日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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◇日本のF1のルーツ

かつて本田がフル・コンストラクターとしてF1に参加したのは,41年前(1964年8月)に開催されたドイツGP(ニュールブルクリンク・サーキット:1周22.8kmを15周)で,アイボリー・ホワイトに赤い日の丸を塗装した1台のRA-271と米国人ドライバーのロニー・バックナム(28歳)による出走であった.
1959年から挑戦していた2輪モータサイクルの英国マン島TTレースにも,ホンダチームは3年目でようやく,排気量125cc(2RC143:空冷4サイクル並列2気筒DOHC4バルブ)と250cc(RC162:空冷4気筒DOHC4バルブ)の2クラスで1位から5位までを獲得することができた.日本の2輪モータサイクル・メーカーが世界の舞台に進出し,日本国内に高度成長の萌芽した状況にあったのだ.
そして1964年に東京でオリンピックを開催することで,ようやく第二次世界戦争の傷跡から立ち直り戦後が終わりつつあった時期でもある.
2輪バイク車メーカーから4輪の自動車メーカーに移行しようとしていた本田技研工業は,1963年1月から「F1プロジェクト」に着手し,2輪バイクのエンジン技術を基本に水冷,横置き60度V12気筒エンジン,4バルブ,全転がり軸受け支持による組み立てクランク・中央クランク部出力取り出しによる,6速ギヤ・ボックス一体構造構成のF1エンジンの開発を進めてきた.このエンジンの排気量は1.5Lで,京浜気化器製12連キャブレータにより,1万2000回転/毎分で最大出力220馬力を実現したものである.1964年3月まで金色に塗られたプロトタイプのRA-270を鈴鹿サーキットでテスト走行する一方で,フル・コンストラクターとして参加することになったため,2月よりF1シャーシの開発も進めており,RA-271を組み立てた.7月中旬にパン・アメリカン航空のカーゴ便で,羽田→ニューヨーク→アムステルダムと空輸して,ベルギーの本田アロスト工場で最終組み立て,チェックを行なった.
 まずオランダのザントフルト・サーキットでRA-271のテスト走行を実施した.
ヨーロッパ大陸内のホンダF1チームの移動には,フランスのワロン社製トランスポータ(シトロエンの大型トラックを改装:フレンチ・ブルーをベースにHONDAは黄色,ホンダのマークは白に塗装)2台とVW社マイクロバスの組み合わせによるF1サーカス団となった.

◇1964年のF1ドイツGP

 当時の西ドイツでF1GPが開催されたニュールブルクリング・サーキットは,ドイツ・アイフェル山中に位置する一周23kmの山岳コースで,ホンダF1チームはサーキットにRA-271と機材を運搬した.サーキットに移動後,AvDの走行前車検によるとRA-271には,オイル・キャッチ・タンクがないことを指摘されたが,コカコーラの空き缶を急造した代用品で間に合わせた.タイヤはダンロップ,オイルはBPという組み合わせだった.
 不安定な12連キャブレータを調整して何とか予選に出走して,ロニー・バックナムは22位となる9分34.3秒を記録した.これはポール・ポジションのジョン・サーティーズ(フェラーリ158:V8エンジン)が記録した8分38.4秒と比べて56秒遅い.予選21位のジャンカルロ・バガッティ(BRM P57)の9分14.6秒からも20秒離されている.とはいえ,24台のエントリーに対して初参加で22台の出走メンバーに入ったのである.まずポルシェ718(空冷4気筒)のカレル・ゴーディン・デ・ビュフォートは,土曜日の予選中に事故って出走せず(ドライバーは8月3日に死亡).もう1台のシロッコ・クライマックスSPに乗るアンドレ・ピレッテは予選落ちとなっている.   
 こうして8月2日に行なわれた西ドイツGPの決勝にはバックナムが乗ったホンダF1はグリッド最後列からスタートし,12周目には9位までに浮上した.しかしカルッセルの手前でスピンしてコースサイドでサスペンションを大破してリタイア(原因は鍛造品のナックル・アームの疲労破損)してしまった.
このレースで優勝したのは,フェラーリのジョン・サーティーズ,2位がBRMのグラハム・ヒル,3位がフェラーリのロレンツェ・バンデーニという結果であった.予選2位のジム・クラーク(ロータス・クライマックス33)は8周目にエンジン・トラブルでリタイア,予選7位のブルース・マクラーレン(クーパー・クライマックスT73)も5周目にエンジントラブルでリタイアしている.
 
ホンダF1の参戦1年の第2戦はイタリアGPのモンザ,第3戦は米国GPのワトキンス・グレンとなっていた.

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★航空史の参考書

 吉村昭さんの歴史小説「虹の翼」があります.

 京都新聞に1978(昭和53)年3月5日〜12月31日まで「茜色の雲」という題名で連載し,1980(昭和55)年

9月20日に文藝春秋社から単行本が刊行されている.文春文庫に「虹の翼」が収録されたのは1983年9月

である.

 横浜の日の出町の古本屋で,文春文庫版「虹の翼」を150円で購入した(奥付によると,第二版が1991年

3月発行となっている).

 この本は明治の日本で「飛行器」を考えて,模型実験をしていた二宮忠八の生涯を,飛行機ファンの

ひとりとして時代と環境に影響されてしまう人間の能力と運命をたんたんと記述したものです.第二次

大戦前には,大日本帝国の発明家として教科書に載るほど有名だった人物が,戦後の日本国の教科書や

航空史ではあまり重要視されないのは,軍隊内部の不手際を国威発揚に置き換えたことの反省なのだろ

うか?

 つまりようやく地元の偉人として見直されて来たものの,客観的に業績から適切な評価をしているの

だとも考えられます.ある意味では,陸軍歩兵大尉として機械技術者だった日野熊蔵も取り上げている

のも,二宮忠八がもう少しあとの時代に生まれていたとしても,日本の軍隊という組織では下士官であ

る限り,才能やアイデアを適切に発展させることが可能なフレキシビリティは存在しなかったというこ

とであろう.

 日野大尉の機械技術者としての能力を,官僚化した旧帝国陸軍では新しい技術の導入初期には有効に

利用したが,発展段階になると徳川工兵大尉の予備的な役割に留め,次第に正規の枠外に追いやってし

まうものである.

 ようするに,二宮忠八という人は,初期の飛行機事故で亡くなった人を祀る航空神社を京都府綴喜郡八

幡町に建立した,飛行機の好きな薬業関係の経済人だったということになる.

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