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北海道の千歳空港は年間の旅客機乗降客数が1800万人を超えて重要な空の駅となっている.この千歳空港の歴史は,千歳村民の手で整地して造成した滑走路に酒井憲次郎操縦士が操縦した北海1号機が1926(大正15)年10月22日午後1時20分に着陸した出来事から飛行場が始まったという.
なお空港公園「翼の広場」には,「村民顕彰の碑」,「北海1号機」と「酒井憲次郎操縦士」ブロンズ像が建立されている. 1926年に千歳飛行場に初めて着陸した飛行機は北海1号機で,小樽新聞社(第2次大戦中の1941(昭和16)年12月に公布された新聞事業令により,1942年10月に当時の札幌市の北海タイムス社,小樽市の小樽新聞社とその他の地方新聞社が合併して北海道新聞社に統合された)の社有機で読者を獲得するための宣伝や広報,取材などに使用された.三菱式R2.2型単発複葉機で旧帝国海軍が使用していた「10式艦上偵察機」の民間改造機である. ところで10式艦上偵察機は,旧帝国海軍が三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に大正10年に指示して,英国ソーピース社より招聘した設計技術者ハーバート・スミス技師らに設計を依頼して製作した複座の偵察機だが,すでに完成していた10式艦上戦闘機を大型化したものである.大正12年11月に制式採用された.しかし実際の偵察任務は13式艦上攻撃機に兼務させたため,複式の操縦装置を追加して中間練習機(10式艦上偵察機2型:C1M2)として昭和10年ごろまで使用された.民間にも払い下げられ,新聞社用機,観測機に改造されたものもある. なおエンジンは,フランス製のイスパノスイザ水冷V形8気筒300馬力(三菱ヒ式として国産)を装備していた.主翼は木製羽布張りでフラップはついていない,胴体も木製骨組に羽布張り構造の複葉機だった. |
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1950年代中ごろの乗用車は,トヨペット・スーパー,ダットサン・コンパー,オオタ900,プリンス1500,オースチン1200,ヒルマン1400,ルノー750などがあった.しかしこれらの乗用車の価格は,小型の1000ccクラスでも当時の販売価格は100万円程度(1ドル=360円時代)で,まだ平均サラーリーマンの月収が1万円に届かない所得レベルだったから,自家用車として個人で所有するには手の届かない存在だった.
軽自動車は1947年12月に制定された道路交通取締令の小形自動車第4種に規定され,1948年に2輪自動車以外の自動車という別枠が設定され,全長3m,全幅1.3m,全高2m以下でエンジンは4サイクル350cc,2サイクル200cc以下という規格で,軽3輪,軽4輪車の可能性が見えてきた.しかしこの規格に対応した4輪の軽乗用車を開発したメーカーはなかなか成功しなかった. まず先駆者として登場したのは自動車技術者の富谷龍一と志村実が住江製作所で開発したフライング・フェザーだった.試作1号車を1950年に製作し試作5号車まで改良を続け,1955年にようやく量産に移行した.4サイクルOHVエンジン(V形2気筒の350cc/12.5馬力)を後部に搭載した2座席で,19インチのワイヤーホイールに4輪独立懸架を採用したが,3速変速機と425kgの重量で60km/hを実証したが前輪ブレーキがないなどの欠点もあった.年産600台を目標として1955年に開催された第2回自動車ショーに販売価格を38万円として展示したが,48台を製造して終了してしまった. 1952年には名古屋の中野自動車工業が,新三菱重工業の汎用4サイクル単気筒350ccエンジン(6馬力)を利用して手作業で製作した「オートサンダル」を発表した.オープン・ボディの後部にエンジンを搭載して2人乗りのフリクション駆動だった.試作を繰り返して1954年には水冷2サイクル2気筒240cc(10馬力)エンジンに改良されたが,まだ試作段階で日常の使用に耐えるほどの実用性はなかったようで,200台程度が製造されたが,量産には到らず消えてしまった. 3番手となったNJも2座席スポーツ・カー・スタイルで,後部に4サイクルOHV(V形2気筒358cc)エンジンを搭載した軽自動車として登場した.赤坂でフィアットの販売をしていた日本自動車が販売したが,前部の形状はフィアット500系に似ていた.しかし1956年には製造を担当していた日本軽自動車(埼玉県川口市)が販売を担当し,さらにエンジンを前に移して通常のFRになり,ロードスター,トラック,ライトバンがシリーズ化された.1956年には車名も「ニッケイ・タロー」に改名したが1958年に製造が中止された. エンジンを製造していた日建機械(東京都大田区)がニッケイ・タローを改良した「コンスタック」を1958年1月より発売したが,1961年9月まで145台を販売した. ようやく自動織機メーカーから2輪車に進出した鈴木自動車工業(現在のスズキ)が, 1955年に前輪駆動方式の軽自動車(360cc)「スズライト」を発売した. 2輪車メーカーの鈴木自動車工業が初めて製作した4輪車スズライトは,本格的な軽自動車のパイオニア的な存在となった. 小型乗用車なみのスペースを持ち, 2サイクル・エンジンを前に搭載し前輪を駆動するFWD(前輪駆動)を採用していた.初めて軽自動車を開発する際に参考としたドイツの小型車ロイトLP400(空冷2サイクル並列2気筒385cc)を模倣して軽自動車の車体サイズにまとめたものだった. 乗用車,ライトバン,ピックアップ・トラックの3タイプを揃えてシリーズ化していたが,乗用車,ピックアップの販売は順調には行かず, 1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバンに限定した. ライトバン仕様の「スズライト」も営業的には成功したとはいえないが,初代型は1959年9月まで生産を続けて,約1200台を販売した.これでようやく軽自動車を継続して生産する自動車メーカーとなった.ただスズキの軽自動車が軌道に乗るのはオースチン・ミニに似た形状をした改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降になってからである. |
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フォッケウルフFW200の試作1号機は1937年7月27日に設計者のクルト・タンクが操縦して初飛行した.FW200コンドルは近代的なエンジンを4基装備した民間旅客機として開発されたため,表面が平滑なリベットと軽合金構造を採用した新世代の長距離輸送機だった.1938年のヨーロッパの空を飛ぶ民間旅客機の主力となって運航されていたユンカースJu52/3mとダグラスDC-3の後継を目的として登場した.
この輸送機はドイツのルフトハンザ航空が北大西洋を無着陸で飛行可能な長距離旅客機として南アフリカ路線用に開発を依頼したものだった.試作機には米国製プラット&ホイットニー社製ホーネットS1E-G空冷星型9気筒エンジン(875馬力/652.5kW)を4基装備していたが,製造ライセンスを得たBMW132Lが量産機には装備された. Fw200コンドルは乗員は4人で長距離(3500km)を26人の乗客を載せて4360Lの燃料で飛行する旅客機として登場した.フォッケウルフFw200旅客機は,1938年8月10日にベルリンからニューヨークまで6558km(4075マイル)を無着陸で24時間55分で飛行した.なおニューヨーク〜ベルリンへの帰路は,19時間47分で飛行して8月14日にベルリンに戻った.いわば新型民間旅客機のお披露目としてのデモ飛行となった. さらに1938年11月28日にベルリンを出発したFw200は,東京まで3か所(バスラ,カラチ,ハノイ)を経由して所要時間46時間18分で飛行して11月30日に到着した.しかし帰路の第一航程で燃料切れのためマニラ近郊に不時着した. Fw200Aは第2次,第3次試作として9機が製作されたが,2機はデンマークのDDL,2機はブラジルのリオデジャネイロのコンドル・シンジケート航空会社に,残りの5機はドイツ・ルフトハンザに販売された. こうしてFw200Bとして量産がブレーメン工場で開始されたが,BMW製132Dc空冷星型9気筒エンジン(850馬力/633.8kW)を装備していたが,2号機からBMW132H(830馬力/618.9kW)に換装された. しかしルフトハンザの営業路線は短距離ルートが多かったため,Fw200コンドルは同社には大きすぎて採算が合わなかったために,さらに追加注文することはなかった.そのため外国への輸出にも力が入れられた.日本の大日本航空から5機の注文があった.その後にフィンランドのエアロOY航空から2機の注文を得ていた. しかし第2次大戦がはじまってしまったために,これらの注文は納入されなかった. そして適切な長距離海洋哨戒機を開発していなかったドイツ空軍は,Fw200を軍用機に転換して利用することになった.そのためFw200Cは量産が始まっていたが,旅客機から海洋哨戒機に改造してドイツ空軍に納入された.民間機として開発されたために機体強度や乗員保護に問題があったが,軍用機となったFw200は1944年に生産が中止されるまでに276機を製造し,ドイツ空軍に納入されたのは263機だった.もし第2次世界大戦がなければ,ドイツのFw200,米国のL049コンステレーション,DC-4が大西洋横断路線を競合する4発レシプロ・エンジン旅客機の時代が1940年代に到来していたのだろう. |
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運輸省(現在は国土交通省)から個人が所有できる乗用車の開発を促進するための目安として国民車構想(定員が4人または2人で100kg以上の荷物を積み,最高速度100km/h以上で,販売価格が25万円以下)が1955(昭和30)年に発表された.これに応じて自動車メーカーより独自に開発した乗用車が発表された.新三菱重工業(現在は三菱自動車工業として分離独立)が1960年に発売した小形乗用車が三菱500(当時の販売価格は39万円)だった.
モノコック構造ボディに曲面ガラスを採用した本格的な自家用車(総排気量493ccの空冷4サイクル直列2気筒21馬力エンジンを後部に搭載した後輪駆動RWD/4輪独立懸架サスペンション)として前評判はよかったが,販売台数は予想外に伸びず1万5000台弱を生産して,1963年にモデル・チェンジしてコルト600に引き継いだ.まだ軽自動車が排気量360ccの時代だったから小型車は圧倒的に不利な環境だった.1962年に行なわれた第9回マカオ・グランプリ・レースのAクラス(750cc以下)で1〜3位に入賞した.いわば三菱コルト初代の先行モデルである. |




