日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 第二次大戦中に日本にもA26という長距離実験機(陸軍機扱い)があったが,同じころに米国陸軍でも双発の軽攻撃機にA26というコードをつけた機体があった.

米国陸軍航空隊のDouglas A26

 米国の陸軍航空隊の319爆撃航空団司令のJoseph R "Randy" Holzapple大佐は,第二次大戦の勝利を記念して世界一周飛行を計画した.つまり米国の爆撃機は地球のどこにでも到達できることを世界に証明することにしたのだ.
 双発のダグラスA26インベーダ攻撃機に乗員4人(操縦士はJoseph R. Holzapple大佐, 副操縦士にCharles R. Meyers中佐,航法士兼操縦士はOtto H.Schumacher中佐, 無線通信士にHoward J.Walden)が搭乗して,米国ジョージア州サバナ(1945年11月25日)から東周りで地球を一周してサバナ(11月29日)まで2万4859マイル(4万7km)を96時間50分で飛行した.
 この飛行経路は,サバナ〜ハワイ・ホノルル〜ジョンストン島〜マーシャル環礁〜エニアトク環礁〜サイパン島〜沖縄〜フィリッピン・マニラ〜インド・カルカッタ〜インド・アグラ〜パキスタン・カラチ〜イラン・アバダン〜イラク・バクダッド〜エジプト・カイロ〜チュニジア・チュニス〜モロッコ・カサブランカ〜アゾレス諸島サンタ・マリア〜バーミューダ〜ワシントンDCというコースだった.

民間輸送機A26 Reynolds Bombshell

 ミルトン・レイノルズ(Milton Reynolds:米国の筆記用具メーカー経営者:写真中央)は,この世界一周を見てダグラスA26インベーダ攻撃機を手に入れて世界一周飛行に挑戦して,ハワード・ヒューズの1939年の世界一周記録を更新しようと考えた.まず社用機として自分のA-26を手に入れにReynolds Bombshell(レイノルズ爆弾殻)と名付けて,飛行に関係のない武装を外して燃料タンクを増設した.
 William Odom(写真左)とT.Carroll Sallee(写真右)を飛行士として依頼して,レイノルズも航法士として同乗して世界一周飛行に挑戦することによって自分の企業の広報に利用しようと考えたのだ.こうして3人が搭乗したA26は,米国ニューヨークのラガーディア空港を1948年4月12日に出発した.まず大西洋を横断するためにニューファンドランドのガンダーに着陸して燃料を補給した.小さな機械的なトラブルはあったが,なんとかクリアした.ただ正確な気象情報が得られなかったために,飛行高度を1万9000フィート(5790m)〜2万3000フィート(7010m)としたために乗員が酸素不足に陥り,飛行記録にいくつかの欠落を生じてしまった.
 1947年4月16日にラガーディア空港に無事着陸したが,2万20マイル(3万2219km)を3日6時間55分56秒で飛行した.しかしこの世界一周飛行は,離陸前にFIAのチェックを受けなかったために非公認記録となってしまった.

正式な世界一周飛行記録A26 Reynolds Bombshell

 2回目の世界一周飛行は,ダグラスA26(Reynolds Bombshell:レイノルズ・ボムシェル)をレイノルズ氏から借りて,冒険飛行士ウイリアム.P.オダムが単独で操縦して行なう計画にして,1957年8月7日に飛び立った.前半はオート・パイロット(リトル・ウィリーという愛称をつけた)でビルマ(現在はミャンマー)まで飛行したが,東京までは自分で操縦した.アンカレッジを通過するまで眠ったために,燃料を予想外に消費してしまった.そのためノース・ダコタ州ファーゴで燃料を補給してシカゴのダグラス空港に8月10日に戻って着陸した.
 この飛行距離は1万9645マイル(3万1616km)で,所要時間は3日と1時間5分11秒(73時間5分11秒).
米国空軍は,1948年にマーチンB26マローダ爆撃機が退役した後に,ダグラスA26インベーダ攻撃機の一部を再設計して,爆撃としてB26に改称した.このあとダグラスB26爆撃機は,朝鮮戦争,ベトナム戦争にも参加して1969年まで使用された.民間に放出された多数のA26は,米国やカナダで森林火災時に水爆撃機として利用された.

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 BARホンダF1チームは,日本グランプリ終了後に中国グランプリの前(10月4日〜11日)になるが,2005年仕様のF1(007)レーシング・カーを1台,米国ユタ州のソルトレーク市郊外(北西17マイル)のボンネビル・ソルト・フラット・レース競技場(氷河期のボンネビル湖の残骸が岩塩湖となっている:)に持ち込み,F1レーシング・カーによる速度記録に挑戦する発表した.ドライバーは南アフリカ出身の若手Alan van der Merwe(現在はテスト・ドライバー25歳:ヨハネスブルグ生まれ2003年の英国F3チャンピオン)が担当するらしい. 
 BARホンダF1チームは,速度記録400km/h(249mph)以上を目標にした走行テストを行なうらしい.
現在のF1における速度記録は2005年にイタリアGP前のテスト走行でマクラーレンのファン・パブロ・モントーヤが記録した372.2km/hが最高速となっている.
 アマチュアの速度記録イベントに自動車メーカーが侵入するような気がするが,F1の米国向けの話題作りなのだろうか?しかし,内燃機関で駆動する車輌の絶対速度記録に挑戦するというのは考えられないのだろうか?

自動車部門の絶対速度記録への挑戦は

 現在の地球上の絶対速度記録は,1997年10月15日に英国空軍の戦闘機パイロット,アンディ・グリーン(Andy Green)がスラストSSC(リチャード・ノボル所有:Rolls-Royce Avon 302 Jet engine)に乗ってネバダ州ブラック・ロック砂漠で記録したマッハ1.02(およそ763.035mph=1228km/h)である.しかし,この記録はジェット・エンジンによる推力を利用したものだ.米国人はわかりやすいことを好むから,ジェット戦闘機の主翼を外して地上滑走専用にした車輌だろうが,地上のコースを最速で往復した速度記録が圧倒的速ければいいのだ.
 つまり内燃機関で車輪を駆動する分野では,サマーズ兄弟(Bob/Bill Summers)が1965年11月12日に4基のChrysler HemiV8エンジンを装備して2400馬力としたゴールデン・ロッド(Goldenrod)による409.277マイル/h(658.526km/h)という速度記録が自動車(エンジンで車輪を駆動する)の最高速となっている.
 この記録の前が1960年9月9日にミッキー・トンプソン(Mickey Thompson)がチャレンジャー1(400馬力のポンティアックV8プッシュロッド・エンジンを4基装備)で往路406.6mph(654.4km/h)を記録したが復路ではドライブ・シャフトが折れてしまったために,400マイル/時(mph)の壁を破って米国に速度記録を英国から取り戻したとして米国の記録として大きく取り上げられていたもの.
 その前は,なんと英国のJohn Rhodes Cobb(1899.1202〜1952.0929)が,1947年9月16日に記録した394.19マイル/h(634.196km/h)である.速度記録に使用したレイルトン・モービル・スペシャル(Railton-Mobil Special:排気量4万7872cc)には,涙的型ボディに出力が1250馬力(3600rpm)に達する2基のNapier-Lion航空エンジン(W12気筒24L)にスーパーチャージャを装備したもので重量は3トン(3203kg)を越えている.設計したのは,Reid A Railtonだが,当時の速度記録車をマルコム・キャンベル,パリー・トーマスにも提供した技術者である.S字形バックボーン・シャーシにライオン・エンジンを曲線部に配置して,前後の車輪を2つのエンジンで駆動する4輪駆動方式をとっている.ボディ・カバーはアルミで製作して軽量化した.ジョン・コッブは1938年より絶対速度記録を更新していて,第二次大戦後の1947年に挑戦した際には,400マイル/時の壁を往路で突破して403.1mph(648.8km/h)を記録したが,往路と復路の平均速度がFIAの公式記録になるから,非公式な記録となっている.
 またアマチュアとして,ドン・ベスコ(Don Vesco)が2001年10月18日にガス・タービン(AVCO Lycoming T55ヘリコプタ用:3750馬力)で車輪を駆動するTurbinator(流線形)が458.44mph(737.395km/h)を記録している.レシプロ・エンジンはもう時代遅れということなのだろうか?
 ということになれば,戦艦大和の登場である.モータ・スポーツに遅れた自動車生産国にとっては最後のチャンスだから,自動車メーカーがスポンサーになっても内燃機関で車輪を駆動する自動車による速度記録を更新するレーシング・カーを開発すれば,歴史に名前を残すことができそうだ.しかもドイツのVW社当たりはW12気筒エンジンを量産しているから,これをベースに600馬力程度に出力を増加させて,軽自動車並みのボディ(500kg)で一人乗りの記録挑戦車を開発するような工業高校の同好会なんてのは,ないのだろうか?皇室向けのリムジンを開発するより,はるかにわくわくする計画ではないか.

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 フランスのアエロスパシアル社(2000年に合併により統合されてEADS社:European Aeronautic Defence and Space Company)とイタリアのアエリタリア社(現在はアレニア社)が共同でリージョナル旅客機を開発することで合意してフランスにATR社を設立した.このコンソーシアムの第一弾となる双発のターボプロップATR-42旅客機(42席)を1981年11月4日に発表して開発が始まった.
 まずATR-42の試作機を2機製作したが,1984年8月16日に初飛行した.イタリアとフランスで型式証明を1985年9月に取得して,ATR-42の第一号機を航空会社に納入して運航が始まったのは1985年12月9日になっていた.
 ところで長胴タイプのATR-72(乗員2+乗客74人)はATR42の胴体を4.5mストレッチして主翼を改造したシリーズで,1985年のパリ・エアショーで発表し,試作機が初飛行したのは1988年10月27日だった.1年後の1989年10月27日にフィンランドのコミュータ航空会社KarAirが最初にATR-72を就航させた.
 ATR-72-200(PW-124B:2160馬力/1610kW)が標準型,ATR-72-210(PW-127:2480馬力/1850kW)はエンジン強化型,ATR-72-500(72-210A/PW-127F:2750馬力/2051kW )搭載重量を増やし飛行性能を改善した型,ATR-72貨物機(コンテナ13個:有償重量7200kg)はファンボロー航空ショーで発表されたが荷物室のドアを大きくしたものである.
 1993年に米国イリノイ州でATR-72が氷結事故で墜落事故を起こしたが,その後氷結防止装置を主翼に追加することで問題を解決した.
 1996年までは42人乗りの標準タイプのATR-42-300(PW-120:1800馬力/1340kW)が中心で,試作機よりも離陸重量と有償搭載量と航続距離を改善していた.同じ時期にATR-42-320はより強力なPW-121エンジン(1900馬力/1417kW)を装備して,高温時や標高の高い場所での運航を容易にしていた.ATR-42の貨物機型は,42-300(コンテナ9個+有償荷重4000kg)になるが,貨物から乗客輸送への装備変更が短時間に行なるシステムとなっていた.
 さらに性能向上型ATR-42-500は1995年10月より納入が始まったが,より高出力なPW-127Eエンジン(2160馬力/1610kW)を装備することによって,6翅の複合材プロペラによる駆動で巡航速度を565km/hに引き上げ,航続距離を1850kmとし,EFISコックピットを採用した.またストレッチタイプのATR-72の昇降舵と方向舵に換えて,新しいブレーキと降着装置に主翼と胴体を強化した.
 リージョナル旅客機のコンソーシアム「エアロ・インターナショナル」(AI)社を1996年1月にATR,アブロ,ジェットストリームの3社で設立して,ATR社,アブロ社のRJ,ジェットストリーム41の販売と支援を共同で行なったが,1998年中ごろに解散して,ATR社は単独で営業活動を続けている.
 2004年12月時点ではATR-42を392機,ATR-72が347機を販売し,2005年度には51機を受注している.
日本の航空会社はATRを導入していないが,韓国の韓星航空が清洲〜済州島路線にATR-72を就航させている.

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 英国の空軍少佐オズワルド.R.ゲイフォード(Oswald.R. Gayford)と空軍大尉ニコレット(Gilbert Edward Nicholetts)は,フェアリ長距離単葉機MkII(ネピア・ライオンW12気筒25L530馬力)を操縦して,1933年2月6日〜8日に英国・クランウェル(Cranwell)〜南アフリカ・ナンビアのウォルベス・ベイまで8544km(5309マイル)を57時間25分で無着陸飛行して,長距離飛行記録を更新した.英国空軍としては,3度目の挑戦でようやく取り戻したという世界記録である.
 この長距離記録の前には,英国空軍少佐O.R.ゲイフォードは空軍大尉D.L.Gベットが,フェアリ単葉長距離機(ネピア・ライオンエンジン530馬力を装備した単発機)に搭乗して1931年10月27,28日に英国リンカーン・シャーのクランウエルからエジプトのアブ・シェーまでの4600km(2857マイル)を無着陸飛行した実績があった.

長距離飛行記録への挑戦は1930年代に

 英国のフェアリー単葉長距離飛行機は,すでに空軍少佐A.G.ジョーンズ・ウィリアムズと空軍大尉N.H.ジェンキンスが1929年4月24〜26日に英国〜インド間を無着陸で6647km(4130マイル)を50時間37分で飛行した記録から競争が始まった.
 この長距離飛行記録は,フランス人のデユドネ・コント飛行士(1927年に南大西洋をセネガルからブラジルまで横断飛行した)によって1年足らずで更新された.コント飛行士は1930年9月27日にパリをスタートしてモンゴルのチチハルまで飛行して11月21日に戻ってきたのだが,ブレゲー19(ロレーヌ12Ed450馬力を装備)のクエスションマーク号で7905km(4912マイル)を無着陸で51時間39分で飛行したのだ.これはパリから満州里まで7905kmを無着陸で飛行し,東京まで飛行する予定だったが,偏西風が強かったためにチチハルで中止してしまったのだ.
 しかしフランスの記録もすぐに2人の米国人ラセル・ボードマンとジョン・ポーランド飛行士がベランカ単葉機(ライト社サイクロン9気筒300馬力を装備したコド岬号:搭載燃料は2725L/720ガロン)で,1931年7月28日にニューヨークのブルックリンにあるフロイド・ベネット飛行場を出発してトルコのイスタンブールまで無着陸飛行して更新してしまった.米国人はコントよりもさらに100マイル遠く飛んだために着陸時には1パイント(0.5L)の燃料しかタンクに残っていなかったという.ベランカ単葉機で大西洋と欧州を横断してアジアのイスタンブールまで8066km(5011.9マイル)を50時間8分で飛行した.

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複葉機はアブロ・アビアン改造機

 H.J.L.バート・ヒンクラー(Herbert John Louis 'Bert' Hinkler:1892〜1933:オーストラリアの名誉空軍少佐)飛行士は,英国のクロイドンからオーストラリアのダーウィンまで1928年2月7日〜22日(15.5日)の日程でアブロ・アビアン単発複葉機(Cirrus Mk.IIエンジンを装備)に搭乗して単独で飛行して,イタリア,マルタ,リビヤ,インド,ビルマ,シンガポールを経由して1万7700km(1万1450マイル)を無事に飛び到達した.実飛行時間は129時間だから平均飛行速度は,82.5mph(128km/h).ヒンクラー飛行士は,経由地のインドで単独飛行のメモを現地の新聞に投稿したが,それによって「孤独な鷹(Lone Eagle)」として,このあとで大西洋単独横断飛行に成功するリンドバーク並みの話題となった.
 この長距離飛行を記念してヒンクラー飛行士が使用した複葉機(アブロ・アビアン)は,現在もオーストラリアのブリスベーンにあるクィーンズランド博物館に保管展示されている.

単葉小型機はDH80プス・モス

 ヒンクラー飛行士はさらに1931年に英国製のデハビランド社製DH80プス・モス単発単葉小型機(GipsyIII/129馬力)でカナダから英国まで南大西洋を単独で10月から12月に掛けて横断飛行に成功した.このプス・モス単葉機は1931年にアミー・ジョンソン(Amy Johnson)飛行士が東京までの長距離飛行を行ない8日22時間35分で到着している.さらに1932年には,ジム・モリソン(英国グラスゴー出身の飛行士:Jim Mollison)が東から西に(英国から米国)大西洋を単独で横断飛行にプス・モス単葉機を使って成功している.
 しかしヒンクラー飛行士は,プス・モス単葉機で英国からオーストラリアまでの単独飛行中に1933年1月7日にイタリア・アペニン山脈のプラトマグノ山に墜落して死亡した.

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