日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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瓦斯電KR-1 第12義勇号水上機  瓦斯電KR-2 小型旅客機

 東京瓦斯電気工業株式会社が1932(昭和7)年に自社で開発した航空エンジン(空冷式星形7気筒「神風150馬力」)を装備した小型旅客機の開発を社内で進めて,試作したのが国産旅客機「瓦斯電KR-1」(乗員1+乗客3人)である.
 当時の三井物産機械部が英国から輸入したデ・ハビランドDH83フォックス・モス軽旅客機を基本として,神風150馬力を装備して国産化した複葉輸送機で,「小型旅客機」のローマ字略称を型番にしてKR-1となった.
 機体構造はデ・ハビランド社独特の主材の木製骨組構造を流用して,合板整形,羽布張り構造で,双フロートとの交替が可能な水陸両用とし,フロートは千葉市のデルタ造船所が製作を担当した.
 試作1号機は1年後に完成し立川飛行場で赤池万作操縦士により,1933(昭和8)年12月23日に初飛行した.続いて羽田で公開飛行を1934年1月27日に行ない,3月15日には羽田で水上機(乗員1+乗客2人)の披露飛行を行ない,このとき「千鳥号」という愛称が公表された.製作機数は1933年〜1934年に合計7機だった.1号機を含めて3機(J-BBJI,BBMI,BBNI)が双フロート付きの水上機となり,堺市の日本航空輸送研究所が使用して,大阪〜四国,大阪〜白浜の定期航空輸送,およびチャータとして運用されたエアタクシーに使用された.つぎの2機は海防義会の第12,13義勇号として製作され,日本航空輸送研究所に無償貸与された.そのほかに台湾国防義会,満州国営口海辺警察隊が使用した.
 続いてKR-2が開発されたが,これはKR-1を性能向上させたもので,同じ発動機と全備重量(964kg/水上機988kg)として,速度と航続力を向上させた改良型である.そのため主翼を全面的に再設計して,全幅は変わらないが下翼を2.4m短縮し,翼端部を放物線に整形して,主翼面積は22m2から17.8m2に縮小している.
 改良型となったKR-2の試作1号機は1934年11月17日に羽田で初飛行したが,速度は向上したものの離着陸滑走距離が長くなり,上昇性能もわずかに低下してしまった.なお生産が進むにつれて,細部の改修が行なわれ完成度が高くなった.しかし後半期には海軍の審査を受けて,舵面などにも改修を加えて,海軍の特用連絡輸送機として陸上基地と航空母艦との連絡に用いられた.製作機数は1934〜1939年に12機である.
 KR-2の1号機J-BLIBは,帝国飛行協会の第12号海外同胞号として1935年3月に東京航空輸送社に,協会第14号朝鮮同胞号が1936年5月に朝鮮航空事業社へそれぞれ貸与して,主としてエア・タクシー機として使用された.さらに東京航空輸送社に1機,営口海辺警察隊へ1機,読売新聞社に2機の採用が続いたが,その後は海軍の連絡輸送機として製作された.こうしてKR-1とKR-2の合計19機が千鳥号の愛称で呼ばれた.
ところで東京瓦斯電気工業株式会社(1913年設立)は第二次大戦前に存在した重機械工業分野の企業で,空冷星形エンジンの開発(日立航空機),東大・航空機研究所の航研機の組立を担当,自動車の製造(現在の日野自動車),武器(小銃)の製造をしていた.地味なため中島飛行機ほどには知られていないがガス電という略称で親しまれた会社だ.ガス電の発足はガス器具の製造から始まり,砂型鋳物の技術から発展してエンジンなどの鋳鋼製品に進出したエンジニアリング企業である.しかし1922年に負債3000万円で経営破綻し強制和議により,資本金を600万円から60万円に減資して企業としては存続するかたちで日立製作所に買収された.航空機,自動車,工作機械の3事業に分割して日立製作所が受け継ぎ,日立航空機,日立工作機(日立精機,日立ビアメカニクス),日立兵器の3社が設立された.

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1969年に初飛行したボーイング747がそろそろ次世代機へ移行する時期が来たようだ.日本の航空会社はボーイング・ファンだから(お国から補助金が出ているのかしら?),またかってDC7でボーイング707に対抗した日本の航空会社の過去を思い出す.デジカメと異なり,プロのパイロットが運航する民間旅客機は寿命が長い.民間企業の使用機材は,採算が合う限り使い潰すのだろう.
 人間が作り出した機械に対する慈しみ,高度なマシンを使いこなす際の同志的な感情,いわばメカニカル讃歌ともいうべき小説なのだが,なぜか岡本好古はやはり人間への関心に移ってしまう.確かに機械技術の進歩を追いかけるのは,しんどいのかもしれない.高速化,巨大化,知能化だけの進歩スキームに飽きたのかもしれない.表面的な文明批判は立つ位置を決めてしまえば,容易に行なえるが,技術を理解した上で適切な批判を続けるのはむずかしいのだ.
 しかし岡本好古が,ウィキペディア(Wikipedia)の項目になるほどにファンがいることは,機械と人間に関心を持つ読者としては非常にうれしい.
 できれば,また機械の仕様を隅から隅まで頭の中に入れて,大好きな飛行機(エアバスA380でもイイカ)とそれを取り巻く人間を主人公とした小説を読みたいものだ.

◆岡本好古の著書リスト

「最後の艦隊」
「新名将言行録 生き方・死に方・考え方」
「ガンマン・ジム 壮烈!大西部の詩情」
「夢幻のはざま」
「名将の戦略 その攻めと守りの危機管理とは」
「東京大空襲」
「背水の陣 悲将韓信の生涯」
「元の皇帝フビライ 大草原の虹」
「日本海海戦」
「歴史にみる「勝つリーダー、負けるリーダー」何が明暗を分けるのか」
「空母プロメテウス」「悲将ロンメル」講談社1976
「巨船  SOS! タイタニック号」講談社1973
「仰ぎ見れば蒼い空」集英社1975
「悲将ロンメル」講談社1976
「一兵士の戦い 第二次大戦の記録」(翻訳)ジェームズ ジョーンズ(著)岡本好古(訳)集英社1976
「日本海海戦」新人物往来社1976
「ファントム・バルーン」集英社1976
「登竜門」角川書店1976/05
「歯に衣を着せず」酣灯社1977
「劫火の世紀」講談社1979
「草木の精」双葉社1979/06/10
「兵器とは 戦争とは  好古のミリタリー博物誌」光人社1980/06
「蒼空の鯱」実業之日本社(ジョイ・ノベルス)1981
「黄金郷 ピサロの生涯」集英社1982/12/20
「東京大空襲」トクマノベルズ1983/01 徳間文庫1990/03
「戦艦長門の最期」ジョイ・ノベルス2003/02
「妖剣・蒼龍伝 中国怪奇譚」新人物往来社2003/01
「幻想小説大全 鳥獣虫魚」(アンソロジー)北宋社2002/01 1994年に刊行された「幻獣の遺産」「夢見る妖虫たち」「釣魚の迷宮」3冊の合本。
「大海戦」トクマノベルズ2000
「元の皇帝フビライ 大草原の虹」講談社1997/04
「炎の提督 山口多聞」徳間書店1990/02
「不沈戦艦」徳間文庫1988/08
「海鳴り 提督小沢治三郎―最後の連合鑑隊司令長官の生涯」光人社1988/05
「炎のタンカー」講談社ノベルス1986/01/10

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 ペドロ・ザンニ少佐(アルゼンチン国籍)とフィリップ・ベルトーメ機関士は,オランダのアムステルダムより1924年7月22日にフォッカーC4複葉機に搭乗して世界一周飛行に出発した.フランス領インドシナまで7727マイル(1万2440km)を85時間25分で飛行してきた,ザンニ少佐の「シティ・オブ・ブエノス・アイレス」はハノイを8月19日に離陸しようとして大破してしまった.この事故により代わりの複葉機をブエノス・アイレスからハイファまで運び「プロビンス・オブ・ブエノス・アイレス」と名付けて,ザンニ少佐はさらに2939マイル(4730km)を34時間25分飛行して霞ヶ浦に9月11日に飛んできた.さらに千島列島とアリーシャン諸島沿いに北アメリカまで飛行する計画だったが,地上の風が荒れたために離陸を中止した.
  すでにこの時点でザンニ少佐は世界一周飛行をフォッカーC4複葉機で1万7000kmを飛行していたが,技術的な問題と幸運な事故により長距離飛行を日本で打ち切った.飛行機で戻ろうとしたが,大阪の木津川飛行場で事故を起して機体を破損してしまった.

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 英国空軍はハンドレ・ページV/1500(ロールス・ロイス製イーグルVIII水冷V型12気筒375馬力エンジンを4基装備)という4発爆撃機(最初の実用的な戦略爆撃機)でA.マクラーレン少将(ハーレイ,マクエンら)が1918年12月13日に英国を出発し,ローマ,マルタ,カイロ,バクダットを経由して12月30日にカラチまで飛行した.さらにインドの首都デリーには1月16日に到着した.なお,V/1500爆撃機は第一次大戦中に7機,第一次大戦後に57機が製作された.後継機としてビッカース・ビミー爆撃機が配備される1919年末まで使用された.
 さらに英国の第3次アフガン戦争において,アフガニスタンのアーマヌッラー王と英国領インドがカイバー峠で戦争を始めたが,カブールの王宮を1機のV/1500(機長はロバート.ジョック.ハーレイ)が1919年5月24日に爆撃した.爆弾4発を投下したが,物理的な被害はたいしたことはなかったが,カブール初の空爆という心理的な効果は大きかった.
 英国とインド間を無着陸で飛行するのは1929年まで待たねばならない.

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 日本帝国海軍は水上機母艦「若宮」の滑走台から,ソッピース3型パップ艦上戦闘機(英国製)の発艦実験を1920年(大正9)年6月22日に行なった.さらに1920年には海軍のソーピース3型パップ戦闘機(ルローン空冷式回転星形9気筒80馬力)で,戦艦「山城」の砲塔上に仮設した滑走台(長さ18m)より自力滑走による発艦に成功した.操縦したのは桑原虎夫大尉で,向かい風と艦自体の航行速度による合成した風速6mの状態で,ソッピース3型パップ戦闘機は15mの滑走距離で戦艦から発艦することができた.当時ソッピーズ3型パップ戦闘機は,陸軍と海軍で50機ほど使用していたが,海軍の艦上機は陸軍機よりも翼がわずかに大きいものになっていた.
 このほかにはグロスター・スパローホーク艦上戦闘機(ベントリーBR2空冷式回転星形9気筒200〜230馬力)を使い,戦艦「山城」砲塔上に仮設した滑走台からの自力離艦にも1922(大正11)年に成功している.
 着艦については,正式空母「鳳翔」の就役(1922年9月20日)まで実験記録はない.

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