日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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最初に鉄製の船体を持った蒸気船は,1822年に英国のスタフォードシャーのチップトンにあるホースレイ鉄工所(Horseley Ironworks)で製作した部品をテムズ川のロザミアにあるサーレイ造船所(Surrey docks)で組み立てた.この鉄船の平底は,厚さ6.35mmの鉄板をリベットで接合した蒸気貨物船「アーロン・マンビー(Aaron Manby)」(長さ36.6m×幅7m,積載量116トン,マスト兼用煙突の高さ14.3m)で,30馬力の蒸気機関を装備してヘンリー・ベル(Henry Bell)が設計した直径12フィート×幅1.5フィートの外輪(セーヌ川では最大梁の長さが23フィートに規制されていた)を駆動していた.
  甲板には木甲板を採用し,機関室と船倉は鉄の隔壁を使用した.5月の試運転では9ノットで航行したが,6月からロンドン〜パリ間をアマニ油と鉄材を積んで定期運航した.その後フランスの観光業者が購入してセーヌ川の遊覧船として5年間運航していた.その後はロアール川で遊覧船として1855年まで使用された.鉄製の蒸気船は,当時の木造蒸気船よりも1フィート喫水が浅くなる利点があった.

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世界史の大航海時代に残された最後の北東航路(Northeast Passage:北大西洋から北極海をアジアの北岸に沿って東に航海してベーリング海峡を通って太平洋に出る)というのは, 北極海をユーラシア大陸のシベリア北方からベーリング海峡を抜けて北太平洋へ至るルートのことだった.この航路は年間の大半が氷に閉ざされているため, 蒸気船が登場するまで帆船による航行は不可能なルートだったが, 実際に北極海の北東航路を蒸気船で横断したのは,1878年になってからである.最後の冒険航海となった北東航路は, 1879年に1年を掛けてスウェーデンのノルデンショルド(Nordenskiold)が蒸気船ヴェガにより航行に成功した.
さらに途中で越冬することなく航海できるようになったのは, 砕氷船が登場した1932年以降のことになる.
 1879年9月2日に,スウェーデン国旗を掲げた蒸気船ヴェガ(Vega:60馬力の蒸気機関を装備,長さ43.3m×幅7.9m,排水量357トン)号が横浜港に入港した.この蒸気船の日本到着は,初めて北極海の北東航路を航海して北太平洋に貫けたものだったから世界から注目を集めた.
 アドルフ・エリック・ノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskiold)が率いた30人の北極海探険航海隊は,北ヨーロッパから北太平洋の日本まで北東航路を通る初めての航海に成功した.これで北大西洋から北極海を経由して太平洋に貫ける北東航路を実証したノルデンショルドの航海は,科学探険の歴史では伝説となった.
 北ヨーロッパから東アジアへの最短航路と考えられていた北極海の北東航路を通って太平洋まで航海可能という予言が,何世紀にもわたってヨーロッパで信じられていた.部分的にはすでに多くの冒険者達が北極海の北東航路の周辺を航海していた.
 ノルデンショルドは北東航路を実際に航海して日本に到達したことによって,アジアへの冒険航海として北ヨーロッパを出発し,北東航路を西端から東端まで実際に蒸気船で航海することが可能なことを初めて証明した.探検計画はスウェーデン王オスカル2世(OscarII)によって承認され,探検航海の費用は,大部分をイエテボリ(Goteborg)の木材商人オスカル・ディクソン(Oscar Dickson)が負担し,一部は国王自身,またロシア商人アレクサンドル・シビリャコフ(Alexander Shibiryakov)も負担した.
 こうして捕鯨船だった蒸気船「ヴェガ号」を北東航路を探検航海するための旗艦として装備した.船長はルイス・パランデル(Louis Palander)で,乗組員は30人だったが,ロシア語通訳として探検隊に参加した20歳のフィンランド人,オスカル・ノルドクイスト(Oscar Nordquist)中尉もいた.
 ノルデンショルドは,これまでの北東航路への探検航海は,海岸線からはるかに離れた航路をとったために横断に失敗したと考えていた.当時は,夏はシベリアの川から流れ出る水によって北極海は凍結することはなく,海岸近くの水域であれば航行可能であると信じられていた.北東航路への実証航海は1878年7月4日に,スウェーデンのイエテボリを出発し,計画に沿って順調に航海していたが,9月28日にベーリング海峡から航海距離にしてわずか2日の120海里のピトレカイ沖で船は流氷に囲まれてしまった.もし探検隊がその場にほんのわずかに2〜3時間早く到着していれば,または沿岸からさらに離れた場所を航行していれば,その夏中に北東航路の航海を完了できていたかもしれない位置だった.
  一隻の米国の北極探検船がサンフランシスコを1879年7月8日に出港した.この船は米国の海軍軍人で探検家だったジョージ・ワシントン・デ・ロング少佐(George Washington De Long:1844〜1881)の率いる北極探検船「ジャネット(Jeannette)」号(420トン)だった. 船にはデ・ロング隊長以下32人が乗り組んでいた. 
 これまでのほとんどの北極海を探検する船は, 大西洋側から北極海へと入っていたが, 太平洋からベーリング海峡を経て北極海に入ろうとしたデ・ロングの探検計画は, この点で目新しいものだった. 
 ゲデンシュトロムはノヴァヤ・シビリ島東方海上を調査中,1809年に途方もなく広い開氷面に行き当たり,この海域は冬でも凍らないと考えた. こうして, シベリア北方海域には広大な開氷面「シベリア開放海」がある, という説が信じられるようになった.さらにフランスの水路学者ラムペールは, 太平洋から暖流がベーリング海峡を通って北極海の奥深くへ流れているから, 北極海の中心部には氷がなく, 広い開放海になっている, とする説を1867年に発表した.この説を信じれば, ベーリング海峡から海流に乗って北極へ到達することができることになる. またドイツの地理・地図学者アウグスト・ハインリヒ・ペーターマン(August Heinrich Peterman:1822〜78)もこの「北極大開放海」説に賛同していた.そしてデ・ロングはこの説に従って北極点へ到達しようと考えていたのである. 
 ところでデ・ロングの探検隊は,はじめスウェーデンの探検家であるN.A.E.ノルデンシェルド(Nils Adolf Erik Nordenskiold:1832〜1901)の「ヴェガ(Vega)号」の救出を目的としていた. ヴェガ号は1878年7月18日に北東航路(大西洋からユーラシア大陸の北方を経て太平洋へと至る航路)探検のためにノルウェーのイエテボリを出発しベーリング海峡へ向かったまま, 消息不明となっていた.
 これを知った「ニューヨーク・ヘラルド』(New York Herald)新聞社の社長だったジェイムズ・ゴードン・ベネット(James Gordon Benett: 1841〜1918)は,新聞社として捜索隊を派遣することを試み,デ・ロングはこの企画に乗って北極海の探検航海に出発したのである.
 かつて「ヘラルド」紙は1869年, ナイル川の探検中に行方不明になった探検家デイヴィッド・リヴィングストン(1813〜73)を捜索するために, ヘンリ・モートン・スタンリー記者(1841〜1904)をアフリカに派遣し, 1871年にリヴィングストンを無事発見し報道した実績があった.
 しかし実際にはヴェガ号は, ベーリング海峡までわずか約220kmの地点で氷に閉ざされ1878年9月28日に動けなくなっていた. だが同船は1879年7月18日に,氷から解放され20日にベーリング海峡を通過していた. そのため, デ・ロングがジャネット号で北極海に入ったころ(8月29日)に, ヴェガ号は北東航路を通過して無事に北太平洋を横浜へ向かって航行していたのである. これを聞いてデ・ロングは, ジャネット号の進路を北極へと向けた.
 ようやく氷海に閉じ込められていたヴェガ号まで氷の割れ目が達し,越冬を終えて1879年7月18日に航海を再開して北東航路を実証するために続行することができた.ノルデンショルドの航海前の入念な準備によって,探検隊は幸運にも壊血病やその他の不幸な事態に遭遇することはなかった.ただしベーリング海峡に到達する直前に流氷に阻止されたのが,唯一の予想外の事態だった.またルイス・パランデル船長の航海術がなければ,航海は成功しなかっただろう.ノルデンショルド自身は北極圏の探検家ではなく,当時の評判では「ノルデンショルドほど氷を恐れた学者はいない」といわれ,北極圏の船旅では,いつも船酔いをしていたという.
 無事に北東航路の実証航海を終えたヴェガ号は横浜を10月11日に出港し神戸に向かい,神戸には13日に到着し,そこから一行は京都と琵琶湖を訪れた.探検隊は10月21日に長崎に到着し,出島を訪れた.ヴェガ号は,長崎を10月27日に出港し,太平洋を西に航海して途中,香港,シンガポール,スリランカ,スエズ運河を通る南ルートを航行し,ナポリ,ローマ,リスボン,ロンドン,コペンハーゲンに停泊し,ストックホルムには1880年4月24日に到着した.

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 蒸気船シリウス号(Sirius:703トン長さ54.3m×幅7.6m/250馬力)はアイルランドのコークを4月4日に出航し,ニューヨークに到着したのは4月23日の午前中だった.このシリウス号は,ブリティシュ&アメリカン蒸気航海会社(British and American Steam Navigation Company)が,自社船のブリティシュ・クイーン(British Queen:1850トン)号が造船所の経済問題により完成が遅れたために,蒸気船による大西洋の初横断記録を手に入れるために2航海だけの傭船契約したものである.
 しかし大西洋を横断する航海中に蒸気を発生する燃料として石炭を航海中に使い切ってしまったために,客室の家具やマストを1本燃料代わりの木材として燃やしてようやく,大西洋横断航海(3000マイル)を18日間と14時間22分で完了した.この航海による平均速度は6.7ノット(15km/h)だった.
 そしてシリウス号はニューヨーク港を5月1日に出航しファルマスには5月18日に到着した.この航海の平均速度は6.9ノットだった.その後で大西洋の往復航海は7月に行ない,もとの海峡横断サービスに戻った.
 ライバルの蒸気船グレート・ウエスタン号(Great Western:1350トン長さ64.6m×幅10.8m/450馬力)は,英国のグレート・ウエスタン鉄道がブリストルからニューヨークまで営業路線を延長するために,ブルネルに大西洋を横断可能な蒸気船の設計を依頼したことから大西洋航路の競争が始まった.こうしてイザンバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:技術者)が設計し,モーズレー・サンズ(Maudslay , Sons&Field)社がグレート・ウエスタン号を製作した.この蒸気船はジョシュア・フィール(Joshua Field)が考案した外輪(直径8.76m)を回転させて進む方式をとっていた.
 グレート・ウエスタン蒸気船会社(Great Western Steam Ship Company)のグレート・ウエスタン号はブリストルを4月8日に出航して15日後の4月23日午後にニューヨークに到着した.先に出発したシリウス号のわずか4時間後だったという.つまりグレート・ウエスタン号は大西洋横断の航海日数をシリウス号より3日間短縮し,さらに200トンの石炭を残していた.平均速度は8.6ノット(16km/h)だった.
 結果としてこれが大西洋横断航路の速度を競うブルー・リボン賞のきっかけとなるものだった.グレート・ウエスタン号は蒸気船による大西洋の初横断という記録はシリウス号に先を越されたが,汽船として最初にブルー・リボンを掲げるに値する大西洋横断速度記録を残した.さらに米国から英国への航海でも,シリウス号は18日間で航海したがグレート・ウエスタン号は15日間(14日17時間30分)で航海して英国に戻った.この航海の平均速度は8.6ノット(16km/h)だった.
 1839年になると,グレート・ウエスタン号はシリウス号の姉妹船ブリテッシュ・クィーン(British Queen)号とともに米国まで航海した(所要日数は13日6時間:平均速度9.6ノット).こうして大西洋横断航路に蒸気船が使用されるようになった.
 
 コロンブスが新大陸を発見した航海のあとには,数えきれないほどの帆船が大西洋を航海していた.1819年に米国船籍の補助蒸気外輪付き帆船サバンナ号(Savannah:350トン)をヨーロッパで売却するために,5月26日に75トンの石炭を満載してニューヨークを出航し,26日後に英国のリバプールに6月20日到着した.アイルランドの海岸に着いたときは石炭は使い切っていた.このころの帆船には蒸気機関を補助エンジンとして装備し,帆船の速度が4ノット(7km/h)以下になると蒸気機関を使用する方式だった.サバンナ号では18日間は航行に蒸気機関(蒸気シリンダは直径40インチ×行程6フィートで傾斜した低圧力の蒸気エンジンだった)を使用した.
 しかしサバンナ号はヨーロッパに買い手が見つからず米国に戻る大西洋横断航海では,外輪推進機構を取り外して帆走で航海した.さらに1833年にもカナダの外輪推進式蒸気船ローヤル・ウイリアム(Royal William)号が英国に売却されたために,330トンの石炭を積み込んでノバ・スコシエを8月17日に,30人の乗客を載せて出航した.途中で嵐に遭遇して右舷の蒸気機関が故障して浸水が始まった.蒸気機関の修理が完了するまでの10日間は帆走し,ロンドンに着いたのは9月12日になっていた.この大西洋横断の航海日数は26日間だったが,船長は蒸気機関だけで大西洋を横断した最初の蒸気船と宣言した.しかし事実としては,当時の蒸気機関は4日に1日は蒸気機関を止めて海水に含まれる塩分を清掃して除去する必要があったと思われる.
 では現在の高速フェリーを利用した場合には大西洋を横断するのにどのくらいかかるのだろうか?
オーストラリアのIncat社が製作したCat-Link V(自重450トン,全長91.3m,ディーゼルエンジンを4基装備して3万4000馬力)が1998年7月20日にヨーロッパ大陸の海峡フェリーに回送する途中で米国から英国への大西洋横断航海で記録したのは,所要日数2日20時間9分で平均速度は41.3ノット(76km/h)という数値だった.160年という年月が経過しているが,シリウス号とCat-Link V(カタマラン形式のアルミ船体+水ジェット推進)の船のサイズはかなり似たものとなっている.

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2006年のF1GP開催日程が公表になった.
 新しいV8形2.4Lエンジンにレギュレーションが代わり,予選方式も新しくなるようだ.
 2005年と同じように19レースが行なわれるようだ(ブラジルが確定していない).
3月12日のバーレーンGPから始まり,翌週19日にマーレシアGPでオーストラリアGPは4月2日となった.これはメルボルンで開かれるスポーツの祭典「コモンウェルス大会」と日程を調整したためである.
 ヨーロッパでは4月23日にサンマリノGP,5月7日にヨーロッパGP,翌週14日にスペインGP,モナコGPは5月28日,英国GPは6月11日に,アメリカ大陸ではカナダGPが6月25日に,US GPは7月2日に開催される予定だ.
 またヨーロッパ大陸に戻ってフランスGPは7月16日になった.
2006年はフランスの独立記念日の週末となる日程で,観客は3日間のグランプリを楽しむのだろう.
 なにしろ1904年6月26,27日にフランス自動車クラブがルマン近郊の公道を閉鎖したサーキットを利用して開催した第1回フランスGrand Prixレース以来の100周年記念GPレースとなるからだ.すでに2005年のF1GPシーズンは,ルノー・チームがドライバー選手権とコンストラクター選手権を獲得して素晴らしい成績を残した.タイヤもミシュランが米国GPを除けば,完全勝利といえるだろう.車体のゼッケン番号のNo1とNo2を手に入れてルノーは,第1回グランプリ・レース優勝車でも走らせるのだろうか?
 また2006年にはサッカーのワールドカップがドイツで開かれるが,日程を調整することによってTV観戦や,観客減という影響を避けて,ドイツGPは7月30日になったようだ.そのためハンガリーGPは翌週の8月6日に開催される.
 夏休みとして3週間休んでトルコGPは8月27日に,イタリアGPは9月10日で,ベルギーGPは翌週の17日になる.
アジアでは日本GPが10月1日に,翌週8日に中国GP,最終は10月22日に開催予定のブラジルGPとなっている.

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