日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 米国の航空機メーカーだったロッキード社が1940年代に開発したロッキード・コンステレーション(Lockheed Constellation)は, 機体を与圧構造とした大型のレシプロ・エンジンを4基装備した旅客機(乗客は40人)で,「コニー」"Connie"の愛称で呼ばれた.細い機首が主翼付け根部より太くなって後部尾翼に続く曲線的な胴体の形状に, 3枚の垂直尾翼を配置して, 独自の形態とした試作1号機が初飛行したのは1943年1月9日だった.
 米国の航空会社トランス・ワールド航空(TWA:当時はまだTrans Continental & Western Air社)の社長ジャック・フライ(Jack Frye)はDC-4(後にDC-4Eと区別している)プロジェクトに不満があったために,より高速で,高高度を飛行する経済性に優れた旅客機の開発を内密にロッキード社(社長:Bob Gross)と合意していた(仮発注35機).これによってロッキード社のカリフォルニア州・バーバンクの工場で1939年より開発が始まりパンナムも40機を発注していた.真珠湾攻撃によって米国も第2次世界大戦に参戦したために, コンステレーションの開発は遅れて初期型「L049」が1943年に完成したが内装が豪華な点を別にして, 米国陸軍航空隊向けの輸送機「C-69」(軍人63人を載せて3685kmを飛行可能)に変更して納入された.
 ようやく1944年4月17日にハワード・ヒューズはコンステレーションにジャック・フライとTWAのクルーで米国大陸の横断飛行記録に挑戦して6時間57分で実現した.こうして1945年9月までに納入されたC69は15機だった.また1945年8月4日にC-69輸送機にTWAの操縦クルーが搭乗して,ニューヨークからパリまで14時間12分で飛行した.
 第2次世界大戦が終わり, 連合軍側の戦勝国を中心に民間航空が再開され1946年2月にはDC-4旅客機による運航が始まった.ロッキード社は トランス・ワールド航空とパンナムの航空向けにL049(ライト社製R-3350星型18気筒ターボ・コンパウンド・エンジン:2200馬力;B29と同じエンジン)の生産を始めて88機を製作した.速度と豪華な内装に,米大陸を無着陸で横断可能なコンステレーションは米国の国内線では圧倒的な地位を確立した.
 しかしコンステレーションは墜落事故を1945年〜1946年に架けて連続して発生したため,1946年7月から8月の6週間に渡って飛行を停止して原因を追求した.結局ライトR-3350サイクロン・エンジンの発火や過熱が事故原因とされた.
 さらに海外へ飛ぶ国際線においてダグラスDC-6に対抗するために,1947年になるとエンジンを換装し巡航速度を向上させた「L749 "コンステレーション"」(48〜81人乗り)が開発された.この改良型L749も米国空軍の輸送機「C-121」として1948年に採用され, アイゼンハワー大統領の専用機もC-54(DC-4)からVC-121(ColumbineII:コロンバインII)に切換えられた.米国海軍も哨戒機(PO-1W,WV-1)としてL749の導入を決定していた.
 しかし, これでもまだ航続距離は大西洋を無着陸横断するには十分ではなかったために, 1950年には翼端に燃料タンクを追加して胴体を延長した「L1049 "スーパー・コンステレーション"」(109人乗り:ニューヨーク〜ロス・アンゼルス間を直行可能), 1956年には最終発展型の「L1649 "スターライナー"」が投入され,4発レシプロ・エンジン(カーチス・ライト社製ターボ・コンパウンド・エンジン3400馬力/2535kW)を装備した旅客機として頂点を極めたが, 2年後の1958年2月に生産が終了した.なにしろL1649はロス・アンゼルスからロンドンまで北極経由で19時間の無着陸飛行を実現したのだ.ロッキード社は後継機としてL188"エレクトラ"などのターボプロップ旅客機を開発したが,航空会社はボーイング707などのジェット旅客機を導入したため主役から貨物機に変身して去っていった.
 生産が開始された1943年〜1958年までの間に, 民間型, 軍用型合わせて856機(軍用機は331機)が製作された.現在もごく少数が飛行可能な状態で保存されている.

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 ユンカースJ1はヒューゴー・ユンカース(Hugo Junkers)が1915年に試作した単葉・単座の全金属製実験機(メルセデス製DII6気筒88kWエンジンを装備)である.ユンカース社が製作した最初の機体だったが,まだ鋼板(機体の素材は厚さが0.2mmの鋼板を使用)を使用した全金属製単葉機で,支柱や張り線のない片持単葉主翼とした先進的な機体構成になっていた.しかし主翼の翼の付け根が異様に太かった.
 しかも鉄板を使ったために機体の重量は937kgになってしまい,従来までの羽布張りのフォッカー EIIIが400kg程度であるのに比べて重量が過大となってしまった.試作した単葉戦闘機は1915年12月12日に初飛行した.試験飛行において飛行速度が170km/hに達し,この当時の単葉機としては高速を記録したが,逆に旋回性能は非常に悪く, また機体が重すぎて上昇性能も悪かった.
 このころの戦闘機としては,旋回性能と上昇性能の2つが悪いのは致命的で,試作の1機で開発は中止され次の機種J2(軍用コードはE2)の開発に移行した.
 1916年1月にはドイツ軍から全金属製機J1の上昇性能を改善した実験機J2の試作機6機がユンカース社に発注された.J2の試作1号機は1916年7月11日に初飛行した.試作機の試験飛行の結果,戦闘機として1飛行当たりの飛行可能時間を5時間以上にすることを要望された.J2の5機はより強力なメルセデスDIIIエンジン(118kW)を装備して,プロトタイプより少し大きな主翼に改造した.しかしエンジンが重くなったために搭載重量は100kg減少してしまった.結局,J2でもドイツ軍(IDFLIEG:German Airforce)の要求する仕様を実現できないことがわかり,開発は打ち切られた.
 マーダ博士(Dr. Mader)とスタデル(Steudel)が中心となってジュラルミン素材を用いた機体構造を実験するJ3プロジェクトが,1916年の夏にユンカース社の開発資金で単座の戦闘機と複座の偵察機の試作が行なわれた.しかしユンカース社はこのプロジェクトのために1916年10月に経営危機に陥り,開発が中断した.しかしアルミ軽合金パイプ構造の胴体とアルミ軽合金の波形パネル構造の主翼を試作して設計に必要なデータは十分に検討されていた.
 1916年11月にドイツ軍はユンカース社に軽合金製の複葉・複座戦闘機を発注した.これによって,ユンカース社は鉄板構造より6割の重量軽減が可能なジュラルミン(高力アルミニウム)構造を機体に採用した複座の複葉戦闘機J4(ベンツ社製DIV147kW)を1917年に試作した.J4はユンカース社の社内呼称でJ1というのは軍隊のコードである.試験飛行の結果J4は正式にドイツ軍に採用されて1919年2月までに227機が製造された(3機の試作機を含めて).

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 サンバー (Sambar:英語で「大鹿」を意味している)は, 富士重工業が生産している軽商用車シリーズのバン・ワゴン車の愛称である.
 日本の軽自動車は,自動車を社会基盤に根付かせるための重要な入門車として1960年代より普及が始まった.日本の道路事情に見合った自動車の開発を目的として,富士重工業が開発した軽乗用車「スバル360」は,「軽自動車の枠で,普通乗用車と同じ能力を」という前提で製品化されて1958年に発売してユーザーに受け入れられた.当時のスバルやホンダの軽自動車がエンジンのみを拡大して450cc〜600ccとし,北米地域に輸出して好評だったことから,欧米人の体格にも日本の軽自動車サイズで問題はなかったのである.
 これまで過去3度にわたる大幅な軽自動車の規格拡大が実施されたが,1976年1月より排気ガスを抑制するために4サイクルエンジンへの移行(360cc,長さ3m×幅1.3m×高さ2m→550cc,長さ3.2m×幅1.4m×高さ2m),1990年1月から高速道路網への対応やカー・エアコンの普及による余剰出力の確保(550cc→660cc,長さ3.3m×幅1.4m×高さ2.0m),1998年10月から衝突安全性への対応(660cc旧→660cc新,長さ3.4m×幅1.48m×高さ2m)が主たる理由であった.
 初代のスバル・サンバー(空冷2サイクル2気筒/排気量356cc/18馬力)は1961年2月に発売されたが,軽トラックにキャブオーバー構成とした商用車だから,シャーシは一般的な梯子形フレームを用いて,駆動系やサスペンション構成は既存のスバル360の基本ユニットを流用して,エンジンを後部に装備したRWD(後輪駆動)方式,四輪独立懸架だった.サンバーのライトバンは1962年3月に追加された.
 初期のモデルには日本車には珍しく,バックギヤの位置が1速の横(左斜め上)にあったため,バックギヤに切換える操作は独特のものとなっていた.なお,現在のモデルでは他の日本車同様、バックギヤの位置は4速の右となっている.
 1966年に登場した2代目サンバー(ホイル・ベースが167cmから175cmに伸びた)は,米国にも輸出されたが,「サンバー」の車名を使われずに,「SUBARU360 VAN,TRUCK」の名で販売された.そのため米国ではSUBARU360と言うとサンバーを指すことになる.
 サンバーはエンジン位置が運転席から離れているため,静粛性は他社の軽トラックより優れているが,エンジン配置はスペースの制約を受けて,ややタイトである.
1973年2月に3代目サンバー(ホイルベースは173cm)が登場したが,ピックアップ・トラックは廃止された.1976年5月に4代目サンバー(エンジンが490cc)がサンバー5として登場した(輸出仕様はスバル500).
 サンバーは軽自動車の規格拡大に対応してモデル・チェンジを繰り返しながら,現行モデルに至るまで後部床下にエンジンを搭載し,四輪独立懸架を続けている.軽トラックでは,空荷時と荷物搭載時の姿勢差が大きいが,荷台の床下にあるエンジンがバラスト役を果たすことで,空車時でも十分なトラクションを確保して,安定した走行,登坂能力を実現した.また一貫してキャブオーバー方式を通し,セミ・キャブオーバー方式の軽トラックが増加する中で荷台長の大きさを誇っている.
 1980年には,四輪駆動モデルが軽トラックに初めて設定され,日常的に悪路や急勾配での走行を強いられる農業関係者から評価された.以後は競合他社も追随し,軽トラックにおける四輪駆動方式のシリーズ展開は常識化した.また農協系の専売仕様車として「JAサンバー」(かつての「営農サンバー」から名称を変更)が販売されていた.
 2002年9月に発売されたサンバー・ディアス・ワゴンには直列4気筒658ccエンジンが装備されている.
 なおサンバーは軽自動車による小口輸送を行なう「赤帽便」に標準車として用いられているが,赤帽で使用されているモデルの大半はエンジンを酷使し長距離を走るので,耐久性を重視したカスタム化されたエンジンを搭載しており,20万km程度の走行でも特定のメインテナンスにより走れる様に設計されている.
 日本では珍しいスーパー・チャージャー仕様も存在し,これは58馬力を発生する.高速道路の走行も多い赤帽便用などに重用されている.スーパー・チャージャー・モデルは,過剰とも言える動力性能に加え,四輪独立懸架に後部エンジン搭載・後輪駆動(RWD)形式の組み合わせを着目されて「田舎道のポルシェ」などと評されることもあった.しかし,サンバーはエンジン・ルームの有効スペースの問題でインター・クーラーの搭載ができず,競合他車に水をあけられている(2005年現在).
 軽商用車は,空間利用効率という面では軽自動車の規格サイズを目一杯活用したトランスポータとして評価されている.4人乗車して,さらに100kg程度の手荷物も運搬できる便利な汎用車が660ccのエンジンで効率的に移動可能なツールとなっている.

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 英国で蒸気機関が実用化されたころ産業革命が始まり,最初に全鋳鉄製の橋が架けられた.この鉄橋(アイアン・ブリッジ)は現在も当時とかわらない状態で存在し,歩行者用鉄橋として使用されている.
 最初の鉄橋はロンドンから200kmほど離れたイングランドのコールブルックデールにある.鉄橋が完成したのは1779年(7月2日に鋳鉄ブロックのアーチが完成して締結),そして取り付け道路が出来上がって正式に開通したのは1781年(1月1日)だった.この鉄橋の建設は民活方式で行なわれたため,地元の資金で完成し通行料を取ることによって,建設資金を回収するために有料橋として運営された.
 まだ鉄が材料としては貴重な素材だった時代に,武器,農具を別にすれば,鉄を使って橋を作るというのは珍しいことだった.ところで吊橋の主要部材に鉄を使ったのは中国が最初で,記録によると6世紀に船の錨のような鎖を可鍛鉄で作りいくつかの吊橋架けたとされている.
 英国が最初に架けた鉄橋は,すべてが鉄製で,近代の鉄の橋のスタートになっている.
アイアン・ブリッジ(設計者:Thomas Farnolls Pritchard)は渡河幅30.6m,橋の幅が7.5m,使用した鋳鉄の重量が378トンでセバーン川の両岸を結んでいる.鉄橋ができた当時のセバーン川は非常に荒れた川だったらしい.まだ木炭を燃やして製鉄していた時代だから,森林から燃料にする木材を伐採したため,付近一帯を野原にしてしまったためである.そのため毎年のように大洪水が発生していた.
 そんな川に木製の橋を架けてもすぐに流されてしまう.石橋は重いから洪水で足元を洗掘されて崩壊してしまう,ということから軽くて水通しのよい鉄の橋を架けることになったのである.そしてこの鉄橋構想を現実にしたのは,当時としては全盛だった製鉄産業都市コールブルックデールの持っていた地域の活力だったのだろう.
 この鉄橋の形状はこれまでの石造アーチ橋を鉄のブロック置き換えたように見える.また一方で細部の構造は木橋の感覚も受け継いでいるようだ.形式としては,たぶんアーチ橋に分類されるのだろう.橋の部材は半径間を1本もので鋳造しているから,鋳物工場で製作した弓状部材の鋳込み長さは最大で20m余りとなっている.なお当時の材料表によると,鋳鉄のほかに錬鉄も使用されたらしい.クサビやホゾなどの連結材に,木炭で精錬された柔らかい練鉄を使用しているのだ.
 アイアン・ブリッジは完成後すぐに何回も洪水の試練を受けている.しかも橋全体が濁流につかる大洪水だったらしいが,鉄の橋はそのたびに生き残ってきた.
 車両の通行が禁止されたのは1934年になってからだが,馬車や荷車,一時は自動車が橋を渡った時期があったのだろう.歩行者有料通行橋の最後となった債券が民間から地域の自治体に売却されたのは,1950年になっていた.それ以降は英国の文化遺産として管理されて現在まで鉄橋が保存されている.現在では文化遺跡保護のために,同時に200人以上が橋に載らないように注意している.
 コールブルックデールでダービー(Darby)家が石炭による製鉄(コークスを燃料とする製鋼炉)に見通しをつけたのは,18世紀はじめだった.競馬のダービー(Derby)伯爵とは関係はなく,職人系の起業家だったダービー家は,英国で石炭製鉄法を開発して産業革命と関わっている.
 鉄の精錬には木炭を使用していた.日本で行なわれていた「たたら製鉄」も木炭を使用していた.ヨーロッパには石炭が豊富にあったが,石炭に含まれる硫黄が鉄に混入すると,鉄の材質が脆くなってしまうために石炭が使えなかった.ダービー家は18世紀の中ごろになると蒸気エンジンが実用化されたころに,高温操業に耐えるコークス炉を築造し,コークスを完全燃焼させるために蒸気機関を利用した送風を組み合わせることによってコークス製鉄を実用化した.
 こうして英国の産業革命は進み,コールブルックデール製鉄所の鉄の生産量は英国の総生産量の4割を占め,世界最大の規模に達していた.すべてを鉄で構成した橋を架けるにはこのような地元のバックアップがあったのだ.アイアン・ブリッジ建設の出資者で,最強のプロモーターとなったのは,コールブルックデール製鉄所を経営するダービーIII世(Abraham Darby III)だったのだから....
 しかしコールブルックデールの繁栄は19世紀はじめまでだった.コークスを使用した製鉄法が英国全土に普及してしまうと,内陸部に位置する製鉄所は競争力を失ってしまったのだ.
 英国では,アイアン・ブリッジを含めたコールブルックデール一帯の産業遺跡をユネスコの世界文化遺産に登録している(the Ironbridge Gorge Museum Trust).日本は1992年に世界文化遺産制度を批准して自然保護を中心に観光地を登録しているが,明治・大正期の産業遺産も対象に含めてもいいのでは.......

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