤字の在来線は,廃線にしているが,黒字の在来線には,安全投資を十分にしているのだろうか?
サンマリノGP終了後の車両検査で,バトンの車において,残存燃料込みの車体重量では問題がなかった.
 ところが,燃料を抜いて車体重量を計測すると,規定重量を下回ってしまったらしい.
 つまり,燃料タンク内にサブ・燃料タンクが設置されていて,計測時に誤ってサブ燃料タンクの燃料を抜いてしまったのでは,ないかという噂があるのだ.
 車検終了後,6時間くらいバトンの車はオフィッシャルに留め置かれたが,書類にサインがひとつ不足しているらしい.
 なにしろ,BARはもとティレルを引き継いだコンストラクターだから.....
 かつてティレルが,ピット・イン時に燃料とともに水を補給して,走行後の車体重量を調整していた不正がばれたことのある前歴を考えると,怪しいのかも.....
 ことしも,エンジン規定の抜け道も見つけて,完走よりもエンジン交換のためにリタィアをするコンストラクターだから,怪しい....
 ルノーが好調だから,いまのうちに,ライバルになりそうな目をつぶしておかないと,
 なにしろヨーロッパ勢はズルだから....
 5月4日の裁定がどうなるか?

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