日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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世界史の大航海時代に残された最後の北東航路(Northeast Passage:北大西洋から北極海をアジアの北岸に沿って東に航海してベーリング海峡を通って太平洋に出る)というのは, 北極海をユーラシア大陸のシベリア北方からベーリング海峡を抜けて北太平洋へ至るルートのことだった.この航路は年間の大半が氷に閉ざされているため, 蒸気船が登場するまで帆船による航行は不可能なルートだったが, 実際に北極海の北東航路を蒸気船で横断したのは,1878年になってからである.最後の冒険航海となった北東航路は, 1879年に1年を掛けてスウェーデンのノルデンショルド(Nordenskiold)が蒸気船ヴェガにより航行に成功した.
さらに途中で越冬することなく航海できるようになったのは, 砕氷船が登場した1932年以降のことになる.
 1879年9月2日に,スウェーデン国旗を掲げた蒸気船ヴェガ(Vega:60馬力の蒸気機関を装備,長さ43.3m×幅7.9m,排水量357トン)号が横浜港に入港した.この蒸気船の日本到着は,初めて北極海の北東航路を航海して北太平洋に貫けたものだったから世界から注目を集めた.
 アドルフ・エリック・ノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskiold)が率いた30人の北極海探険航海隊は,北ヨーロッパから北太平洋の日本まで北東航路を通る初めての航海に成功した.これで北大西洋から北極海を経由して太平洋に貫ける北東航路を実証したノルデンショルドの航海は,科学探険の歴史では伝説となった.
 北ヨーロッパから東アジアへの最短航路と考えられていた北極海の北東航路を通って太平洋まで航海可能という予言が,何世紀にもわたってヨーロッパで信じられていた.部分的にはすでに多くの冒険者達が北極海の北東航路の周辺を航海していた.
 ノルデンショルドは北東航路を実際に航海して日本に到達したことによって,アジアへの冒険航海として北ヨーロッパを出発し,北東航路を西端から東端まで実際に蒸気船で航海することが可能なことを初めて証明した.探検計画はスウェーデン王オスカル2世(OscarII)によって承認され,探検航海の費用は,大部分をイエテボリ(Goteborg)の木材商人オスカル・ディクソン(Oscar Dickson)が負担し,一部は国王自身,またロシア商人アレクサンドル・シビリャコフ(Alexander Shibiryakov)も負担した.
 こうして捕鯨船だった蒸気船「ヴェガ号」を北東航路を探検航海するための旗艦として装備した.船長はルイス・パランデル(Louis Palander)で,乗組員は30人だったが,ロシア語通訳として探検隊に参加した20歳のフィンランド人,オスカル・ノルドクイスト(Oscar Nordquist)中尉もいた.
 ノルデンショルドは,これまでの北東航路への探検航海は,海岸線からはるかに離れた航路をとったために横断に失敗したと考えていた.当時は,夏はシベリアの川から流れ出る水によって北極海は凍結することはなく,海岸近くの水域であれば航行可能であると信じられていた.北東航路への実証航海は1878年7月4日に,スウェーデンのイエテボリを出発し,計画に沿って順調に航海していたが,9月28日にベーリング海峡から航海距離にしてわずか2日の120海里のピトレカイ沖で船は流氷に囲まれてしまった.もし探検隊がその場にほんのわずかに2〜3時間早く到着していれば,または沿岸からさらに離れた場所を航行していれば,その夏中に北東航路の航海を完了できていたかもしれない位置だった.
  一隻の米国の北極探検船がサンフランシスコを1879年7月8日に出港した.この船は米国の海軍軍人で探検家だったジョージ・ワシントン・デ・ロング少佐(George Washington De Long:1844〜1881)の率いる北極探検船「ジャネット(Jeannette)」号(420トン)だった. 船にはデ・ロング隊長以下32人が乗り組んでいた. 
 これまでのほとんどの北極海を探検する船は, 大西洋側から北極海へと入っていたが, 太平洋からベーリング海峡を経て北極海に入ろうとしたデ・ロングの探検計画は, この点で目新しいものだった. 
 ゲデンシュトロムはノヴァヤ・シビリ島東方海上を調査中,1809年に途方もなく広い開氷面に行き当たり,この海域は冬でも凍らないと考えた. こうして, シベリア北方海域には広大な開氷面「シベリア開放海」がある, という説が信じられるようになった.さらにフランスの水路学者ラムペールは, 太平洋から暖流がベーリング海峡を通って北極海の奥深くへ流れているから, 北極海の中心部には氷がなく, 広い開放海になっている, とする説を1867年に発表した.この説を信じれば, ベーリング海峡から海流に乗って北極へ到達することができることになる. またドイツの地理・地図学者アウグスト・ハインリヒ・ペーターマン(August Heinrich Peterman:1822〜78)もこの「北極大開放海」説に賛同していた.そしてデ・ロングはこの説に従って北極点へ到達しようと考えていたのである. 
 ところでデ・ロングの探検隊は,はじめスウェーデンの探検家であるN.A.E.ノルデンシェルド(Nils Adolf Erik Nordenskiold:1832〜1901)の「ヴェガ(Vega)号」の救出を目的としていた. ヴェガ号は1878年7月18日に北東航路(大西洋からユーラシア大陸の北方を経て太平洋へと至る航路)探検のためにノルウェーのイエテボリを出発しベーリング海峡へ向かったまま, 消息不明となっていた.
 これを知った「ニューヨーク・ヘラルド』(New York Herald)新聞社の社長だったジェイムズ・ゴードン・ベネット(James Gordon Benett: 1841〜1918)は,新聞社として捜索隊を派遣することを試み,デ・ロングはこの企画に乗って北極海の探検航海に出発したのである.
 かつて「ヘラルド」紙は1869年, ナイル川の探検中に行方不明になった探検家デイヴィッド・リヴィングストン(1813〜73)を捜索するために, ヘンリ・モートン・スタンリー記者(1841〜1904)をアフリカに派遣し, 1871年にリヴィングストンを無事発見し報道した実績があった.
 しかし実際にはヴェガ号は, ベーリング海峡までわずか約220kmの地点で氷に閉ざされ1878年9月28日に動けなくなっていた. だが同船は1879年7月18日に,氷から解放され20日にベーリング海峡を通過していた. そのため, デ・ロングがジャネット号で北極海に入ったころ(8月29日)に, ヴェガ号は北東航路を通過して無事に北太平洋を横浜へ向かって航行していたのである. これを聞いてデ・ロングは, ジャネット号の進路を北極へと向けた.
 ようやく氷海に閉じ込められていたヴェガ号まで氷の割れ目が達し,越冬を終えて1879年7月18日に航海を再開して北東航路を実証するために続行することができた.ノルデンショルドの航海前の入念な準備によって,探検隊は幸運にも壊血病やその他の不幸な事態に遭遇することはなかった.ただしベーリング海峡に到達する直前に流氷に阻止されたのが,唯一の予想外の事態だった.またルイス・パランデル船長の航海術がなければ,航海は成功しなかっただろう.ノルデンショルド自身は北極圏の探検家ではなく,当時の評判では「ノルデンショルドほど氷を恐れた学者はいない」といわれ,北極圏の船旅では,いつも船酔いをしていたという.
 無事に北東航路の実証航海を終えたヴェガ号は横浜を10月11日に出港し神戸に向かい,神戸には13日に到着し,そこから一行は京都と琵琶湖を訪れた.探検隊は10月21日に長崎に到着し,出島を訪れた.ヴェガ号は,長崎を10月27日に出港し,太平洋を西に航海して途中,香港,シンガポール,スリランカ,スエズ運河を通る南ルートを航行し,ナポリ,ローマ,リスボン,ロンドン,コペンハーゲンに停泊し,ストックホルムには1880年4月24日に到着した.

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