日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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高左右/安井式TN-6改複葉機
 高左右隆之(東京市京橋区木挽町の出身)は,東京自動車製作所(1907年(明治40年)に国産のガソリン式乗用車である第1号「タクリー号」を製作した)に1905(明治38)年に入社したが,1908年に辞めて渡米した.カーチス・プッシャーを基本とした高左右式1号機を1911年に製作したが滑走中に破損してしまった.つぎに試作した2号機で飛行に成功し,飛行練習を続けて1912年に高左右式3号機で受験し飛行免状を取得した.さらに改良を加えた高左右式4号機(ホールスコット水冷式V型8気筒60馬力,全幅11.2m×全長11m,自重230kg,全備重量545kg)をもって1914(大正3)年4月に帰国した.この機体には,高左右飛行士が考案し改良した独特のスリー・イン・ワンと呼ぶ操縦機構を採用したが,これは丸形ハンドルで前後(昇降舵),左右(補肋翼),回転(方向舵)の3操作を行ない,左足で車輪ブレーキ,右足で発動機のアクセルを調節する自動車の一般的な運転動作に近いものとしていた.姫路練兵場で1914(大正3)年5月に公開飛行し,鳴尾競馬場で6月に開催された第1回民間飛行大会で滞空時間24分05秒で2等に入賞した.

沖縄の空を最初に飛んだのは高左右式5号複葉機

 高左右式5号機は機体を新しく作り直し,高左右式4号機の発動機を装備して,船便で台湾と沖縄に1915(大正4)年4月に渡り,巡業飛行と理審飛行を行なった.鳴尾で12月に開かれた第2回民間飛行大会では,滞空時間で35分30秒で1等,高度360mで2等となった.しかし翌日,鳴尾からの大阪訪問飛行において,帰りに武庫川上空で発動機が故障したため不時着した.その後に機体には,修理を加えて中国に売り渡したが,発動機は次に製作する高左右式機に使用するために手元に残した.
 高左右5号機の事故で破損したホールスコット60馬力エンジンは,大阪の中島幾三郎の経営する中島機械製作所に再整備を依頼したが出力は65馬力に引き上げられた.このエンジンを装備した高左右式TN-6複葉機は新しくトラクター式(牽引プロペラ)にして,1917(大正6)年秋に完成した.マーチン・ライト方式の機体設計で,鉄道輸送の便を考えて,胴体は座席の後部で分解可能な構造となっていた.大阪の城東練兵場で1917(大正6)年秋より飛行練習を開始したが,約1か月後に着陸事故で破損してしまった.修理の後でこの機体は京都の安井藤次郎に1918(大正7)年8月に売り渡された.高左右飛行士は,各務原で安井藤次郎にTN-6の飛行技術の指導をした後,自動車を購入するために再び米国に出掛けて行った.

安井飛行研究所と安井式3号複葉機

 安井藤次郎(京都市魚棚町出身)は,各務原で福田助手らと共に飛行練習を繰り返していたが,1年余の間にしばしば事故を起こし,そのたびに修理を加えて改修していた.1919年の秋にはとうとう安井式TN-6改複葉機と呼ぶことにした.京都の深草練兵場から郷土を訪問する年始飛行を1920年1月3日に行なった.さらに1921年の正月にも大阪へ年始飛行を行なったが,この間に数人の後輩となる飛行士を育てた.
 安井式TN-6改複葉機で地道な機体の改造を続けて飛行練習も行ない,ようやく安井藤次郎は2等操縦士に合格した.これで安井飛行士は,京都府船井郡須知町の河原に安井飛行研究所を1922(大正11)年10月に設立し,新しく安井式3号機(カーチスOX-5水冷式V型8気筒90馬力,全幅8.55m×全長5.80m,自重680kg,全備重量910kg,木製主材骨組に合板羽布張り構造)を製作した.大正期の自作民間機となるが,京都の訪問年始飛行を1923(大正12)年正月に実施した後は,練習生の飛行訓練に使用した.安井飛行研究所では,陸軍からの払下げ機も飛行訓練に使用した.

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民間人には手軽な米国の飛行学校

 1910年から1915年ころの米国では民間の航空機への関心がようやく上昇期に入った時期で,飛行機の操縦士を養成する飛行学校が13存在した.しかし十分な設備と熟練した教官が揃った飛行学校は5校ほどだった.代表的な学校としては,カーチス飛行学校とライト飛行学校(米国初のライト飛行学校が1910年3月19日にアラバマ州のモンゴメリーに開校.のちにマックスウエル空軍基地となる)があった.さらにこの2校は米国陸海軍より飛行士育成を委託されていた.どちらも外国からやってきた留学生にも入学が可能で,卒業時には万国航空協会から試験委員が派遣されて来て立ち会い,卒業試験に合格すれば,万国飛行免状が取得できる仕組みになっていた.この特典がない学校では,受験料10ドルを払って受験しなければならなかった.
 日本人が多数入学したカーチス飛行学校は,カリフォルニア州サンディエゴ港内のノースアイランドにある分校だった(本校はニューヨーク州).ロサンゼルスからは南に100マイル離れた場所にあり,早朝は風がなく,晴天日が多く雨量の少ない飛行練習に適した天候に恵まれた土地で,季節による気温変動がすくない.最初にカーチス飛行学校に入学した日本人は近藤元久で1912年1月30日だった.これに2週間ほど遅れて武石浩玻が入学した.
 近藤元久(松山藩士近藤南州の次男)は,1855年12月15日に大阪の天満生まれだが,叔父である漢学の教師・近藤元弘の養子となっていた.四国の松山中学を卒業後,1903年秋に渡米した.近藤元久は4月27日に卒業(3か月で授業料500ドル:日本円換算で1000円)し,取得したのが日本人として最初の万国飛行免状第120号だった.卒業後も米国に留まり,日本海軍より派遣された軍人たちのガイド役をつとめていた.
 チャールス.B.カーカム(Charles B.Kirkham:高回転の航空エンジン開発者)が設計し試作した牽引式複葉機のテスト飛行を1912年10月6日にニューヨーク近郊で実施していたが急に高度が下がり,イーグル渓谷の風車に翼を引っ掛けて墜落して死亡した.民間航空人として海外事故死第一号となってしまった.
 米国飛行クラブが発行する万国飛行免状をつぎに取得した武石浩玻は第122号となっている.ついで,中島知久平,山田忠治ら海軍大尉が続き,民間人としては,坂本寿一,野島銀蔵の順になっている.このほかに日本人の飛行練習生が入学したのは,スロン飛行学校とシラー飛行学校で,ロサンゼルス市から南へ18マイルに位置するドミングス飛行場にあった.

初期の飛行機事故は致命的

 米国帰りの民間飛行士第1号は,武石浩玻(こうは)飛行士で1913(大正2)年4月に帰国した,カーチス・プッシャー機(ホールスコットA2水冷式直列型6気筒60馬力エンジン,全幅12m×全長7.8m,自重260kg)を持ち帰り,「白鳩」と名付けた.武石浩玻飛行士はさっそく5月4日に,大阪の朝日新聞社が主催した都市間連絡飛行を行ない,鳴尾を出発して大阪市の城東練兵場に着陸した.さらに京都の深草練兵場まで飛行を続けたが,着陸の寸前にバランスを崩して機体が不安定状態に陥り,地上に激突して大破した.この時に武石飛行士は民間航空において最初の犠牲者となってしまった.
 さらに米国で操縦術を習得した幾原知重飛行士が,「白鳩」よりも新しいカーチス・プッシャー機(全幅12.1m×全長10.3m,全備重量550kg)を手に入れて1913(大正2)年10月に帰国してきた.
 武石機の「白鳩」は,上翼の下に2枚の三角形の垂直安定板をつけていたが,幾原機にはそれがなく,機首に垂直安定板を1枚つけていた.さらにエンジンを少し強力なカーチスV型8気筒70馬力を装備していた.幾原飛行士は11月に鳴尾から神戸へ飛行した帰路の途中で,発動機が故障して鳴尾の手前で不時着する事故を起こした.幾原飛行士はエンジンを修理後,鳴尾から大阪に向かったが,再度発動機が故障して,新淀川原に不時着した.幾原飛行士は,カーチス式陸上複葉機で12月15日に小松島上空を飛行した.
 さらに1914(大正3)年1月には,米国帰りの野島銀蔵飛行士に譲渡したが,千葉県稲毛海岸の白戸飛行場で再整備して「隼鷹」と名付けられた.この飛行機はハンドルで昇降舵と方向舵を制御し,操縦士の肩を左右に動かして補助翼を操作し,足でペダルを踏みエンジンの回転を調節する方式をとっていた.
 野島銀蔵飛行士の「隼鷹」は,1914(大正3)3月に川辺佐見,大口豊吉,玉井清太郎,玉井藤一郎らと共に台湾の理審飛行開催のため船便で台湾に渡り,台北,台南,台中,嘉義で示威飛行を行なった.その後,機体を再調整して越後高田,京都府綾部舞鶴町,金沢で飛行会を開催したが,5月25日高田で着陸後,見物人のなかに突っ込んで死者2人を出してしまった.さらに初の北海道巡業飛行を9月札幌,1O月旭川,小樽と開催して,11月郡山,12月滋賀県綾部町と巡業を続け,当時のカーチス・プッシャー機のなかでは「隼鷹」が最も目覚ましい活躍をした.
 米国に飛行機のために留学し,すでに旧式となった最後のカーチス・プッシャーで飛行士の免状を得た立石関二飛行士も,カーチス・プッシャー機(カーチス水冷式V型8気筒60馬力:全幅10m×全長8.9m.機体の構造は「隼鷹」と同じだが,機首に昇降舵がない)を製作して1917(大正6)年1月に帰国し,名古屋に協同飛行研究会を設立した.しかし1917年9月に太垣町の飛行会で着陸に失敗し,観衆のなかに突入して重傷者7人,軽傷者6人を出した.また翌月の岐阜県各務原では立石飛行士は離陸に失敗して,機体を大破してしまった.これで米国帰りの飛行士によるカーチス・プッシャー機の時代は終わる.

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