日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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2005年05月

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原著は1966年に出版され,まず訳書がポケット・ブックで出て9年後に文庫になったようだ.

 大型ハリケーンがカリブ海のさびれた小島トレス・サントスに迫っている.冒頭でこの島のおんぼろ航空会社の経営者とパイロットがコニーのトラブルについて話し合い放棄することになる.まず読者に問題を予想させる展開になる.捜索任務中に民間航空巡察隊(CAP)の単発複座の小型機(インターステイト社製L-6連絡機:フランクリン社製102馬力O-200-5エンジンを装備)が不時着する.この小型機のパイロットであるディックとエドは,島民の依頼と神父の助言で,瀕死の火傷を負った少女,急病人を含めた全島民(乗客78人)を米本土に避難させるために,島の飛行場に留置されていた4発のピストン・エンジン(R3350×4基:空冷複列星型18気筒2200馬力)旅客機ロッキード・スーパーコンステレーションに乗り込む.操縦資格も,経験もないエンジンを4基装備した旅客機を,マニュアルを読みながらなんとか2人で離陸させることができた.しかし,彼らはまだ知らない,その飛行機は昇降舵の油圧制御装置が故障しているため,この島に放棄されたことを…….ようやく水平飛行に移り,飛行日記を読むとさらなる問題がわかり....平凡な人々が,偶然迫られる重大な決断により,思いも寄らぬ結果に結びつき,さらに新しい問題に立ち向かって行くパニック冒険小説である.
 フライト・シュミレータのゲームでは,気楽にジャンボ・ジェットの操縦桿を握って離着陸のむずかしさを楽しんでいるが,単発機の100馬力と4発機の8800馬力(ジェット・エンジンの推力はさらに高出力だから)という制御しなければならない大型機のパワー・コントロール,尾輪式と前輪式など操作感の違い大きいのだろう.しかしだからシュミレータ・ソフトの人気が衰えない所以でもあろう.
 地味な飛行士ディック,陽気なエドの協力,島の神父フェララ,Tバードで寄り添って飛びながら着陸指示を与える,コニーのベテラン機長だったアッシェンブレナー少佐,なによりも恐竜のように消滅した4発のピストン・エンジン旅客機の中でも,優雅さを誇るロッキード・スーパーコンステレーション (コニー)が主役ともいえよう.もちろんロッキードC130もコニーを米軍基地に誘導するために登場する.
 著者ジョン・ボール(1911〜1988)は,元米国陸軍の航空機操縦教官出身で,この他にも航空モノ(冒険小説ではないが)として「最後の飛行」という作品もある.シドニー・ポワチエが主演した「夜の大捜査線」の原作「夜の熱気の中で」(ハヤカワポケットミステリ,1967年)が有名だが,これは黒人刑事ヴァージル・ティッブスのシリーズ第1作目である.努力と思いやり,そして鋭い観察眼と推理力をそなえた刑事ティッブスが,通りがかった南部の田舎町で殺人事件の捜査に関わり,人種差別の激しい町に乗り込んでいくストーリで話が始まる.
 あとがきでも触れられているが,ボールの作品では少数派(人種だけでなく)が重要な役割(正義の執行者)で登場する.「航空救難隊」では,主役のひとり中国系米国人の操縦士エド・チャンと混血のブラックマン・シムズ(コニーの航空機関士).執筆時期が60年代のため,当時の政治的な雰囲気を反映しているが,原作者の考え方を反映していると思われる.ボールの作品の登場人物は,ほとんどが善人ばかりで構成されている(客観的に正しい決断をしている).多くは対抗して登場する敵役も客観的には正しい判断を下している(不正なことはしていない).古き良き米国人の正義と良識を描いた小説といえよう.それが作品の読後感のすがすがしさに結びついている.

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 グラマンの次は「ロッキード」というと,かつて航空自衛隊の次期戦闘機(FX:F104 Vs F11)選びで政治屋(岸信介:安倍さんのお祖父さん)と商社が際どい商戦を行なっていたが,そろそろまた次期FXの選択する次期となったが,米国に追従する状況ではほとんど選択肢が限られているような状況らしい.そしていつの間にか,米国に次ぐ国防予算(大日本帝国なら軍事予算だが,)規模になっている.なにしろイラクにまで自衛隊を派遣する事態になっているのだから(戦後の復興支援のはずが,内乱状態では自衛隊の出番はないはずなのだが?).
 1976年の発行だから,ローグヒード兄弟による創設から始まりL1011のトライスターまでで終わっているが,ステルス機やロッキード・マーチン社として生き残り,日本との関係ではC130,F22などの追加が必要なのかもしれない.しかし本書のままでも,歴史書として文庫に収容して欲しいのだが.PHP文庫さんあたりでいかがなんでしょうか?(5月下旬にいつもの光人社NF文庫から新刊で出るようだ).米国の軍事企業と日本の防衛産業の違いは,市場を日本に限定して安定した生産の下に確実に利益を上げている点にあるように思える.

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 大日本帝国陸軍はソッピース3戦闘機に対する前段階の練習機として,英国から1919(大正8)年5月に1O機を輸入した.しかし陸軍では輸入した10機を短期間の使用で間もなく廃止し,フランス製のニューポール83E2初級練習機に切り換えてしまった.
 大日本帝国海軍では陸軍とは別に,1921(大正10)年に英国より来日したセンピル大佐らの海軍航空教官団が持参した機材の中から,初級練習機としてアブロ504K/Lを採用した.英国側の記録によると,日本へはK型陸上機を68機,L型水上機10機が輸出されている.
 こうして海軍では田中龍三造兵大佐,小山十満洲造兵大佐,馬越喜七大尉,和田操大尉,橋本賢輔技師ら28人の技術者をアブロ社に6か月間派遣して製作技術を学び,さらに製作権を購入し,中島飛行機と愛知時計電機に工作図面と実機を提供して,その製造を依頼した.
 中島飛行機では1922年から1924年にかけて水上機を含めて250機を製造し,愛知時計電機では水上機を30機の生産を担当した.陸上機をアブロL,水上機をアブロSと区別したこともあるが,海軍では単にアブロ式陸上練習機,アブロ式水上練習機としていた.
 アブロ504練習機は操縦性,安定性がともに良く,宙返りを含めたある程度の曲技飛行も可能で,当時の初級練習機としては使いやすい機材とされた.また回転星形ロータリー式エンジン(ル・ローンJ空冷式回転星型9気筒110馬力)を装備して寿命を永らえた最後の機体となった.昭和のはじめには,多数の504K練習機が民間に払い下げられ,陸軍が払い下げたニューポール式,アンリオ式と共に民間飛行学校の主力練習機となり,1937(昭和12)年ごろまで使用されたものがある.
 アブロ504練習機の日本における全機数は,中島飛行機製が250機(1922年〜1924年陸上,水上機共),ほかに愛知時計電機製が水上機を30機で,合計280機が国産,英国製の輸入機が78機となり,総計は358機に達する.
 なおアブロ504練習機の原型は第1次大戦の初期,ツェッペリン飛行船基地の奇襲や,ロンドン夜間空襲のツェッペリン飛行船に対する迎撃などで成果を挙げ,その後は英国の代表的な練習機として,各型合計で8340機が生産された.

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横須賀を母港としている米国海軍の空母「キティ・ホーク」の退役が迫り,代替に原子力推進の空母が検討されている.
仮想戦記では日本が勝利するシナリオで展開する小説だが,もし大日本帝国が勝利していたらアジアにもう1国,北朝鮮のような独裁政権の国家が存在していることになる.60年以上前の戦争を話題に出来るのは,それ以降日本は戦争の当事者でなかったことによるだろう.
  安全とされる原子炉が定期点検の手抜きで配管のボイラー部が破断する事故を起こす事故があった.公営企業とされる電力会社の原子力発電プラントでも事故が発生する.それが軍艦に搭載する原子力エンジンの場合には,どこまでが安全なのだろうか?この本は原子力空母が訓練中に事故に会い(ソ連の原子力潜水艦と太平洋上で衝突する),日本のドックまで運び修理しようとする米国海軍の潜水艦と水上艦艇,日本の潜水艦,ソ連の潜水艦による戦闘ゲームを記述したものである.単純な核アレルギーによる原子力空母を忌避する前に,東京湾を原子力空母の母港にすることによる予想される事態(平時における最悪の場合も考えた想像力をもっていなければならないだろう)に,どう対応するのか明確にしておくべきだろう.なにしろ,軍艦という危険物なのだから....

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瓦斯電KR-1 第12義勇号水上機  瓦斯電KR-2 小型旅客機

 東京瓦斯電気工業株式会社が1932(昭和7)年に自社で開発した航空エンジン(空冷式星形7気筒「神風150馬力」)を装備した小型旅客機の開発を社内で進めて,試作したのが国産旅客機「瓦斯電KR-1」(乗員1+乗客3人)である.
 当時の三井物産機械部が英国から輸入したデ・ハビランドDH83フォックス・モス軽旅客機を基本として,神風150馬力を装備して国産化した複葉輸送機で,「小型旅客機」のローマ字略称を型番にしてKR-1となった.
 機体構造はデ・ハビランド社独特の主材の木製骨組構造を流用して,合板整形,羽布張り構造で,双フロートとの交替が可能な水陸両用とし,フロートは千葉市のデルタ造船所が製作を担当した.
 試作1号機は1年後に完成し立川飛行場で赤池万作操縦士により,1933(昭和8)年12月23日に初飛行した.続いて羽田で公開飛行を1934年1月27日に行ない,3月15日には羽田で水上機(乗員1+乗客2人)の披露飛行を行ない,このとき「千鳥号」という愛称が公表された.製作機数は1933年〜1934年に合計7機だった.1号機を含めて3機(J-BBJI,BBMI,BBNI)が双フロート付きの水上機となり,堺市の日本航空輸送研究所が使用して,大阪〜四国,大阪〜白浜の定期航空輸送,およびチャータとして運用されたエアタクシーに使用された.つぎの2機は海防義会の第12,13義勇号として製作され,日本航空輸送研究所に無償貸与された.そのほかに台湾国防義会,満州国営口海辺警察隊が使用した.
 続いてKR-2が開発されたが,これはKR-1を性能向上させたもので,同じ発動機と全備重量(964kg/水上機988kg)として,速度と航続力を向上させた改良型である.そのため主翼を全面的に再設計して,全幅は変わらないが下翼を2.4m短縮し,翼端部を放物線に整形して,主翼面積は22m2から17.8m2に縮小している.
 改良型となったKR-2の試作1号機は1934年11月17日に羽田で初飛行したが,速度は向上したものの離着陸滑走距離が長くなり,上昇性能もわずかに低下してしまった.なお生産が進むにつれて,細部の改修が行なわれ完成度が高くなった.しかし後半期には海軍の審査を受けて,舵面などにも改修を加えて,海軍の特用連絡輸送機として陸上基地と航空母艦との連絡に用いられた.製作機数は1934〜1939年に12機である.
 KR-2の1号機J-BLIBは,帝国飛行協会の第12号海外同胞号として1935年3月に東京航空輸送社に,協会第14号朝鮮同胞号が1936年5月に朝鮮航空事業社へそれぞれ貸与して,主としてエア・タクシー機として使用された.さらに東京航空輸送社に1機,営口海辺警察隊へ1機,読売新聞社に2機の採用が続いたが,その後は海軍の連絡輸送機として製作された.こうしてKR-1とKR-2の合計19機が千鳥号の愛称で呼ばれた.
ところで東京瓦斯電気工業株式会社(1913年設立)は第二次大戦前に存在した重機械工業分野の企業で,空冷星形エンジンの開発(日立航空機),東大・航空機研究所の航研機の組立を担当,自動車の製造(現在の日野自動車),武器(小銃)の製造をしていた.地味なため中島飛行機ほどには知られていないがガス電という略称で親しまれた会社だ.ガス電の発足はガス器具の製造から始まり,砂型鋳物の技術から発展してエンジンなどの鋳鋼製品に進出したエンジニアリング企業である.しかし1922年に負債3000万円で経営破綻し強制和議により,資本金を600万円から60万円に減資して企業としては存続するかたちで日立製作所に買収された.航空機,自動車,工作機械の3事業に分割して日立製作所が受け継ぎ,日立航空機,日立工作機(日立精機,日立ビアメカニクス),日立兵器の3社が設立された.

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