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フォッケウルフFW200の試作1号機は1937年7月27日に設計者のクルト・タンクが操縦して初飛行した.FW200コンドルは近代的なエンジンを4基装備した民間旅客機として開発されたため,表面が平滑なリベットと軽合金構造を採用した新世代の長距離輸送機だった.1938年のヨーロッパの空を飛ぶ民間旅客機の主力となって運航されていたユンカースJu52/3mとダグラスDC-3の後継を目的として登場した.
この輸送機はドイツのルフトハンザ航空が北大西洋を無着陸で飛行可能な長距離旅客機として南アフリカ路線用に開発を依頼したものだった.試作機には米国製プラット&ホイットニー社製ホーネットS1E-G空冷星型9気筒エンジン(875馬力/652.5kW)を4基装備していたが,製造ライセンスを得たBMW132Lが量産機には装備された. Fw200コンドルは乗員は4人で長距離(3500km)を26人の乗客を載せて4360Lの燃料で飛行する旅客機として登場した.フォッケウルフFw200旅客機は,1938年8月10日にベルリンからニューヨークまで6558km(4075マイル)を無着陸で24時間55分で飛行した.なおニューヨーク〜ベルリンへの帰路は,19時間47分で飛行して8月14日にベルリンに戻った.いわば新型民間旅客機のお披露目としてのデモ飛行となった. さらに1938年11月28日にベルリンを出発したFw200は,東京まで3か所(バスラ,カラチ,ハノイ)を経由して所要時間46時間18分で飛行して11月30日に到着した.しかし帰路の第一航程で燃料切れのためマニラ近郊に不時着した. Fw200Aは第2次,第3次試作として9機が製作されたが,2機はデンマークのDDL,2機はブラジルのリオデジャネイロのコンドル・シンジケート航空会社に,残りの5機はドイツ・ルフトハンザに販売された. こうしてFw200Bとして量産がブレーメン工場で開始されたが,BMW製132Dc空冷星型9気筒エンジン(850馬力/633.8kW)を装備していたが,2号機からBMW132H(830馬力/618.9kW)に換装された. しかしルフトハンザの営業路線は短距離ルートが多かったため,Fw200コンドルは同社には大きすぎて採算が合わなかったために,さらに追加注文することはなかった.そのため外国への輸出にも力が入れられた.日本の大日本航空から5機の注文があった.その後にフィンランドのエアロOY航空から2機の注文を得ていた. しかし第2次大戦がはじまってしまったために,これらの注文は納入されなかった. そして適切な長距離海洋哨戒機を開発していなかったドイツ空軍は,Fw200を軍用機に転換して利用することになった.そのためFw200Cは量産が始まっていたが,旅客機から海洋哨戒機に改造してドイツ空軍に納入された.民間機として開発されたために機体強度や乗員保護に問題があったが,軍用機となったFw200は1944年に生産が中止されるまでに276機を製造し,ドイツ空軍に納入されたのは263機だった.もし第2次世界大戦がなければ,ドイツのFw200,米国のL049コンステレーション,DC-4が大西洋横断路線を競合する4発レシプロ・エンジン旅客機の時代が1940年代に到来していたのだろう. |
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運輸省(現在は国土交通省)から個人が所有できる乗用車の開発を促進するための目安として国民車構想(定員が4人または2人で100kg以上の荷物を積み,最高速度100km/h以上で,販売価格が25万円以下)が1955(昭和30)年に発表された.これに応じて自動車メーカーより独自に開発した乗用車が発表された.新三菱重工業(現在は三菱自動車工業として分離独立)が1960年に発売した小形乗用車が三菱500(当時の販売価格は39万円)だった.
モノコック構造ボディに曲面ガラスを採用した本格的な自家用車(総排気量493ccの空冷4サイクル直列2気筒21馬力エンジンを後部に搭載した後輪駆動RWD/4輪独立懸架サスペンション)として前評判はよかったが,販売台数は予想外に伸びず1万5000台弱を生産して,1963年にモデル・チェンジしてコルト600に引き継いだ.まだ軽自動車が排気量360ccの時代だったから小型車は圧倒的に不利な環境だった.1962年に行なわれた第9回マカオ・グランプリ・レースのAクラス(750cc以下)で1〜3位に入賞した.いわば三菱コルト初代の先行モデルである. |
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米国の航空機メーカーだったロッキード社が1940年代に開発したロッキード・コンステレーション(Lockheed Constellation)は, 機体を与圧構造とした大型のレシプロ・エンジンを4基装備した旅客機(乗客は40人)で,「コニー」"Connie"の愛称で呼ばれた.細い機首が主翼付け根部より太くなって後部尾翼に続く曲線的な胴体の形状に, 3枚の垂直尾翼を配置して, 独自の形態とした試作1号機が初飛行したのは1943年1月9日だった.
米国の航空会社トランス・ワールド航空(TWA:当時はまだTrans Continental & Western Air社)の社長ジャック・フライ(Jack Frye)はDC-4(後にDC-4Eと区別している)プロジェクトに不満があったために,より高速で,高高度を飛行する経済性に優れた旅客機の開発を内密にロッキード社(社長:Bob Gross)と合意していた(仮発注35機).これによってロッキード社のカリフォルニア州・バーバンクの工場で1939年より開発が始まりパンナムも40機を発注していた.真珠湾攻撃によって米国も第2次世界大戦に参戦したために, コンステレーションの開発は遅れて初期型「L049」が1943年に完成したが内装が豪華な点を別にして, 米国陸軍航空隊向けの輸送機「C-69」(軍人63人を載せて3685kmを飛行可能)に変更して納入された. ようやく1944年4月17日にハワード・ヒューズはコンステレーションにジャック・フライとTWAのクルーで米国大陸の横断飛行記録に挑戦して6時間57分で実現した.こうして1945年9月までに納入されたC69は15機だった.また1945年8月4日にC-69輸送機にTWAの操縦クルーが搭乗して,ニューヨークからパリまで14時間12分で飛行した. 第2次世界大戦が終わり, 連合軍側の戦勝国を中心に民間航空が再開され1946年2月にはDC-4旅客機による運航が始まった.ロッキード社は トランス・ワールド航空とパンナムの航空向けにL049(ライト社製R-3350星型18気筒ターボ・コンパウンド・エンジン:2200馬力;B29と同じエンジン)の生産を始めて88機を製作した.速度と豪華な内装に,米大陸を無着陸で横断可能なコンステレーションは米国の国内線では圧倒的な地位を確立した. しかしコンステレーションは墜落事故を1945年〜1946年に架けて連続して発生したため,1946年7月から8月の6週間に渡って飛行を停止して原因を追求した.結局ライトR-3350サイクロン・エンジンの発火や過熱が事故原因とされた. さらに海外へ飛ぶ国際線においてダグラスDC-6に対抗するために,1947年になるとエンジンを換装し巡航速度を向上させた「L749 "コンステレーション"」(48〜81人乗り)が開発された.この改良型L749も米国空軍の輸送機「C-121」として1948年に採用され, アイゼンハワー大統領の専用機もC-54(DC-4)からVC-121(ColumbineII:コロンバインII)に切換えられた.米国海軍も哨戒機(PO-1W,WV-1)としてL749の導入を決定していた. しかし, これでもまだ航続距離は大西洋を無着陸横断するには十分ではなかったために, 1950年には翼端に燃料タンクを追加して胴体を延長した「L1049 "スーパー・コンステレーション"」(109人乗り:ニューヨーク〜ロス・アンゼルス間を直行可能), 1956年には最終発展型の「L1649 "スターライナー"」が投入され,4発レシプロ・エンジン(カーチス・ライト社製ターボ・コンパウンド・エンジン3400馬力/2535kW)を装備した旅客機として頂点を極めたが, 2年後の1958年2月に生産が終了した.なにしろL1649はロス・アンゼルスからロンドンまで北極経由で19時間の無着陸飛行を実現したのだ.ロッキード社は後継機としてL188"エレクトラ"などのターボプロップ旅客機を開発したが,航空会社はボーイング707などのジェット旅客機を導入したため主役から貨物機に変身して去っていった. 生産が開始された1943年〜1958年までの間に, 民間型, 軍用型合わせて856機(軍用機は331機)が製作された.現在もごく少数が飛行可能な状態で保存されている. |
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ユンカースJ1はヒューゴー・ユンカース(Hugo Junkers)が1915年に試作した単葉・単座の全金属製実験機(メルセデス製DII6気筒88kWエンジンを装備)である.ユンカース社が製作した最初の機体だったが,まだ鋼板(機体の素材は厚さが0.2mmの鋼板を使用)を使用した全金属製単葉機で,支柱や張り線のない片持単葉主翼とした先進的な機体構成になっていた.しかし主翼の翼の付け根が異様に太かった.
しかも鉄板を使ったために機体の重量は937kgになってしまい,従来までの羽布張りのフォッカー EIIIが400kg程度であるのに比べて重量が過大となってしまった.試作した単葉戦闘機は1915年12月12日に初飛行した.試験飛行において飛行速度が170km/hに達し,この当時の単葉機としては高速を記録したが,逆に旋回性能は非常に悪く, また機体が重すぎて上昇性能も悪かった. このころの戦闘機としては,旋回性能と上昇性能の2つが悪いのは致命的で,試作の1機で開発は中止され次の機種J2(軍用コードはE2)の開発に移行した. 1916年1月にはドイツ軍から全金属製機J1の上昇性能を改善した実験機J2の試作機6機がユンカース社に発注された.J2の試作1号機は1916年7月11日に初飛行した.試作機の試験飛行の結果,戦闘機として1飛行当たりの飛行可能時間を5時間以上にすることを要望された.J2の5機はより強力なメルセデスDIIIエンジン(118kW)を装備して,プロトタイプより少し大きな主翼に改造した.しかしエンジンが重くなったために搭載重量は100kg減少してしまった.結局,J2でもドイツ軍(IDFLIEG:German Airforce)の要求する仕様を実現できないことがわかり,開発は打ち切られた. マーダ博士(Dr. Mader)とスタデル(Steudel)が中心となってジュラルミン素材を用いた機体構造を実験するJ3プロジェクトが,1916年の夏にユンカース社の開発資金で単座の戦闘機と複座の偵察機の試作が行なわれた.しかしユンカース社はこのプロジェクトのために1916年10月に経営危機に陥り,開発が中断した.しかしアルミ軽合金パイプ構造の胴体とアルミ軽合金の波形パネル構造の主翼を試作して設計に必要なデータは十分に検討されていた. 1916年11月にドイツ軍はユンカース社に軽合金製の複葉・複座戦闘機を発注した.これによって,ユンカース社は鉄板構造より6割の重量軽減が可能なジュラルミン(高力アルミニウム)構造を機体に採用した複座の複葉戦闘機J4(ベンツ社製DIV147kW)を1917年に試作した.J4はユンカース社の社内呼称でJ1というのは軍隊のコードである.試験飛行の結果J4は正式にドイツ軍に採用されて1919年2月までに227機が製造された(3機の試作機を含めて). |



