日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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◇鈴木式ジャイロ2号トラクター複葉機
米国より1915(大正4)年3月に帰ってきた立花了観飛行士が,一緒に持ち帰ってきたジャイロ・エンジン(ジャイロJ空冷式回転星型7気筒60馬力)つきのカーチス・ジャイロ複葉機は,同じく米国帰りの飛行士である鈴木茂が操縦した1915年5月の高知朝倉練兵場の飛行展示において墜落し,鈴木飛行士は負傷してしまった.破損した機体を修理後,6月に行なわれた香川県善通寺の飛行会でも着陸に失敗して再び破損してしまった.一方で立花了観飛行士は,坂本寿一飛行士が計画を進めていた飛行学校,飛行機製作所の開設に協力して,米国から同行したウイリアム飛行士,ホルムズ機関士の指導を受けて,福岡雑飼隈に東洋飛行学校を,大阪市北区野田町に日本飛行機製作所を設立した.再び破損したカーチス・ジャイロ機は,鈴木茂飛行士が新しく改良を加えて,新しく設立された日本飛行機製作所で再び組立てられて,鈴木式ジャイロ2号トラクター(全幅9.2m×全長6.1m,自重370kg,全備重量500kg,木製主材骨組に合板羽布張り構造)となった.
 こうして鳴尾競馬場で1915年12月に開催された第2回民間飛行大会で,鈴木式ジャイロ2号トラクター複葉機は中沢家康の操縦により滞空時間29分35秒で2等に入賞した.外観上は複座になっているが2人乗ると重量が超過して離陸がむづかしいので,1人乗りの単座機として使用された.この飛行機も後に伊藤飛行機製作所に譲渡された.

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定期航空便の発祥地はセント・ピーターズバーグ

米国の東海岸セント・ピーターズバーグ国際空港の入口銘板に「定期航空便の発祥地」という表示がある.これは米国フロリダ州タンパ港とセント・ピーターズバーグ間の35kmを22分で結ぶ航空路として1914年に,1日2便で週6日間の定期運航を4か月間に渡って続けたことを記念したものである.
 定期航空路はタンパ港とセント・ピーターズバーグ間を飛行艇により運航するもので,ベノイスト14(Benoist XIV)飛行艇を使用した.この飛行艇はモーターボートに翼とプロペラ推進器を取り付けた構造をしているのでエア・ボートと呼ばれたが,セントルイスにあったベノイスト社の工場で木材[トウヒ(マツ科の常緑針葉樹)]と羽布と針金で構成され,トーマス・ベノイスト(Thomas W. Benoist)が1913年に開発した.
 定期旅客便の最初の3か月間は順調で,50日間の定期飛行日程のうち7日間が悪天候と機体整備のために運航を中止にしたが,172便を定期運航し旅客1205人(時には2人乗車)を運ぶ実績を残した.ベノイスト14飛行艇には操縦士1人,横に乗客1人を乗せて飛行したが,搭乗運賃は体重200lb(90.7kg)まで1人が5ドルだが,体重や手荷物が200lbを越えた場合には100lb(45.4kg)ごとに5ドルの追加料金を徴収していた.なお飛行艇は複葉でエンジンを胴体の中に装備して,胴体の上にある推進式プロペラをチェーンで駆動する方式をとっていた.飛行艇は離水すると高度5フィート(1.5m)から20フィート(6.1m)で水面上を飛行するので,乗客にはエンジン・オイルと水飛沫を避けるためのゴグルと寒さを凌ぐためのマフラーが必需品とされていた.
 1914年当時のタンパ湾岸地域では,蒸気船でタンパ湾岸を航行すると21時間程度は掛かっており,汽車を利用しても12時間,まだ未完成な自動車を利用すると,セルモータもまだなく,手回しクランクでエンジンを始動しなければならず,さらに載り心地の悪いソリッド・タイヤで未舗装の道を走らなければならない環境だったから,飛行機による移動経路のショート・カットも効果があったのだろう.また場所がら定期運航のほかに100件ほどのチャータ便(新聞輸送,切り花の空輸,食料品の輸送など)と遊覧飛行を2機のモデル14飛行艇によって行なわれた.
 セント・ピーターズバーグ市はベノイスト社が1日2便で週6日間の定期運航を3か月続けたら,現金2400ドル(市は1月は1日当たり40ドル,2月,3月は1日につき25ドルを補償)の補助金を支出する契約をしていた.定期航空便の運航は1914年1月1日(飛行士はトニー・ジャナス)から開始され,市との補助金契約が終了した3月31日以降も5週間にわたり運行が続けられたが,乗客の減少により5月5日の定期便が最後となってしまった.安全第一で営業したため,定期運航中に乗客に怪我や死亡につながる事故はなかった.

◇70周年記念に飛行可能なレプリカを製作

 定期運航70周年記念に1983年10月9日にベノイト飛行艇モデル14の43号機の飛行可能なレプリカが完成し初飛行した.1983年のクリスマス直前にターポン湖からセント・ピーターズバーグまでの飛行が行なわれた.しかしレプリカの合計飛行時間が6時間40分に達したため,もう飛行はできない.そのためシボレー製のエンジンをより軽い木製の展示用レプリカに置き換えて展示されているが,プロペラは本物を展示している.
◇ベノイスト14単発複葉飛行艇の仕様
自重:1250lb(567kg),翼長:44ft(13m)×翼幅:26ft(7.9m),装備エンジン:ロバーツ水冷直列6気筒75馬力
燃料消費量:13gph(49L/h),オイル消費量:1gph(3.8L/h),最高速度:64mph(103km/h),失速速度:31mph(50km/h)
航続距離:175マイル(282km),販売価格:4250ドル,初飛行は1913年

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◆玉井式3号機はNFSの練習機になった

友野式90馬力エンジンを装備した玉井式日本号(2号一葉半水上機)のあとに陸上機として,玉井式3号機の製作を計画していた.新しい機体は,友野鉄工所の支援を受けて,原愛次郎工学士が設計,玉井清太郎の弟勝一郎の協力で製作し,1916(大正5)年10月5日に完成し,11月4日に試験飛行を行なったが飛行距離は約500mに達した.
 この時点まで玉井清太郎は,千葉県の稲毛で玉井飛行練習所の看板を掲げていたが,月刊雑誌「飛行界」の相羽有記者と共同出資による飛行学校を設立することになった.これに友野鉄工所も協力して東京府下羽田町穴守に日本飛行機製作所を創設した.

川崎大師側の三角州にあった飛行場

 日本飛行学校の飛行場は川崎大帥側三角洲の砂地,総面積30万坪を利用し,飛行学校の校舎は東京府荏原郡羽田町穴守稲荷神社の近くにあった元料亭の空屋を利用した.そのとなりの建物を友野鉄工所から移転した日本飛行機製作所になった.かつて羽田空港が沖合に移転拡張される前の空港大駐車場があったあたりの場所に飛行学校はあった.飛行場はそれよりもかなり南に離れた六郷川の海にそそぐ三角洲の干潟地で,丸太の骨組によしず張りの格納庫が,川崎大師側の梨畑に沿った堤の上に建てられていた.
 日本飛行学校の主事,通称「校長」といわれた相羽有は当時21歳,「教官」となった玉井清太郎飛行士は24歳,使用する機体は斎藤外市から借りたキャメロン25馬力エンジンを装備したNFS玉井式1号機(''' 写真 ''' )で,飛行学校の授業は1916(大正5)年12月から開始された.NFS玉井式1号機というのは,Nippon Flying Schoolの玉井式1号機を表わしていて,それまで玉井式3号機と呼んでいたものを改名したものである.
 飛行学校開校時の練習生には,長田政雄(21歳),石橋熊一(22歳),山田欣一(19歳),長谷川常芳(20歳),信田五平次(18歳),青木茂(19歳)ら,続いて少年飛行士として辻村泰作(当時16歳),のちにゴジラなど怪獣映画の特撮監督になる円谷英二,後の片岡飛行学校長の片岡文三郎,福長朝雄,女性練習生の上野艶子らが参加してきた.
  NFS玉井式1号機は発動機が過熱しやすいため,1回の飛行が10分以内に制限されたが,修理を重ねて短期間ながらよく飛び,羽田飛行場で最初に飛んだ飛行機となった.
 日本飛行学校では,新しくNFS玉井式2号機を製作して1917年1月より飛行訓練に使用した.このNFS玉井式2号機には,1号機から取外したキャメロン(空冷式直列型4気筒35馬力)エンジンを改修して搭載し,原愛次郎工学士が機体を設計し,羽田で製作した.主翼は1号機よりもわずか細長くして翼面積を減少し,胴体を短くして強度を増している.NFS玉井式2号機(全幅10.5m×全長6m,主翼面積28.0m2,自重320kg)は,機体の骨組は桧を主材とし,アルミニウム合金の釘を使用,羽布張りのうえに防水ニス塗装,補助翼は上翼にのみ取付け,NFSでは国産ソーピース式2人乗りトラクターと名付けた.
 NFS玉井式3号機は,相羽校長が斎藤外市から購入したノーム空冷式回転星型7気筒50馬力エンジンを取付け,機体もひとまわり大きくし,同乗席には2人が乗れるようになった.羽田で1917(大正6)年5月4日に初飛行し,同月20日には東京芝浦の埋め立地を飛行場として,大規模な宣伝飛行を東京日日新聞社の後援で行なった.当日の3回目の飛行作業において,東京日日新聞社の湯浅礼三写真班員を同乗させ,東京市を一周する予定で出発したが,離陸間もなく機体が故障して着陸姿勢に移った瞬間,空中分解して墜落し,玉井飛行士と湯浅写真班員は殉職した.これは日本で民間飛行学校の飛行機による最初の死亡事故となり,また新聞社の写真班員が取材飛行中に遭遇した最初の事故でもある.なお完成時にこのNFS玉井式3号機は,国産グラハム・ホワイト式3人乗りトラクターという機名で広報された.
 新造機と教官を失った日本飛行学校は,新しく陸軍第3期飛行練習生出身の川上親孝予備中尉を教官に迎えて,とりあえずNFS玉井式2号機で飛行練習を再開した.ところが1917(大正6)年9月30日夜半に襲ってきた東京湾大津波で沖に流され,翌朝千葉県浦安町の漁綱に無残な姿でひっかかっているのが発見され,キャメロン発動機を回収した.
 相羽校長は練習生の就職を考えて,羽田穴守に自動車練習部を開設した.これは後に蒲田の公認日本自動車学校として分離独立することになる.一方,玉井照高(藤一郎より改名)は飛行練習所の再建を進め,羽田の日本飛行機製作所で新しく玉井式5号機を製作し,その発動機は2号機のキャメロン35馬力をオーバーホールして使用した.
 成田空港が最大の漁港ともいわれる時代だから,「西アフリカ沖産酢だこ」を近所のマルエツで購入して夕飯のおかずにして食べても不思議ではない日常のことになっているのだけれども.....
 環境に負荷を掛けない生活とは,まるで方向性が違っていまっているようで....
 西アフリカ沖って,モロッコ,モーリタニア,カナリア諸島のことらしい.なんと北大西洋のダカール沖あたりの地域になる.瀬戸内海のタコ漁が減少した分を,中国,ベトナム,タイでは足らずに,西アフリカにまで手を伸ばしているわけだ.メキシコは,値段の関係でもう増えないから,この先はたぶんないのだろう.まあ地球以外の惑星があれば別だが.日常の食卓の素材が地球を半周してもってきたものとなっている.西アフリカ沖産が日本に入ってきたのは,1965年ごろからだから,日本という国は,カメラや自動車を売って,食べ物は外国から輸入してくる貿易構造となっている.これが,環境にやさしい地球博を開催している日本国の現状といえよう.工業技術に力を入れるのはいいとしても,農業や漁業が衰退し地球規模の食料供給体制によって生活している.
 米国人が食べない牛肉を日本が禁輸しているから,同じ金額に近い自動車タイヤを報復に輸入差し止めようという話題があるほどに,工業製品輸出大国であるのだろう.お役所のランク評価にしても,経産省のほうが,農水省より高いようだし......

原産地表示ラベルって,おもしろい.

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クリストファーソン飛行艇 Christofferson Flying boat

米国で飛行機の操縦技術を学び飛行士となって,海野幾之助が1914(大正3)年5月に持ち帰った日本最初の飛行艇がクリストファーソン飛行艇(全幅14.5m×全長8.25m,木製主材骨組に合板羽布張り構造)である.ただちに6月に開かれた第1回民間飛行大会に参加したが,発動機が不調なため飛行デモも行なわなかった.エンジンを修理して,ようやく7月1日に試験飛行の滑走中に発動機から火を発して転覆大破し,機体主要部が燃えてしてしまったが,海野飛行士はなんとか海上に逃れて無事だった.この飛行艇に装備した発動機は,京都深草練兵場で墜落して死亡した武石浩披飛行士(1913年5月4日)のカーチス複葉機に搭載されていたホールスコット水冷式直列6気筒65馬力を修理して装備したものである.
 海野飛行士はクリストファーソン飛行艇の残存部品を利用して,新しく水上機を設計し大阪の日本飛行機製作所で海野式水上機として製作した.エンジンはホールスコット60馬力を前後逆にしてトラクター(プロペラ牽引式)に換えて,1915(大正4)年5月に完成し,西宮海岸で離水試験を行なったが,発動機の出力が不足して離水することができなかった.なお修理した後にも数回の離水試験を試みたが失敗に終わった.これで海野幾之助は飛行士稼業から引退してしまった.なお大阪の日本飛行機製作所は,海野式水上機と鈴木式ジャイロ2号を組立てた後には,飛行機の注文が続かず経営不振により消滅した.

日本に初めて輸入されたのがクリストファーソン飛行艇

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