日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 粟津実(京都本願寺に縁故のある)は飛行機の研究家として京都に飛行教育会を1918(大正7)年ころに創設した.さらに野島銀蔵飛行士の指導のもとに京都桂川久世橋の河原一帯を整地して,通称桂川飛行場を開設して,粟津飛行研究所を設立し飛行機の製作を始めた.野島飛行士が青島(ドイツの中国植民地)から運んできたメルセデス・ダイムラー70馬力(水冷式直列4気筒)エンジン(旧ドイツ軍が予備として保管していたもの)を利用して複葉トラクター式飛行機の試作へと作業が進んだ.機体の設計は粟津所長と野島銀蔵飛行士が担当し,製作は玉井清太郎の弟だった玉井照高が担当した.実際の試作作業は羽田の飛行機研究所で行なわれ,1919(大正8)年3月に完成した.東本願寺法主であった大谷光演帥により青鳥号と命名されて,羽田の三角洲砂浜で玉井照高飛行士の操縦により1919年7月18日に初飛行した.その後で8月に鉄道で四日市に運び,築港埋立地から8月26日に離陸して亡兄の弔い追悼飛行を行なったが,悪天候により不時着し転覆してしまった.玉井照高は機体を修理した後,京都の深草練兵場から京都訪問飛行を行ない,青鳥号は粟津実に引き渡された.

粟津飛行学校の開設

 その後で粟津は,青鳥号のほかに自動車発動機を改修したフランクリン35馬力エンジンを装備した栗津式3号滑走練習機を揃えて,岡本定次郎飛行士と片岡文三郎飛行士を教官として迎え,粟津飛行学校を開校した.そのあとに粟津は,陸上機であった青鳥号を水上滑走機に改造して琵琶湖に水上飛行場を導入するきっかけとなった.

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