日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 中島飛行機研究所は1917(大正6)年10月に,中島知久平が大阪朝日新聞社の記者・小山荘一郎の紹介で,神戸の肥料問屋・石川茂兵衛の出資を得て,群馬県尾島町字前小屋の岡田宅の一室を借り受けてスタートした.飛行機研究所の名が東大に設立された航空研究所と紛らわしいため,1918年4月に中島飛行機製作所に改称した.資金を頼りにしていた石川茂兵衛は,他の事業で失敗し財産整理に追い込まれたため,神戸の日本毛織の社長,川西清兵衛が出資の肩代わりをした.つまり川西が工場設備を中心に60万円を出資し,中島は現物(技術労務=知財)として15万円を出資して1918年5月に合資会社日本飛行機製作所を設立した.同時に経理担当の要員を送り込んできた.しかし工場経営者としての川西と,飛行機を作るという技術重視の中島とは対立し,中島知久平の独断によるエンジン100基の買い付けや郵便懸賞飛行の方針の違いから,川西は中島の留守中に所長職を一方的に解任するに至った.
 こうして日本飛行機製作所は1919年12月に分裂してしまい,中島飛行機製作所として中島知久平が引き継いだが,もう一方の川西清兵衛は1920年に兵庫県神戸市に川西機械製作所を設立しその一部門として飛行機部を設置して航空機の研究開発を続けることになった.

◇川西K-1郵便機が民間機市場への第1作目

 川西機械製作所で飛行機部の設計製作による最初の飛行機は川西K-1郵便機で,関口英二技師の主務で設計に1920(大正9)年2月より着手し,12月に試作機が1機完成した.すでに日本飛行機製作所時代に基礎設計に着手していたため,米国から輸入したホールスコット200馬力エンジンを装備したが,後でドイツから輸入したダイムラー180馬力エンジン(水冷式直列6気筒)に換装して,機体の一部を改造した.
 試作1号機は神戸の川西機械製作所で完成したが,阪神地区には適当な飛行場がなかったため,機体を分解して千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所に送って組立て,後藤勇吉操縦士により試験飛行が行なわれた.
  機体には川西のマークをつけていたが,1921年4月に航空法が施行されてから,J-TAABに書き換えた.その後で帝国飛行協会が5月に主催した第2回民間飛行競技会に後藤勇吉操縦士が川西K-1郵便機で出場し,距離競技に684.4km(4時間50分)で優勝,速度競技に190km/hで2等に入賞した.
 関口英二技師が設計して試作したのは,K-2競速機(ホールスコットL-6水冷式直列6気筒200馬力),川西K-3高速長距離通信機(マイバッハM4a水冷式直列型6気筒260馬力),川西K-5水上郵便機(マイバッハM4a水冷式直列型6気筒260馬力)を,K-6水上機を開発するまでに,試作を繰り返して市場調査を続けていた.

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