日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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9人乗りの双発ジェット機MU300

 三菱重工業ではMU-2を販売していた1969年にひとクラス上のビジネス・ジェット機を計画し,最高速度は時速500マイル(約800km/h),広い客室を備え,高い燃費効率,経済性を持った機体の開発を考えた.プロジェクトチームが米国の市場調査企業にビジネス・ジェット機のニーズを詳細に予測したレポートより「MU将来開発計画書」が完成した.こうしてCAD・CAMシステムを駆使してコンピュータ設計を行ない,空気抵抗を考慮した機体形状,優れた操縦性能と,速い巡航速度805km/h,MU-2より一回り大きな機体となるMU300は,ゆったりとした客室と,競合機より数%低い燃費効率を持つ双発のビジネス・ジェット機が開発された.
 しかし,ビジネス・ジェット機分野にはグラマン,ロックウェル,セスナ,ビーチクラフト,ゲイツリアジェットなどがしのぎを削って競争しており,困難な挑戦となったが,MU300では3段階に分けて開発を進め,第1段階では基礎設計を行ない,第2段階では4機の試作機を製作して性能を確認した.第3段階は全ての条件をクリアしてから生産体制に移行する.それぞれの段階で慎重に経営判断をして,いつでも中止可能な体制で損失を最小にしようとした.
 1976年より開発に着手し,1977年8月29日に試作機が初飛行した.2年間の性能試験を経て,経営首脳は量産への移行を1979年5月に許可した.米国連邦航空局(FAA)の審査を受けるために試作2号機を6月に米国に送り,8月には耐空審査に合格した.米国はオイルショックから立ち直り,好景気を迎えており,現地法人MAI(三菱アメリカ・インダストリー)も販売網の整備も進めた.MU-2の実績もあり受注が順調に増加し,公式試験を経て型式証明を取得できれば量産して販売するはずだった.

◇DC10墜落事故の影響

 ところが1979年にはマクダネル・ダグラス社のDC10旅客機が貨物室ドアの欠陥により,シカゴとパリで相次いで墜落し,数百人が死亡した.ダグラス社の企業体質だけでなく,FAAの審査基準に問題があったのではないかと,連邦議会でも追及された.そのためFAAは,審査基準を大幅に見直すことなり,航空機メーカーは動揺していた.
 しかし小型ビジネス・ジェット機メーカーでは,新しい基準はダグラス社やボーイング社などの大型旅客機に適用するもので,ビジネス・ジェット機には無関係だと考えていた.三菱重工もMU300には自信を持っていたため,事故や議会の追及後も機体の改修などを伴う設計基準の再検討も行なうことなく,FAAが動き出すのを待っていた.
 しかし,FAAは全ての機体への審査基準を厳しくすると発表した.これはMAIにとっては大きな誤算だった.8月の耐空試験から9か月も経って,飛行試験の許可を得たが,MU300は基準改正後の試験対象第一号となり,航空機メーカーより多大な注目を集めた.しかも,その試験自体が FAAも判断に迷う内容が多く,解釈をめぐってFAA内で延々と議論を続けたため,335時間,17か月に及ぶ膨大な時間を費やした.1980年9月には110機の仮受注を受けていたが,MAIは焦ったが,手直しや設計変更がほとんどの部分で発生したため,型式証明を取得したのは1981年に入ってからだった.
 日本で販売した時期は,第2次オイルショック後の円高不況で,読売新聞社が購入したが,売上は伸び悩んだ.
海外では「ダイヤモンドI」の名で販売したが,期待した米国市場はFAA審査に手間取っている間に状況が一変し,高金利政策により不況に陥り,航空業界も軒並み経営悪化,ビジネス機の需要は皆無となっていた.さらにFAA審査に手間取ったことで,MU300への信頼が低下し,納入の遅れによって契約のキャンセルが相次いだ.高額なビジネス・ジェット機の受注は半ば投機的なもので,見通しが狂えばキャンセルするのはこの業界の常識だったが,MAIは発注取り消しに対する有効な手段を考えていなかった.
 不況によってビジネス・ジェット機の需要は頭打ちになり,一方の航空会社は,全米の空港をコンピュータ・ネットワークで結んだ「ハブシステム」を導入し,主要空港での乗り継ぎの便を良くするなど,新たな戦略を打ち出してきた.ビジネス・ジェット機市場は大メーカーでさえ生き残りをかけた非情なリストラ策を講じるほかなく,MAIも追い詰められた.
 役員会において現地法人MAIの清算も検討されたが,このときMU-2で発生した赤字を含めて,100億円の負債を抱えていた.機体の開発費だけでなく,販売網やサービス・ネットワークの構築によって発生した赤字は,MAI単独で負担できるものではなくなり,他の部門から航空宇宙部門への不満が発生していた.新MAIとして再建し,MU300の性能向上型として「ダイヤモンドII」を1983年4月に発表し試作機が1984年6月20日に初飛行し,量産1号機は1985年1月に初飛行した.ところが新モデルはほとんど売れず,開発費がそのまま赤字に上乗せされて,もはや会社の継続は困難となった.小型ビジネス機業界は軒並み経営危機にさらされ,1985年12月にセスナ社がゼネラル・ダイナミックス社に,デハビラント・カナダ社はボーイング社に,ガルフストリーム社はクライスラー社がそれぞれ買収して次々に再編が進められていた.

Beech Jet 400

 MAIも防衛企業レイセオン社の子会社となったビーチクラフト社と提携し,ビーチ社の販売網を利用することにした.こうしてビーチ社は,MU300をすべてBEECH JET400(ビーチ・ジェット)の名で販売し,商品から三菱の名前を消した.さらに販売済みのMU-2とMU300のアフターサービスもビーチ社が引き受け,MAIの業務は縮小し,段階的に業務をビーチ社に移管し,テキサス州サンアンジェロの自社工場を閉鎖し,1986年に米国の販売から完全に撤退した.ビーチ社は日本から搬送された機体に,独自の内装を施して販売し,また過去にMAIが販売したMU300もすべてビーチジェット400に統合した.
 ビーチ社に移管するまでにダイアモンドIIは11機が製作された.1986年6月よりビーチジェット400モデルとして納入が始まった.三菱重工は1988年2月に設計を含めた生産プロセス全てをビーチ社に売り渡し,日本国内での販売も終了した.これで三菱重工は小型ビジネス機分野から完全に撤退し,MU300は101機を販売したが膨大な赤字を抱え込んでしまった.
 ビーチジェットは米国向けにリファインした次期モデル400A(Pratt & Whitney Canada JT15D-5)が1990年11月より納入が始まるまで販売は低調だった.ところが1990年になるとビーチジェット400(乗員2+乗客8人)は,米国空軍が練習機にT-41(現在は,T-1Aジェイホーク)として採用したのをきっかけに注目を集め,1990年代には日本が不況に喘ぐ一方,米国の空前の好景気に支えられて売上を伸ばした.もちろん,MU300ダイヤモンドでは空軍は対象外だったから,ビーチ社ほどに販売数量を伸ばしたかは不明だ.民間向けのビーチジェット400Aは1986年から258機を製作している.400Sは64機を納入している.
 レイセオン社ではさらに豪華な内装にしたビーチジェット400Sを1996年に追加した.ビーチジェット400Aは空軍向けT-1Aジェイホーク(輸送機乗員訓練用)として1992年〜1997年に180機を納入した.もちろん日本の航空自衛隊も12機のビーチジェット400T(T-400)を導入している.

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◇機械は動かないと....

●プロペラ旅客機
国産の双発ターボプロップ多用途輸送機は成功したが....
4人乗りの軽飛行機にこりて,軍用機を地道に受注する航空機メーカー
ブラジルの航空機メーカー製コミュータ旅客機は西瀬戸内海路線に1987年
複葉機からエヴェレストの山頂を眺めたのは1933年だったが....
南太平洋横断は1928年にフォッカーF7/3mで,ハワイ,フィージを経由した
米国製のビーチクラフト1900Dは北海道のコミュータ旅客機になった
ドイツ製の19人乗りコミュータ旅客機は離島路線に就航中
カナダ大陸横断飛行は1920年にカナダ空軍が実施した
1980年代に離島路線を飛んだ,オーストラリア製の16人乗りコミュータ旅客機
ジェット機並みの性能をもっていても,ターボプロップ旅客機の時代は終了
単発の尾輪式軽飛行機は遊覧飛行用としてまだ運用されている
レシプロ・エンジンの単発機が,スカイタイピング巡業するのは8月一杯
米軍は航空法の適用除外される存在って,宗主国なのか?
離島のコミュータ輸送機は双発のレシプロ・エンジン機が担当している
英国製双発ターボプロップ小型旅客機JS31ジェットストリームは2003年8月に去っていった
レシプロ・エンジンの9人乗りの飛行機に乗るために日本の最南・最北端へ行ってみよう
奥尻島までツイン・オッターで飛んでみないか?06年3月までで退役してしまうから
ANAグループのエアーセントラルが名古屋を中心Fokker50を運航している
日本国内航空が導入したターボプロップ双発旅客機はフランス製
フォッカーF27フレンドシップ双発旅客機がDC3から新時代へ移行した
ガス・タービンで駆動するターボプロップ旅客機が国内線に導入されたのは1960年
最後のレシプロ国際線旅客機となったDC-7C,ジェット旅客機ボーイング707が登場する
コンベア社CV340/440双発旅客機は,国内幹線に投入された
ローカル線に導入された次世代双発旅客機コンベアCV240
極東航空が2機購入したハンドレー・ページHP.R1小型4発旅客機
英国製の小型4発旅客機デ・ハビランドDH114が導入された
地域の定期航空路線向けの小型旅客機によって民間航空はスタートした
DC-4を3.5mストレッチしたのがDC-6B旅客機で国際線に投入された
ダグラスDC-4旅客機が民間定期航空路線の主力に
双発旅客機マーチン202が定期航空路線に就航したのは1951年

●航空発展史
ポーランドの単発小型機が南大西洋を単独横断したのは,1933年だった.
1930年に米国,ユーラシア大陸を単発複葉機で単独横断飛行した東善作
カナダ大陸横断飛行は1920年にカナダ空軍が実施した
単発の複葉機でアラスカ・ノームまでを往復飛行したのは1920年の夏
北米大陸を1923年に無着陸横断したのはフォッカーT-2単発単葉機だった
旅客機を爆撃機に改造したのは,第一次大戦後に前例があった
巨大旅客機ユンカースG38は重爆撃機に改造された
学生が1万4000kmを国産複葉機で羽田からローマまで飛んで行ったのは1931年
最初の民間旅客機は3人乗りの複葉機
●メデイア
マイナーなラジオは独立したメディアとして継続されるか?
●自動車
1906年に行なわれたフランスGPで優勝したのはルノーAK90cv
4輪駆動車による地球上の最高地点への到達記録は6080m
●腕時計
腕時計は機械でなくなってしまうのか

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 1911年にニューヨークからカリフォルニア州ロング・ビーチまで北米大陸を最初に飛行機で横断したのは,カルブレイス.P.ロジャース(Calbraith Perry Rodgers:1879-1912)飛行士で,ライト社が製作した複葉機で「ビン・フィズ・フライヤー」(the Vin Fiz Flyer:2枚の2.4mの推進式プロペラをエンジン(35馬力/26kW)でチェーン駆動して回転させ,速度72〜97km/hで飛ぶ)で行なった.
 まず動機は,新聞社社長のWilliam Randolph Hearstによって,東海岸から西海岸まで30日以内に飛行機で横断したら5万ドルの懸賞金が掛けられていたことである.
 ロジャース飛行士を支援する3両編成の鉄道列車にはVin Fizの4機分のスペア部品を用意して飛行機とともに米国内を移動した.当時の飛行機にはまだ航法支援装置はないから,地上の鉄道線路などを目視で確認して経路を決めていた.
 飛行距離が増えるに従って事故や故障が続出し,11月5日にロング・ビーチに着いた時には原型機のオリジナル部品はわずか2点が残っているだけだった.
 ニューヨークのブルックリンのシープシード湾を9月17日の日曜日午後にスタートして,ニューヨークからシカゴ,テキサス州のサンアントニオまで下って米国の南側国境沿いにカリフォルニア州ロングビーチまでの経路を飛行した.この経路をとることで山岳地帯を完全に避けたため地形面での障害はなかった.
 これで北米大陸の横断飛行は9月17日〜11月5日の日程でカリフォルニア州パサデナまで5455km(3390マイル)を実飛行時間82時間4分で到達した.49日間を掛けて69か所を経由して17回の着陸墜落事故(ロジャーズは認めないが,着陸事故であることはまちがいない)により複葉機の修理を繰り返して西海岸に到達した.平均飛行速度は82km/h(51mph)ロジャースの1日の最長飛行記録は10月28日のサンダーソンからテキサス州のシェラ・ブランカの372km(231マイル)だった.
 ロジャーズはこの時点でハーストの賞金は無効になった.しかし後援したArmour(清涼飲料水メーカー)社が2万ドル上乗せして賞金を払った.もちろんArmour社のポスターや広報宣伝には協力した.ロジャーズの存在価値は,墜落事故を繰り返しても生き残ったことで人気を得ていたのだ.
 さらにロジャース飛行士はカリフォルニア州コンプトンで11月12日に墜落し,ひどい怪我をしてしまった.このために計画より28日遅れてしまった.ようやく12月10日にカリフォルニアの海岸まで飛行して6400kmの大陸横断を完了した.
 残念ながらロジャーズは,飛行機の墜落事故で1912年4月に死亡した.
 さらにロジャースに引き続いて西海岸から東海岸までの北米大陸横断飛行をロバート.G.フォウラーがロス・アンジェルスからフロリダ州のジャクソンビルまで4056km(2520マイル)を112日間掛けて,1911年10月19日〜1912年12月2日に実行した.

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DHC-6ツイン・オッター

 
デ・ハビランド・カナダ社(現在はボンバルディア社)が単発機DHC-3オッター(1951年に開発)を双発化して,1965年に開発した双発ターボプロップ多用途輸送機(プラット&ホイットニー・カナダ社製PT6A-27タービン460kW/620馬力)である.胴体は単発のオッター(かわうそ)をそのまま流用し,エンジンを双発にすることにより400m程度の滑走路からでも離着陸できるSTOL性を獲得し,19人乗りコミュータ旅客機として日本では北海道と沖縄の離島路線に導入された.1988年に生産を終了しているが,シリーズで合計844機が製作された.日本には1973年よりデ・ハビランド・カナダ社製DHC-6-300を7機輸入して,南西航空(1993年7月に社名を変更して現在は日本トランス・オーシャン航空),日本近距離航空(1987年4月に社名変更によりエアーニッポン),琉球エアコミューター(2002年1月23日まで運航)が導入し運航していた.最後の1機となったDHC-6ツイン・オッターは,エア北海道(エアーニッポンの函館〜奥尻島,稚内〜利尻島,稚内〜礼文島路線を1994年4月より引き継ぎ)が現在でも函館〜奥尻島間で運航しているが,2006年3月には退役する予定となっている.

離島の航空路線は自治体が運航するバス路線と同じなのか

 奥尻島の奥尻空港は,1974年9月より800m滑走路が完成し,日本近距離航空(1987年4月に社名を変更してエアーニッポン)が10月からを奥尻島〜函館〜札幌線を開設した.この路線に就航したのはデ・ハビランド・カナダ社(現在はボンバルディア社)DHC-6ツイン・オッターという双発のターボプロップ・コミューター機(乗客19人)である.
 1993(平成5)年7月12日に,「北海道南西沖地震」が発生し,津波とともに奥尻島全域にわたって大きな被害を与えた.しかし,復興事業が順調に進み,1998(平成10)年3月に「復興宣言」が行なわれ,観光客も年ねん増えて,地震・津波災害前の奥尻島に戻ろうとしている.
 奥尻空港は,1974(昭和49)年に第3種空港(奥尻町管理)として使用が始まってからは奥尻島の生活を支える交通手段として飛行機は重要な地位を占めている.また,北海道南西沖地震発生時には救難活動の拠点として利用された.
 これまでは函館空港からDHC-6が通年運航しており,復興宣言後は,街並みも揃い,新しい観光施設も整備されている.
エアー北海道は1994年9月から奥尻島〜函館間の離島航空路線の運行を担当してきた.
 現在の奥尻空港は1999(平成11)年から滑走路を1500mに延長する空港拡張工事を始めて,2004(平成16)年3月より800mの滑走路として新滑走路を利用している.2006年3月には1500m滑走路が完成する予定である.
 ところがこの奥尻島〜函館航空路線はエアー北海道(ADK:1994年設立されエアーニッポンの路線を引き継いだ)が運航して1日に4往復(8月の観光シーズン)している.しかしADKの経営状況は2004年3月期決算を見ると,4300万円の債務超過となっている.このため5月以降は本格的に路線の撤退を検討してきた.北海道では第3セクターの北海道エアシステム(HAC)に,ADKの路線を継承するよう要請していた.
 函館〜奥尻島線の存廃については,北海道エアシステムが2006年4月より現在運航しているエアー北海道(ADK:函館市高松町)の事業を引き継ぐことを発表している.HACでは年間通して運航する予定らしいが,運賃やダイヤは検討中でまだ未定.なおHACでは就航の2か月前までに計画を立て,東京航空局に認可申請することになる.
 HACの使用機材は,これまで運航してきたADKの双発プロペラ機「DHC-6」(19人乗り)より大型の「サーブ340B」(36人乗り)を投入する予定だから,運航体制は現在の1日2〜3往復ではなく,機材の大型化により1〜2往復になるだろう.

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 吉原清治操縦士が報知新聞社の後援を受けて,ベルリン〜東京の単独母国訪問飛行を1930(昭和5)年1月に計画を立て,ドイツに渡りユンカースA50(全金属製応力外被構造:Armstrong-Siddeley社GenetII80馬力/63kW)を購入し,単座の長距離飛行用に改造して報知号(航続距離1500km)と名付けた.登録記号は初めドイツのD13,後に日本でJ-BECB.
 吉原操縦士は単独でベルリン〜立川飛行場間1万1400kmを11日間,実飛行時間79時間58分で1930年8月20日〜30日の日程で飛行して,初の母国訪問飛行を実現した.
 さらに1931(昭和6)年には,報知新聞社が企画した北大平洋を飛び石伝いに横断飛行する使用機としたユンカースA50の水上機型を報知日米号(J-BENB)と命名した.こうして,吉原操縦士が単独で羽田飛行場を5月14日に出発したが,千島列島の新知島付近で発動機が故障したために不時着水し,漂流7時間余で日本の汽船に救助された.
 同じ型式の第2報知日米号を,船で遭難地である新知島に運び,そこから飛行を継続して北太平洋を横断飛行する計画だったが,7月6日に根室港でテスト飛行中に,浮舟を破損したため,ふたたび坐折し,単発水上機のユンカースA50による太平洋を横断する計画は中止された.
 報知新聞社ではその後で同社の通信連絡機としてユンカースA50を使用し第6報知号,第7報知号とした.このほかにも海軍が試用したA50があり,型式名はKXJ1とした.
 A50はユンカース社の営業部門のジョン・アルツェンのアイデアで全金属製のスポーツ競技用単葉機として開発され,1929年2月13日に初飛行した.ユンカース社ではA50を汎用スポーツ機として5000機製作する計画だったが,69機製作して製造を中止し50機を販売した.A50を購入したのはフィンランド,スイス,日本,ポルトガル,南アフリカ,英国,ブラジル,オーストラリアなどがドイツから輸出された.
 なおA50は,1930年にFIAが公認した世界飛行記録を残している.
・高度記録:到達高度4614m(2人乗り:1930年6月4日),到達高度5662m(単独飛行:同日)
・滞空飛行時間記録:8時間25分(2人乗り:1930年6月6日)
・900kmを平均速度164.3km/hで長時間飛行
・単独飛行で16時間29分の滞空飛行時間を記録(1930年6月13日)
・2100kmを平均速度165.44km/hで長時間飛行(1930年6月16日)

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