日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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日本語の訳本が出たのは1982年12月

== (原本は1976年: The Tale of Two Bridges & The Battle for The Skies Over North Vietnam )で,米空軍の公刊戦史本なのだ.国防物といえば,そう原書房からで当時の定価が1500円.==
たぶん公立図書館ならまだ置いてあるのでは?(戦争コーナか軍事に)
 北ベトナムの2つの橋, ポール・ドーマー橋 タン・ホア橋 に対する航空攻撃と防空作戦が記述されている.30年前の戦争において航空機による戦いがどんなものか報告されている.ジェット戦闘機同士の空中戦がどのように行なわれるかを具体的に理解できる.

=== 訳者は難波皎(なんば・きよし)さんで,1938年生まれの航空自衛隊幹部学校教官(当時).===

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航空機用エンジンの試作

  岸一太 (岡山県御津郡大野村出身:岸熊三郎の長男,1874年生れ)は,岡山医学専門学校を1897年に出てドイツに遊学し耳鼻咽喉科を修め,医学博士の学位を1906(M39)年7月に受け,帰国して耳鼻咽候科病院(東京市築地明石町)を1913年に開業した.彼は刀剣,機械や自動車の改造などに関心を持ち,趣味としていた.富山県剣岳山中の池ノ平周辺に鉱山(輝水鉛鉱モリブデン)を開発し,1914(大正3)年ころモリブデン鋼を使った素材でルノー70馬力発動機の試作を繰り返していた.秋の10月半ばからおよそ2トン半の銑鉄と3トン余のコークスを使用して,鋳型を300本造り気筒の鋳造を繰り返した.もちろんエンジンの機構部品や発電機,クランク・シャフトも自作した.こうして,1915(大正4)年11月19日にエンジンの試作に成功した.
もちろん機体の試作にも手をつけており,原愛次郎,佐々木利吉工学士や長沼豊丸,山田米太郎,宗里悦太郎技帥らの協力で,「つるぎ号」(岸式第1つるぎ号:モーリス・ファルマン形)を組立て1915(大正4)年1月に完成していた.この試作機に自作したエンジン(ルノーの空冷V形8気筒70馬力を手本にした)を搭載して公開した.この自作航空エンジンは試運転では1800rpmまでまわったという.
 このころ,京都伏見の土建業者である小畑岩次郎の長男常次郎が父親の援肋で,モ式1913年型複葉機の機体を製作していたが,これに岸式ルノー70馬力エンジンを装備し,八日市沖野原の飛行場で1915年12月に,井上武三郎(陸軍予備中尉)の操縦で試験飛行した.
 岸博士も自作機を試作しており,すでに病院構内に飛行機製作工場を設け,宗里悦太郎技帥を主任とし,モ式1913年型を1916年5月に完成し,つるぎ(剣)号と命名していた.この試作機を7月2日に洲崎埋立地で,井上中尉の操縦により滞空1時間12分の記録を作っている.その後,松江を振り出しに山陰,九州,四国を巡業して飛行した.この巡回飛行により,岸式ルノー発動機の性能を実証した.飛行機の構造,性能は,陸軍モ式1913年型に準じていた.
1915(大正4)年ころより,飛行機や航空機用エンジンを自分で試作を試みる事業家や企業が出てきるようになっていた.
 たまたま  帝国飛行協会 の主催で1913(大正3)年より,航空エンジンの製作懸賞募集が行なわれていた.岸一太もこれに応募した.賞金は1等2万円,2等1万円,3等5OOO円で,試作エンジンの提出期限は1916(大正5)年3月末日だった.申し込み者は多数あったが,期限に間に合ったのは3人で,提出された発動機は4基だった.
 出品された4基のうちエンジンの運転試験を通過したのは,島津式ル・ローン型空冷星型9気筒回転型80馬カだけで,島津楢蔵が1等賞になった.
岸一太    ルノー式空冷V型8気筒70馬力(φ96×129mm:1400rpm,55kg)
島津楢蔵 ル・ローン式空冷星型9気筒回転型80馬カ(φ105×140mm,1200rpm,36kg)
島津楢蔵   ルノー改造型V型8気筒90馬力(φ4.25×4.75inch,1800rpm,60kg)
朝比奈順一 空冷星型回転式9気筒100馬力(φ4.5×5inch,1100rpm,50kg)

岸式第3つるぎ号

 岸式2号機(岸式第2つるぎ号飛行機:全幅12.5m×全長8.55m,主翼面積40.0m2,自重480kg,搭載量250kg,全備重量730kg)は,原愛次郎工学士の設計で,岸式ルノー70馬力エンジン(空冷式V型8気筒)を装備して長沼豊丸技師が設計主任,宗畢悦太郎工作主任で進められた.前方に張出した昇降舵を廃し,主翼に深い後退角をあたえて矢羽根翼とし,ナセル短胴の先端に前車輪をつけて三車輪式を採用,V型枠組双梁で尾翼を支える型式で,独創かつ斬新な構造となった.
 岸式第2つるぎ号は稲毛海岸で井上中尉により1916(大正5)年12月12日に試験飛行したが,離陸直後左に傾いて接地大破した.失敗の原因は後退翼の設計に根本的な誤りがあるものと推定され,後に直線翼に改造して再び組立てられ,岸式第3つるぎ号となった.

赤羽飛行機製作所を設立して飛行機事業を本格化

  岸一太(東京市築地明石町の耳鼻咽候科病院長:医学博士)は,1917(大正6)年10月に医者を辞めて私財を投じて本格的な飛行機製作事業に乗り出し,岸科学研究所を創設し鉱山開発と機械製作,自動車製造に関わりはじめた.
 さらに東京市外赤羽の荒川沿岸5万坪を75万円で買収し専用飛行場(岸飛行場1917年10月竣工)とし,機体工場長に宗里悦太郎技師,機械工場長に佐々木利吉技師を,設計主任に原愛次郎工学士を,操縦教官主任に井上中尉を,庶務主任に元時事新報記者の知賢健彦とし,赤羽飛行機製作所と赤羽飛行学校を新設した.
岸式第4つるぎ号は,第3つるぎ号を基本に,主翼や各部に改修を加えた機体で,発動機は従米どおり岸式ルノー70馬力であるが,下翼を短くして両端の翼間支柱を取り徐き,上翼の両端部を張り線支持とし,一般には岸飛行場の小型モ式とも呼ばれた.
  赤羽飛行学校は1918年1月より第1期操縦練習生を採用し,第4つるぎ号(岸式第4つるぎ号飛行機:全幅13m×全長9.m×全高2.7m,自重500kg)で訓練を始めた.なお所長の岸一太は,工場敷地に赤羽神社を建立し,宮司となって祭司を務める一方で,改良マグネットを製作し販売していた.またベンツ式130馬力エンジンの試作,さらに ''' 岸式第5つるぎ号 ''' の試作を始めていた.
  赤羽飛行機製作所には陸軍からモ式六型4機の発注を1918(大正7)年秋に受けたために,工場が忙しくなった(全盛時の工員は200人を越えた).
  岸式第4つるぎ号は,岸飛行場で藤本隆一,井上喜久次郎,岡本茂雄,出田辰喜,根岸錦蔵,天王寺谷季一郎ら練習生の訓練と郷土訪問飛行などに使われ,1919(大正8)年5月10日の東京奠都(てんと)50年祭記念祝賀飛行会には,井上中尉の操縦により,洲崎埋立地で伊藤式鶴羽2号機,中島式2型,飛行協会のモ式四型と共に揃って,式場のある上野公園を中心に祝賀飛行を行なった.
  ''' 第5つるぎ号(岸式第5つるぎ号飛行機) ''' は,新しい1本胴トラクターで,岸式ルノー70馬力を前後逆にして前面に導風板をつけ,必要に応じて前席に増加燃料タンクを設け,航続8時間の長距離機とする構想であった.試験飛行で概ね良好な性能を示し,赤羽飛行学校を卒業した根岸錦蔵飛行士に譲渡され,羽衣号(はごろもごう)と命名された.しかし1921(大正10)年の夏に,航空局が新しく制定した堪航証明を受けるため,太田の中島飛行場格納庫に移して整備していたが8月18日夜に,格納庫内で火災が発生して,中にあった他の6機と共に焼夫してしまった.
  しかし,時勢にのって拡大した青森県恐山の採鉄事業が失敗して多額の負債を生じ,やがてモ式飛行機の全盛時代も終わり陸軍からの注文は4機で止まった.岸式第六つるぎ号は未完成のまま,1921(大正10)年3月に赤羽飛行機製作所,通称岸飛行場は閉鎖し,全従業員は四散し,岸一太は航空機事業から退場して行く.

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