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明治時代の大日本帝国には,男爵とか侯爵など21世紀の現在からは,想像もつかない身分制度があっ
たようだが......
伊賀氏広は,四国は土佐宿毛のもと藩主で,陸軍に入営中,空から敵状を偵察する飛行器の発明を,思い
立ち,1911(明治44)年3月除隊後,伊賀式飛行牒の模型を製作し,同年9月に特許を取得した.
まずはじめに竹を素材とした自家製の単葉滑空機を試作して,1911年3月16日に東京の板橋で自動車に
よる曳航した滑走の実験を行なった.その後,1911(明治44)年の夏には,動力つき単葉飛行機の製作を始
めた.これには大阪の老鋪銀錺商「丹金」の主人である島津楢蔵(国産オートバイ第1号車を製作したエン
ジン技術者)が,試作していたアンザニ式を国産化した島津式アンザニ空冷式扇型3気筒25馬力発動機を機
体に取付けて,同年12月に完成した.
主翼の小骨に弾力性をもたせるため,竹材を使用,弓師の協力をもとめ,夫人の実家岩村男爵の孫である
早大生の岩村九八と太田祐雄(後のオオタ自動車社長)の助力を得て,発動機から機体部品まですべて国産
品を使った試作機(全幅8m×全長7.5m,自重は205kg)が出来上がった.
こうして1911(明治44)年12月24日に東京の代々木練兵場で,田中館博士,徳川大尉らの立会いで滑走試
験を行なったが,発動機が不調で飛行しなかった.その後,伊賀家の反対により飛行機の研究を中止してし
まった.試作した機体は日野熊蔵の手に渡り,伊賀式舞鶴号を改造して日野式3号機となった.1912(明治
45)年4月20日に福岡において滑走試験を行なったが飛行までには到らなかった.さらに浮舟つきの水上
機に改造した日野式4号「神風号」(フロートの全長2.2m:日野式3号改ともいう)として,1912年9月25日
に長崎港外の鼠島で滑走テストしたが,飛行しなかった.
飛ばなかった民間の自作飛行機は,ほかにもある.二宮忠八だって模型の飛行器は飛んだけれども,
実物大では,成功したかどうかは,試作していないのだからわからない.
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