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7両編成の電車におよそ600人が乗車していたのだから,ほぼ定員乗車というところだろう.死亡者数が50人を越す事故となっている.TVのニュースでは,繰り返し事故現場の映像を流している.確かに事故現場にTVカメラを持ち込めば,それでとりあえずTVはしのげてしまうから.ビデオ映像を流せば,それでリアルタイムの情報を文章で補えば,テレビのニュース番組は出来上がってしまう.これでは,中学生が現場中継をしている映像にコメントを付けるのでも,あまり差がないだろう.TVってこの程度のメディアなのだろう.
航空機の墜落事故でも,同じようなものだ.乗り物の事故を扱っているレポータはいつもの現場の報告者だが,このような大事故にはなれていないのだろう(このまえの神戸地震の経験のあるレポータなんているのかなあ).流れてくる情報は,警察発表と病院からの経過報告,あとは事故の当事者のJR西日本のエライさん. なんとなく,運転手に事故の原因をかぶせるような情報の出し方をしている.国交省の指導があるような.... 鉄道はプロの運転手が完全に整備された車輌にお客を乗せて運行しているはずのものである.もちろん線路の保線も手抜きなく行なわれていなければならない.運転手が無事に救出されなければ,それこそ死人にくちなし.明日になると,いよいよ本格的な原因究明が始まるのだろうが,乗客の目でみじかな電車をチェックして見よう.同じような事故にあったら,どうやって逃げ出すか?電車は安全に運行されているか? 日常がほんの些細な手違いから,大きな災害に結びついてしまうのが,いまわれわれが暮らしている環境なのだから,現実をしっかりと見ることしかできない. ノイズの多い情報から必要なものを見つけ出すのは,たいへんだ. |
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義勇財団海防義会は朝日新聞社に対して,第4,第5義勇号を新たに貸与することを決定した.これは1927年4月に日本では金融の大恐慌が発生したために,川崎造船所は主要な取引銀行だった神戸の十五銀行が支払い停止に陥ったことから,事業を縮小しなければならない状況に追い込まれていた.その支援策として義勇号の製作は,1927年に川崎造船所飛行機工場が自社で開発したKDA2型を基本に,水陸交替可能の旅客機(BMW-6水冷式V型12気筒500馬力)に改造して製作することになったようだ.川崎造船のフォークト技師,東条寿技師が中心となって改造作業を進め,1928(昭和3)年10月に試作機が2機完成した.水陸交替機としての性能試験は良好で,12月に「第4義勇号」(J-BAKN),「第5義勇号」(J-BALH)と命名して,朝日新聞社に納入された.
これら2機の義勇号は朝日新聞社が主催した日本一周都市訪問飛行に使用され,1929(昭和4)年に2機の雁行で行なわれたが,7月に東日本一周,10月に西日本一周を行なった.訪問飛行経路は,浜松,高田,弘前,旭川,札幌,函館,青森,仙台,金沢,名古屋,岡山,広島,熊本に着陸し,航空知識の普及を目的に講演会なども行なわれた. その後は,朝日新聞社の通信,写真撮影,輸送に使用された.さらに東京〜新潟間の定期郵便飛行や満州事変当時の満州派遣飛行などにも使用された. 海防義会というのはいまの特殊法人のような存在で,皇族をトップにした帝国海軍のサポート団体で,いわば報国号を裏の予算で軍用機メーカーに発注することで,メーカーに開発費用を提供していた団体といえよう.海軍が表に出たくないときは,海防義会がその代行となったようだ. |
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1974年にサンケイ出版社より発行された「グラマン戦闘機」がようやく文庫に収録されたのだから新装刊なので,これで古書を探す必要がなくなったわけだ.米国の航空機メーカーは,日本の軍用機メーカーと異なり,政府の手厚い支援がないから合併や統合が頻繁に行なわれているから,現在はノースロップ・グラマン社となっている.
太平洋戦争が中心だから,F4F「ワイルド・キャット」とF6F「ヘル・キャット」の開発とその歴史が大部分になるが,グラマン社の変遷,戦闘機以外の軍用機,駆け足で朝鮮戦争,F14まで取り上げている.車輪の胴体への収納機構と出力2000馬力の空冷星形エンジンの装備などが日本機(零戦)と比較しながら解説している.米海軍の戦闘機の運用については,かなりくわしく記述している. |


