全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
1911年にニューヨークからカリフォルニア州ロング・ビーチまで北米大陸を最初に飛行機で横断したのは,カルブレイス.P.ロジャース(Calbraith Perry Rodgers:1879-1912)飛行士で,ライト社が製作した複葉機で「ビン・フィズ・フライヤー」(the Vin Fiz Flyer:2枚の2.4mの推進式プロペラをエンジン(35馬力/26kW)でチェーン駆動して回転させ,速度72〜97km/hで飛ぶ)で行なった.
まず動機は,新聞社社長のWilliam Randolph Hearstによって,東海岸から西海岸まで30日以内に飛行機で横断したら5万ドルの懸賞金が掛けられていたことである. ロジャース飛行士を支援する3両編成の鉄道列車にはVin Fizの4機分のスペア部品を用意して飛行機とともに米国内を移動した.当時の飛行機にはまだ航法支援装置はないから,地上の鉄道線路などを目視で確認して経路を決めていた. 飛行距離が増えるに従って事故や故障が続出し,11月5日にロング・ビーチに着いた時には原型機のオリジナル部品はわずか2点が残っているだけだった. ニューヨークのブルックリンのシープシード湾を9月17日の日曜日午後にスタートして,ニューヨークからシカゴ,テキサス州のサンアントニオまで下って米国の南側国境沿いにカリフォルニア州ロングビーチまでの経路を飛行した.この経路をとることで山岳地帯を完全に避けたため地形面での障害はなかった. これで北米大陸の横断飛行は9月17日〜11月5日の日程でカリフォルニア州パサデナまで5455km(3390マイル)を実飛行時間82時間4分で到達した.49日間を掛けて69か所を経由して17回の着陸墜落事故(ロジャーズは認めないが,着陸事故であることはまちがいない)により複葉機の修理を繰り返して西海岸に到達した.平均飛行速度は82km/h(51mph)ロジャースの1日の最長飛行記録は10月28日のサンダーソンからテキサス州のシェラ・ブランカの372km(231マイル)だった. ロジャーズはこの時点でハーストの賞金は無効になった.しかし後援したArmour(清涼飲料水メーカー)社が2万ドル上乗せして賞金を払った.もちろんArmour社のポスターや広報宣伝には協力した.ロジャーズの存在価値は,墜落事故を繰り返しても生き残ったことで人気を得ていたのだ. さらにロジャース飛行士はカリフォルニア州コンプトンで11月12日に墜落し,ひどい怪我をしてしまった.このために計画より28日遅れてしまった.ようやく12月10日にカリフォルニアの海岸まで飛行して6400kmの大陸横断を完了した. 残念ながらロジャーズは,飛行機の墜落事故で1912年4月に死亡した. さらにロジャースに引き続いて西海岸から東海岸までの北米大陸横断飛行をロバート.G.フォウラーがロス・アンジェルスからフロリダ州のジャクソンビルまで4056km(2520マイル)を112日間掛けて,1911年10月19日〜1912年12月2日に実行した.
|
|
吉原清治操縦士が報知新聞社の後援を受けて,ベルリン〜東京の単独母国訪問飛行を1930(昭和5)年1月に計画を立て,ドイツに渡りユンカースA50(全金属製応力外被構造:Armstrong-Siddeley社GenetII80馬力/63kW)を購入し,単座の長距離飛行用に改造して報知号(航続距離1500km)と名付けた.登録記号は初めドイツのD13,後に日本でJ-BECB.
吉原操縦士は単独でベルリン〜立川飛行場間1万1400kmを11日間,実飛行時間79時間58分で1930年8月20日〜30日の日程で飛行して,初の母国訪問飛行を実現した. さらに1931(昭和6)年には,報知新聞社が企画した北大平洋を飛び石伝いに横断飛行する使用機としたユンカースA50の水上機型を報知日米号(J-BENB)と命名した.こうして,吉原操縦士が単独で羽田飛行場を5月14日に出発したが,千島列島の新知島付近で発動機が故障したために不時着水し,漂流7時間余で日本の汽船に救助された. 同じ型式の第2報知日米号を,船で遭難地である新知島に運び,そこから飛行を継続して北太平洋を横断飛行する計画だったが,7月6日に根室港でテスト飛行中に,浮舟を破損したため,ふたたび坐折し,単発水上機のユンカースA50による太平洋を横断する計画は中止された. 報知新聞社ではその後で同社の通信連絡機としてユンカースA50を使用し第6報知号,第7報知号とした.このほかにも海軍が試用したA50があり,型式名はKXJ1とした. A50はユンカース社の営業部門のジョン・アルツェンのアイデアで全金属製のスポーツ競技用単葉機として開発され,1929年2月13日に初飛行した.ユンカース社ではA50を汎用スポーツ機として5000機製作する計画だったが,69機製作して製造を中止し50機を販売した.A50を購入したのはフィンランド,スイス,日本,ポルトガル,南アフリカ,英国,ブラジル,オーストラリアなどがドイツから輸出された. なおA50は,1930年にFIAが公認した世界飛行記録を残している. ・高度記録:到達高度4614m(2人乗り:1930年6月4日),到達高度5662m(単独飛行:同日) ・滞空飛行時間記録:8時間25分(2人乗り:1930年6月6日) ・900kmを平均速度164.3km/hで長時間飛行 ・単独飛行で16時間29分の滞空飛行時間を記録(1930年6月13日) ・2100kmを平均速度165.44km/hで長時間飛行(1930年6月16日) |




