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国産飛行機の発祥地と日野熊蔵
「臨時軍用気球研究会」(日本で初めての国立航空機研究機関)が1909(明治42)年に創立され,本格的な飛行機の研究が始まった.実際に作業を担当する委員には,陸軍と海軍の軍人,民間の専門家で構成されていた.この委員の1人に,日野熊蔵陸軍歩兵大尉(熊本県人吉出身)が参加していたが,委員会の研究活動とは別に,飛行機好きな技術者個人としても飛行機の設計に取り組み,独力で外国の書籍(英国,米国,ドイツ,フランスの航空雑誌や飛行機開発関連書籍)を参考に日野式1号単葉機(全幅8m×全長5m,自重は110kg,全備重量180kg,製作費は2000円)を,東京市牛込区五軒町の林田木工所で製作していた.1909年12月より機体の試作をはじめ,1910年2月に完成した.ということで,「国産飛行機発祥の地」という区指定の史跡が新宿区西五軒町12番地 にあるそうだ.
飛べない日野式1号機 この日野大尉が試作した機体には竹と桧材を利用しており,発動機はダラック式自動車から流用して改造したもの(ダラック改造2サイクル空冷式8馬力)を装備したものである.日野式試作1号機には,日野大尉が操縦士として搭乗し,1910(明冶43)年3月6〜18日に東京の戸山が原で滑走実験をしたが,地上滑走だけで終わってしまった.それでも地上滑走練習機として,研究会に1910円で買いとられた. 日野大尉はその後,徳川好敏大尉とともに欧州に渡り,航空先進国ドイツで飛行機の操縦を習得し,グラーデ単葉機を購入して帰国した.こうして1910(明治43)年12月19日に東京の代々木練兵場で「日本初の公式飛行」に成功している. しかし日野大尉は自作機による飛行の夢を実現するために,1911(明治44)年には公務外の余暇に自分で設計した発動機を,東京陸軍工科学校の実習室で試作して,日野式2号単葉機に装備した.日野式2号機は機体だけではなく,エンジンも自作したものとなった.日野大尉は日野式2号機(日野式30馬力:全幅9.2m×全長5.7m,自重170kg,全備重量320kg)を1911(明治44)年5月23〜25日に青山練兵場で滑走練習を行なったが離陸には失敗した.さらに日野大尉はこの2号機で,1911年8月25日に国民新聞社の後援で代々木練兵場で滑走試験をしたが,これにも失敗した.続いて川崎競馬場に場所を変えて滑走試験を行なったが,またも離陸することはなかった. 日野大尉はこれらの自作飛行機の開発に私財を投入してもなお開発費が不足したため,3000円近い負債を背負い込んでしまった.そのためメンツを重視する大日本帝国陸軍は,自分の研究に没頭して軍務を怠ったとして,1911年12月少佐に進級させ,研究会を免職し,福岡の歩兵連隊に左遷転属させてしまった.九州でも日野式3,4号機は飛べず とうとう飛行機マニアとなってしまった日野少佐は,都落ちしてもなお飛行機に対する情熱は冷めなかった.飛ばなかった伊賀式舞鶴号を手に入れて改造して日野式3号機を作り上げた.こうして日野熊蔵は1912(明治45)年4月20日に福岡で3号機の滑走試験したが飛行はしなかった.さらに浮舟つきの水上機に改造した日野式4号「神風号」(日野式3号改ともいわれる)を,1912年9月25日に長崎港外の鼠島で飛行試験をしたが,これも飛行しなかった.
日野式4号「神風号」の後,日野熊蔵はいったん航空界を引退したが,1937(昭和12)年に無尾翼グライダーを考案し,萱場製作所を経て木村秀政さんが受け継ぎ,HK-1(萱場1型無尾翼グライダー)の名で1938(昭和13)年に伊藤飛行機製作所が製作し,無尾翼機の飛行研究を行なった |
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