日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 福長朝雄は飛行機熱にかかり,八日市の元煎風飛行学校格納庫で1917(大正6)年にアンザニ25馬力エンジンを装備したコードロン式複葉機を製作したが飛びあがらずに失敗し滑走練習機とした.津田沼の伊藤飛行機製作所へ1918年に入校して2か月ほどの飛行練習で卒業免許を得て恵美2号機を購入して,大阪市下池田町に帰り飛行学校を開設しようと計画してした.
 しかし大阪付近には適当な場所が見つからず,故郷に近い静岡県磐田郡掛塚町の天龍川原に適切な場所を見つけ,福長飛行機研究所の看板を1919(大正8)年に掲げた.すでに何回か修理を加えていた伊藤式恵美2型複葉機は,ここで福長式「天龍3号」機に改名した.伊藤式恵美2号機に搭載されていたグレゴアジップ水冷式直列4気筒45馬力エンジンは,1911(明治44)年の森田式単葉機以来の使い込んだ発動機だから,ほとんど地上滑走練習用になってしまった.こうして福長式天龍3号機は,新しく入校した飛行練習生が使用するジャンプ程度の地上滑走を繰り返す滑走練習機として活躍した.
 つぎにルノー70馬力エンジンを装備した複座練習機が試作され,これが天龍4号機に該当するが操縦がむずかしく,教官の福長四郎飛行士が練習生を乗せて時々飛ぶ程度に使用された.続いてダラック小型自動車の8馬力発動機を装備した単葉の地上滑走練習機を製作したが,これは天龍5号機にあたる.

福長式天龍6号機から自社開発機に

 福長飛行機研究所で飛行に成功した最初の長距離競技向きの飛行機が福長式天龍6号機(イスパノスイザ水冷式V型8気筒180馬力)で,浅見富蔵技師の指導により,伊藤飛行機からきた太田喜八郎機関士が製作主任となって製作し,1921(大正10)年7月に完成した.東京代々木〜盛岡間往復の第3回郵便飛行競技大会が1921(大正10)年8月に開催され,福長四郎操縦士により往航4時間18分で,発動機が故障したため宮城県大河原に不時着した.11月に行なわれた金沢〜広島間の第4回郵便飛行競技大会には福長四郎操縦士により,途中悪天候のために岡山に不時着したが,滞空5時間04分を記録した.
 浅見技師が1921(大正10)年に設計したソッピース式に似た複座の練習機が福長式天龍7号練習機で,セールフレザー商会から購入したルローン空冷式回転星型9気筒80馬力エンジンを装備して,軽快な運動性とすぐれた上昇力が特徴とされた.完成したのは1921(大正10)年11月で,短期間の飛行練習に使ったが,福長四郎操縦士と関房蔵練習生により掛塚上空を12月15日に飛行中,発動機が故障して不時着し転覆して破損した.その後も2回不時着で破損したが,よくもち応えて修理後も飛行を続けた.
 福長飛行機研究所は浜松市の資産家・長谷川鉄男を1921(大正10)年10月に社長に迎えて,株式会社福長飛行機製作所に改名した.このころ高知県出身の吉田志郎3等操縦士のために浅見技師が新しく複座の中級練習機(ホールスコット水冷式直列6気筒125馬力)を製作し,1922年4月に福長式天龍8号機と命名した.この練習機は前席に増加燃料タンクを設けて単座の長距離飛行にも使えるようになっていた.しかし吉田操縦士が高知県幡多郡で6月18日に郷土を訪問飛行したときに発動機が故障して見物人に突込み,死者4人,重軽傷4人の死傷者を出す事故を起したために,吉田操縦士は航空界を引退したが,これは大正期の民間航空における最大の死傷事故となった.
 福長式天龍9号練習機はモ式四型のルノー空冷式V型8気筒70馬力エンジンを前後逆に取付けた複座練習機で,軽量で安定性のよい初歩練習機として,理想的な性能であったという.1922(大正11)年6月14日,航空局の審査を受けるため,佐々木利吉技師,山内豊吉雇員の立会いで飛行中に,発動機が故障して,飛行場に向け急旋回した直後に失速,錐もみ状態で飛行場に墜落して大破した.金子良一練習生は重傷を負い後に死亡し,福長四郎操縦士も軽傷を負った.
 帝国飛行協会が計画した1921(大正10)年春の上海線開拓飛行に参加するため,福長飛行機製作所が試作した長距離機が福長式天龍10号旅客機で,設計は東京市赤坂溜池の日本自動車株式会社・飛行機部で海軍機の部品を製作していた木下善寿技師を招き,浅見富蔵技師が協力して行なった.伊藤飛行機のリバティ400馬力エンジンを装備した山県記念号に対抗するため,横浜の機械商社にあったフィアット水冷式直列6気筒300馬力エンジンを購入したが,上海飛行が中止になったために,燃料タンク用のスペースを客室に変えて旅客機とした.キャビン客室は4人乗りで,その背後に並列複座の開放操縦席を置き,直列型6気筒発動機の前に大きな冷却器を取付けたため,機首が重厚で不格好な外形となっている.1922(大正11)年10月に完成し,福長四郎,五郎の兄弟操縦士により試験飛行を行ない,三方が原で航空局の検定を受け合格した.翌月,東京〜大阪間の定期式郵便飛行競技大会に参加するため,大阪に向ったが,途中で発動機が故障して奈良県木津川原に不時着して棄権した.
 下志津で1923年6月に第4回懸賞飛行競技大会に参加したが,燃料タンクを客室に移し,福長四郎操縦士により滞空競技で3時間48分を飛び4等に入り,実力250馬力といわれた発動機の不調で成績は振るわなかった.
ようやく上昇期のきざしを見せた大正後期の民間航空界で福長飛行機は,関東と関西の中間に位置したため,独自の展開を続けたが,関東大震災後は民間航空の中央統制の影響を受けて,福長三兄弟が手を引き,軍用機の払下げ機の修理,改造が主な作業となり,浜松市外三方が原に1929(昭和4)年に移り,社名も浜松飛行機製作所に変更された.

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        Expo70のイタリア館
イタリア陸軍航空隊のアルトーロ・フェラーリン中尉をリーダーとするアンサルドSVA9複葉機(SPA6水冷式直列6気筒220馬力エンジン)11機が2月14日にローマを出発し南回り経路を飛行して,5月30日にフェラーリン中尉・カッパニーニ組機とグイドー・マシェロ中尉マレット組機の2機4人が大阪の城東練兵場に着陸,翌31日に東京の代々木練兵場(現在の代々木公園)に到着した.当時の日本人観衆が6万人集まって出迎えた.ローマから東京までの1万1000マイル(総飛行距離は1万6700km)をバグダット,カラチ,広東,北京,大阪など42か所を経由して飛行を続けて,106日間(実飛行時間94時間40分)で目的地に到着した.同時に出発したうちの9機は,途中で事故や故障により脱落してしまった.そのうちの2機はメソポタミア(現在のイラク)でアラブ人に撃ち落とされたという.イタリアの航空産業は,第一次大戦の終了で余剰となった偵察機を長距離飛行用に改造し,飛行機による国際親善飛行を行なうことによって民間航空の可能性を証明した.
 日本に到着した2機のアンサルドSVA9複葉機のうち1機は日本政府に寄贈され,京都で開かれた空中文明博覧会に出品されたあと,靖国神社の境内に展示,保管されていた.日本飛行学校の教材として払い下げられたが,戦災で焼失した.1970年に大阪で開かれた万国博覧会の際にローマから東京の歴史的飛行50周年を記念してイタリア館にSVA9の原寸サイズのレプリカが出展された.万博終了後,SVA9のレプリカは日本政府に寄贈された.その後レプリカは,航空自衛隊の浜松基地にある広報館に展示されている.

アルトーロ・フェラーリン飛行士(Arturo Ferrarin)の主な飛行記録

1920年:アンサルドSVA9複葉機でローマ〜東京間の長距離飛行
1926年:米国で開催されたシュナイダー・トロフィー・レースにマッキM39水上機の3号機で参加
1927年:イタリアのベニスで開催されたシュナイダー・トロフィ・レースにマッキM52の7号機で参加
1928年6月2日:Savoia-MarchettiS64でG.カパニン少佐と2人で4764miles(7667km)を58時間30分で無着陸の周回距離飛行を記録した.
1928年7月3日〜5日:サボイア・マルケッティS.64単葉機で副操縦士マジャー・デル・プリートと2人でイタリアのローマ(モンテセイオ)から大西洋を越えてブラジル(ナタール港)まで無着陸の長距離飛行を実施した(7450kmを44時間9分,平均速度168km/hを記録).

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